nagajisの日不定記。
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ぱんぱかぱーん。ぱ、ぱ、ぱ、ぱんぱかぱーん。記念すべき300回目である。継続は力也を地でゆく本部録"のメインコンテツンである。思えば(以下略)。ではどうぞ。
先日五條市街で見かけた看板。ここまで共感を拒む看板はなかなか無かろうと思う。品詞分解したら各々の語の意味はわかるのだけれども、繋げるとさっぱりだ。「癌の」も「天敵」もわかるけれども、「癌の天敵」って何だろう。抗癌剤とか放射線治療とかそういうことか。しかし癌って自分の細胞が癌化するのであって敵と表現するに相応しいものがあるようには思われぬ。続く「毒菌を指摘す」はこれ一行で完結しているのか、それとも「国」あるいは「社」にかかっていくのか。後者だとすればそれによって何を意味しようとしているのか。そのうち国、社ってナンダという話になり、小学校の時間割表記が思い出され、しかし「協力願う」の主語にはなり得ないと思い直して結局共感を断念せざるを得なかった。国語と社会にお願いしてもどうにもならないだろうし先ず以て何をお願いしようとしているのかからして解らない。
下に掲げられている一文も謎。 知識や知恵で答えが見いだせないなら、一体どうしたらいいのだろうか。行き当たりばったりで問題解決すべきということだろうか。それにしては看板をつくって掲げるほど用意周到じゃないか掲載者は。
「不可能也」と強く出られると「はあそうだったのか」と思わざるを得ず、しかしじゃあどうすればが皆目わからない故に自分の愚かさを詰られた時のような思いがする。それもまた共感を遠ざける遠因になっている。
日本建築家協会近畿支部奈良地域会主催でパネル展が行われているとのことだったので行ってみた。今回の調査で見つかった物件を中心に数十件を写真にて紹介。良い物件がこれだけ見つかれば、他県に劣らない立派な報告書になるだろうと思って安心した。
主催が主催だけに建築重視の内容なのは仕方ない。が、せめて端駆橋か池原橋くらいは取り上げてほしかった。 また目立つ物件ばかりだと他がくすんで見えてしまうから困る。うちはそういう華がないからなあ(悔しければ個人でパネル展やるといいよ>nagajis)
御杖小学校以外にも現存する木造校舎は山のようにある。あと助詞の修正を失敗した誤植が一件。
天理の市街地図と御所市史をゲット。これで第38号がらみが調べられる。御所市史には葛城水電の話が一切なく、かわりに水越峠の元禄の騒動を詳しく書いた記事をコピっておいた。当然ながら2600年がらみだとは書かれていず。
天川丹生街道の峠名について補足。「奈良県吉野郡史料」中巻天川村の条の道路の項目に次のようにある。
其の支線に天川街道あり字象牙嶺より川合に至る延長二十八町五十間丹生を経て下市に通ずるの要路たり(強調筆者)
なので、電索がT8に描いた図にある「蔵毛峠」はぞうげとうげと読むべきだったことがわかる。而してこれらは江戸時代の改修記録で「雑木峠」とされていた件から繋がるものと思われる(雑木=ゾウキ=ゾウゲ)。日本には象がいなかったので最初に象牙という字が充てられていたあるいは地形を象の牙に準えて地名がついたとは思いにくい。雑木が繁っていたからゾーキと呼ばれ、それが蔵毛や象牙と書き表されるようになったと考えるのが自然じゃないかしらん。
そんな峠は大正の改修で大きな切り通しが作られ切抜峠という呼称が生まれた。それがコモンセンスになる前に川合トンネルができ、正式名称があやふやなまま廃峠となった。哀れなことである。なお吉野郡史料の道路の項では洞川小南嶺から天ノ川伝いに大塔へ向かう山上街道、黒滝から小南峠隧道までの洞川街道、して天川街道の順に掲げられている。これが当時の幹線度の順だったようだ。同書は大正8年に発行されているが調査は明治年間とのことなので、天川丹生街道が大正3年に改修されたことが抜けている。また県にとっての山上街道は下市から小南峠を経て洞川に達する補助里道であった(明治26年頃、だったっけ)。
気づいている人にとっては何を今さらだろうが、路線や峠の名称が視点によってコロコロ変わる(起点側、終点側で呼び名が異なる)ことが多かったことには注意しなければならない。また時代によって名称が二転三転することもよくある。 道路史を紐解こうとする際によく行き当たる面倒さで、固結びになっているそれを我慢してほどかなければならない。面倒臭がって快刀乱麻ったらかえって混乱を助長するだけだ。気を付けろよ>nagajis。
昨晩ラジオで耳にしたニュースが記事になってた。初代の六郷川橋梁の図面模写が見つかったというもの。消えると残念なので全文引用。おもにKINIAS用。
明治5年、新橋・横浜間で日本最初の鉄道が開通してことしで 140年になりますが、開業当初、多摩川に架かっていた木造 の橋の図案を書き写したものが兵庫県三田市で見つかり、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料として注目さ れています。
見つかったのは、開業当初、多摩川に架かっていたイギリス人設計の木造の橋の図案を模写したもので、兵庫県三田市にある三田藩主、九鬼家の旧住宅に残されていました。 縦72センチ、横1メートル5センチの大きさで橋げたや橋脚当時の多摩川下流の呼称にちなんで「六郷川ブリッジ」と英語で書き込まれています。
調査に当たった三田市によりますと、これは、九鬼家の一族で、明治時代に鉄道技師を務めた九鬼隆範が残したものとみられ、三田市は、日本最初の鉄道の橋の図案の模写が見つかったのは初めてではないかとしています。
鑑定した鉄道総合技術研究所は、「橋の構造が細かい点まで描かれている。西洋の技術を日本がどのように受け入れたかもうかがえ、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料だ」と話しています。