nagajisの日不定記。
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昭和十六年十二月二十六日十九時三十分香港完全占領せり。開戦以来わずかに、十九日、英国の東亜に誇る要塞を陥落す。実に皇軍の勇戦奮闘する将士の事を考え有難き極みなり。
愛校作業なれども雨のため午前中は中止し柔道場に於て相撲行わる。予は二人を破りたれども遂に三度目に野方に破られ残念なり。以後は随意自習なりたり。個人訓育あり。午後は愛校作業ありて「シンチ」より植木を取り幼年学校まで運ぶ。道昨日の雨のために悪く偏上靴並に巻脚絆は土によごれ困難したり。随意自習にして非常に心ゆっくりせり。今日は誠に鍛錬の日にても愉快な日にてもありたり。
それで、廃道ツアーなるものを考えなければならなくなったわけだが、得心のいくアイデアがなかなか出て来ず苦心している。ツアーのねらいや行き先(これは廃道を巡るというツアーが最終的に目指すところという意味で)はとても共感を覚えるし、ぜひとも成功させたく尽力致度候なのだが、何というかこう、アウフヘーベンするための何かが足りない。縦4マス空きで縦棒待ってるのにL字ブロックが落ちてきたような、56677の一盃口狙いにまた7自模ってきたようなもどかしいアイデアしか浮かばない。化学反応の触媒みたようなものが欲しい。
最初なので真面目に書いておくがこれで一儲けしようとは私もTさんも考えていない。廃道に価値を見い出そうという活動とその布教活動である。パックツアーの既存概念を打ち壊すことが期待されている(誰からよ)ゆえに何か違う別の異なるものをしなければならないのだがそれが浮かんで来ず困っている。nagajisクライシスである。
しょっぱなから飛ばす必要はないだろうし、いきなり未探索廃道へ行くわけにもいかない(そういうのはORJのOFFにとっとくって)けれども。うーん。ここは大人しくふつーのことをしておく場面なのだろうか。
蝶番の概念のあるテトリス。ブロックの一部が蝶番でつながっている。
↓ ここに蝶番 ■■□□
回転させるとブロックの形が変わる。
■ ■ □ □ ↓ □□■ ◆ あるいは □□■ ■ ↓ □ □ ■ ■
で、蝶番のついている側が右か左かでもブロック形状が変わると。◆はさすがにあれなので磁石でくっつくことにでもしとけばいい。右回転左回転で形状も変わるな。
24日に立派なキャベツを頂いた。キャベツの親玉的キャベツである。隣のナタと比べていただきたい。
それで早速、お好み焼きを作って食べた。(おたふくソースの賞味期限が1年過ぎていたのを除き)大変おいしくいただいた。
…カオスである。全部解説してたら1日かかるカオスである。なぜキャベツをいただいたのか。なぜイブの夜なのか。ナタが台所にあるのはどういうわけか。これをお好み焼きというのか。1年前といえば愛宕の時か。etcetc。
PC100のDIMMメモリ128MBがお亡くなりになった・・・。あほなことをするからだ。どっかに64MBが転がってたような気がするんだが発掘できず。また買ってくるのも憚られるような時代遅れかつ中途半端な容量だから余計に困る。
地味に作成中。これもなかなかうまいこと行かない。#1の時は最初から使う画像とデザインとが頭にあったのでそれほど悩まなかった(姑息な手段にはあたま悩ませたが)けれども、2番目になるといろいろ考えなきゃいけない。「#1のレイアウトを踏襲して統一感を出すのか」「0704以降のデザインを使って#3につなげるか」「統一感のないORJの具現として全く別の何かにするか」etcを検討しなければならない。困ったものだ。何パターンか作ってはみたがワンパターンである、例のごとく。全部nagajisの慣性によらなければならないから時間がかかるのだ。
これも以前に愚痴ったが、nagajisにはデザイン力がないのだ。いやいや、デザインをするための基礎概念がないのだ。江戸以前の歴史を知らずに明治維新を説くようなもので、下地となる基礎が無いということがどれだけ不安定なことか、こういう場面で思い知ることになるのだ。
ツアーの件もそうだが、判断の根っ子がぐらついているというのが一番いけないことだろうと思う。全部ぶん投げて出来上がったもの即ち作品みたいな開き直りができたほうが多分いいものが出来る。自分を信じろとは死んでも思いたくないが。
めんどくせえ。
告示第60号 一志郡波瀬村の道路供用廃止 広報第28号
県令第18号 道路取締令施行細則中改正 広報38号
告示第91号 県道敷の一部共用廃止【四日市市大字末広町字末広】 広報40号
告示第183号 多気郡領内村に於ける土地供用廃止 広報第59号
告示第210号 府県道路線認定供用開始【本文欠】 広報第63号
告示第211号 府県道白瀬梅戸井線、家城新町線、合川白塚線、穂原宇治山田線、明白子線、変更並富田停車場線廃止【本文欠】 広報第63号
告示第256号 道路供用廃止 広報第81号
告示第268号 天ヶ瀬府県道改良事務所の位置並名称変更 広報第87号
告示第280号 道路供用廃止【度会郡小川郷村大字川口字高坂】 公報第95号
告示第483号 道路の供用廃止【員弁郡白瀬村大字本郷字国重】 広報第180号
告示第553号 道路供用廃止【川添相可停車場線・多気郡西城田村大字野中字イザ怪】 広報第203号(付録誤記)
告示第554号 道路供用廃止【府県道梅戸井桑名線・桑名郡桑部村大字桑部字中貝戸ほか】 広報第202号(付録誤記)
告示第555号 道路供用廃止【府県道梅戸井多度線・員弁郡大泉村大字大泉字野郷ほか】 広報第202号(付録誤記)
告示第568号 道路供用廃止【伊勢寺松阪線・飯南郡松江村大字井村字西里中ほか】 広報第210号
告示第574号 道路供用廃止【津岐阜線・桑名郡深谷村大字下深谷部字北川原ほか】 広報第213号
告示第587号 道路供用廃止【多気郡西外城田村大字の中字里中】 広報第218号
告示第605号 道路供用廃止【南牟婁郡荒坂村大字二木島浦字相川】 広報225号
告示第613号 国道路線道路区変更 広報第228号
告示第641号 道路供用廃止【多気郡西外城田村大字野中字イザ垣内】 広報第242号
告示第179号 鈴鹿峠改修事務所廃止 広報第303号
広報第229号 道路供用廃止【国道2号線・鈴鹿郡坂下村大字坂下字下石倉、字上中町】 広報第315号
広報第259号 土木工事施行の為国県道並河川堤塘無料使用の件 広報第319号
(広報第305号 大河内土工保護森林組合設立許可 広報第335号)
告示第352号 道路附属物供用開始【府県道上野丹波市線五月橋】 広報第349号
告示第353号 道路付属物供用廃止【府県道上野丹波市線渡船場】 広報第349号
告示第354号 *道路付属物管理者指定 公報第349号
告示第469号 道路公共用用途廃止【度会郡浜郷村大字神田久志本字浜道】 広報第389号
告示第485号 府県道路線認定【亀山能褒野線、神戸伊勢神戸停車場線、太郎生家城線、伊勢柏崎停車場宮原線、八幡大石停車場線】 広報第393号
告示第486号 同上変更【府県道入鹿木本港線、瀞木本港線、宮前大石停車場線、白口六軒停車場線、竹原大石停車場線】 広報第393号
告示第496号 道路供用廃止【三重郡内部村大字采女字春雨2箇所】 広報第395号
告示第588号 野見坂府県道改良事務所廃止 広報第429号
告示第647号 道路供用廃止【多気郡津田村大字津留字大久保2個所】 広報第449号
告示第813号 道路供用廃止【一志郡八知村字深ノ口外4個所、竹原村大字竹原3個所】 広報第506号
告示第831号 道路供用廃止【多気郡津田村大字津留字大久保】 広報第512号
告示第848号 道路供用廃止【南牟婁郡神志山村大字金山字大高見】 広報第519号
告示第72号 道路供用廃止【南牟婁郡飛鳥村大字神山字才神】 広報第552号
告示第80号 道路供用廃止【多気郡三瀬谷村大字佐原字上中通】 広報第555号
告示第124号 道路供用廃止 広報第568号(本文欠)
告示第171号 道路供用廃止【宇治山田市大字浦口町字浦口】 広報第586号
告示第179号 道路供用廃止【飯南郡大河内村大字阪内字柳ヶ島】 広報第588号
告示第188号 道路供用廃止【多気郡津田村大字津留字大久保】 広報592号
告示第223号 道路供用廃止【飯南郡花岡村大字田村字六才】 広報第602号
告示第241号 道路供用廃止【度会郡五ヶ所村大字五ヶ所浦字合神】 広報第608号
告示第270号 道路供用廃止【一志郡大井村大字井生字巡り出】 広報第617号
告示第310号 道路敷供用廃止【四日市市大字末広町字末広町】 広報第625号
告示第329号 道路供用廃止【南牟婁郡神志山村大字神木字長通】 広報第632号
告示第361号 道路供用廃止 広報第641号
告示第428号 道路供用廃止 広報第663号
告示第432号 道路供用廃止 広報第664号
告示第478号 道路供用廃止【飯南郡宮前村大字下滝野字柏野】 広報第680号
告示第488号 道路供用廃止【飯南郡宮前村大字宮前字中谷、字浦出】 広報第680号
告示第496号 道路供用廃止【四日市市大字千歳町字千歳町】 広報第682号
告示第504号 道路供用廃止【北牟婁郡赤羽村大字島原字金剛橋2個所】 広報第684号
告示第511号 道路供用廃止【度会郡大内山村字安間谷口2個所】 広報第689号
県令第65号 三重県土木費支弁規程中改正 広報第704号
告示第619号 道路供用廃止【飯南郡松尾村大字丹生寺字折戸】 広報第720号
告示第692号 道路供用廃止【度会郡四郷村大字北中村字宮後2個所、字大谷】 広報第736号
告示第755号 道路供用廃止【多気郡西外城田村大字土羽字平林】 広報第753号
告示第777号 道路供用廃止【多気郡相可町大字東池上字鍬迫間】 広報第760号
告示第898号 府県道改良工事川添事務所設置 広報第783号
告示第899号 大杉道改良事務所廃止 広報第783号
告示第902号 道路供用廃止【一志郡宇気郷村大字柚原字ケゾ2個所、念垣内】 広報第784号
告示第922号 道路公供用廃止 広報第788号
告示第113号 鈴鹿郡亀山町地内道路の供用廃止【鈴鹿郡亀山町大字亀山字西京口】 広報第814号
告示第195号 飯南郡大石村地内道路供用廃止【大石村大字小片野字惣作】 広報第842号
告示第464号 河芸郡大里村地内道路供用廃止【大里村大字東浦、天王前2個所、前田、東谷、菖蒲3個所、恐シ、北山2個所】 広報第900号
告示第465号 *員弁郡神田村地内道路供用廃止【神田村大字鳥取字下野】 公報第900号
告示第512号 河芸郡若松村地内道路供用廃止 広報第912号
告示第779号 揖斐長良川架橋事務所設置 広報第989号
告示第838号 道路の供用廃止(飯南郡松尾村地内)【松尾村大字丹生寺字高須】 広報第1005号
告示第942号 府県道改良工事川添事務所廃止 広報第1028号
告示第961号 道路の供用廃止(多気郡東黒部村地内) 広報第1034号
告示第972号 国有地の公共用用途変更(北牟婁郡引本町地内)【字築地官第884番2・護岸敷27歩】 広報第1037号
告示第974号 道路の供用廃止(員弁郡東藤原村地内) 広報第1038号
告示第1038号 土地の用途変更の件(三重郡富州原町地内) 広報第1056号
告示第1056号 道路の供用廃止(多気郡東黒部村地内) 広報第1063号
告示第1062号 道路の供用廃止(桑名郡桑名町地内) 広報第1065号
告示第1081号 土地の公供用廃止(鈴鹿郡井田川村地内) 広報第1069号
告示第1088号 道路の供用廃止(桑名郡桑名町地内) 広報第1071号
告示第1096号 土地の公供用廃止(河芸郡上野村地内) 広報第1072号
告示第1107号 道路の供用廃止(那賀郡花垣村地内) 広報第1073号
告示第16号 道路の供用廃止(名賀郡矢持村地内) 広報第1076号
告示第58号 府県道路線認定(波瀬松阪線外15線) 広報第1092号
告示第59号 府県道明合一身田線、川俣滝原線、白口六軒停車場線、小山田四郷線変更 広報第1092号
告示第60号 府県道新堂停車場新堂線及松阪丹生線廃止 広報第1092号
告示第61号 道路の供用廃止(名賀郡滝川村地内) 広報第1092号
告示第62号 工区所轄区域及事務所位置改正 広報第1092号
告示第65号 道路の供用廃止(阿山郡東柘植村地内) 広報第1093号
本編も欠多い
告示第276号 道路の供用廃止(一志郡中郷村地内) 広報第1145号
告示第308号 土地の公共用廃止(河芸郡白子町地内) 広報第1150号
告示第434号 道路の供用廃止(南牟婁郡神志村地内) 広報第1185号
告示第439号 道路の共用廃止(南牟婁郡神志村地内) 広報第1186号
告示第456号 道路の供用廃止(一志郡豊地村地内) 広報第1191号
告示第480号 道路の供用廃止(飯南郡粥見村地内) 広報第1197号
告示第508号 道路の供用廃止(多気郡相可町地内) 広報第1205号
告示第544号 k道路の供用廃止(南牟婁郡阿田和村地内) 広報第1215号
告示第555号 道路の供用廃止(桑名郡桑名町地内) 広報第1218号
告示第579号 道路の供用廃止(度会郡柏崎村地内) 広報第1223号
告示第583号 道路の供用廃止(河芸郡大里村地内) 広報第1224号
告示第584号 道路の供用廃止(志摩郡波切村地内) 広報第1224号
告示第588号 道路の供用廃止(飯南郡松尾村地内) 広報第1226号
告示第603号 道路の供用廃止(多気郡五ヶ谷村地内) 広報第1230号
告示第611号 道路区域変更の件 広報第1233号
告示第619号 道路の供用廃止(志摩郡船越村地内) 広報第1234号
告示第649号 道路の供用廃止(南牟婁郡神志村地内) 広報第1240号
昭和6年8月分http://www.pref.mie.jp/PDF2/KENKOHO/S06/F-S060918-01281.pdf
告示第680号 道路の供用廃止(阿山郡城南村地内) 広報第1246号
告示第917号 道路の供用廃止(安濃郡明合村地内) 広報第1298号
告示第1132号 道路の供用廃止(桑名郡益井村地内) 広報第1354号
告示第38号 道路の供用廃止(阿山郡阿波村地内) 広報第1370号
告示第43号 道路の供用廃止(多気郡川添村地内) 広報第1372号
告示第146号 道路の供用廃止(飯南郡茅広江村地内) 広報第1399号
告示第255号 土木出張所の名称、位置及所轄区域 広報第1430号
告示第304号 府県道白瀬、阿下喜線その他路線変更 広報第1440号
告示第326号 道路の供用廃止(多気郡津田村) 広報第1443号
告示第327号 道路の供用廃止(員弁郡治田村) 広報第1443号
告示第372号 路線変更並道路の供用開始【飯南郡宮前村地内府県道津和歌山線。珍布峠をパス?】 広報第1453号
告示第408号 道路の区域変更供用の廃止(志摩郡船越村・片田村地内) 広報1458号
告示第409号 道路の供用廃止(多気郡相可町地内) 広報第1458号
告示第443号 土地道路の供用廃止【安濃郡片田村大字久保字吹上、高宮村大字五百野字蔵田2個所】 広報第1465号
告示第512号 道路供用廃止(桑名郡桑部村地内) 広報第1478号
告示第589号 道路の供用廃止(飯南郡櫛田村地内) 広報第1488号
告示第590号 道路の供用廃止(多気郡下御糸村地内) 広報第1488号
告示第591号 道路の供用廃止(多気郡相可町地内) 広報第1488号
告示第627号 道路の供用廃止【桑名郡在良村大字西別所字倉持、四郷村ほか・ファイル破損】 広報第1497号
告示第630号 道路の供用廃止【名賀郡錦生村、滝川村、蔵持村、神戸村、上津村、中川村、明星村ほか】 広報第1497号
告示第675号 道路の供用廃止【飯南郡波瀬村大字加波字梨木平】 広報第1509号
告示第683号 道路の供用廃止【多気郡領内村大字滝谷字水谷2個所】 広報第1512号
告示第693号 道路の供用廃止【員弁郡石榑村大字石榑南字西石合】 広報第1514号
告示第743号 道路の供用廃止【名賀郡滝川村大字長坂字深通】 広報第1530号
告示第777号 道路の供用廃止【多気郡川添村大字柳原字井戸道】 広報第1540号
告示第781号 道路の供用廃止【名賀郡阿保町大字阿保字西ノ沢】 広報第1541号
告示第796号 道路の供用廃止【志摩郡鳥羽町大字堅神字宮ノ前】 広報第1545号
告示第1024号 府県道宇治山田線変更 広報第1600号
県令第54号 農村振興事業補助規程 11・7号外
告示第1096号 道路の供用廃止【志摩郡加茂村大字船津字小畑】 広報第1617号
告示第1097号 *道路の供用廃止【志摩郡加茂村大字船津字一枚田】 広報第1617号
告示第1128号 道路供用廃止【度会郡穂原村大字伊勢路字潜道】 広報第1630号
告示第1183号 道路供用廃止【名賀郡依那古村大字依那具字柳原】 広報第1644号
告示第1195号 府県道鳥羽浜島線路線変更の件 広報第1648号
告示第1201号 道路供用廃止【志摩郡波切町字西ノ岡】 広報第1649号
告示第1221号 昭和八年度時局匡救県費補助申請の件 12・28号外
眼鏡のアップデートを待つ間,ぶらぶらと歩き回った.たまたま鞄に偉人伝が入ったままになっていたことを思い出し,それをチャリ部に呉れてやろうと思い立ち,2駅歩いて部室まで行ってみることにしたのだった.
明道館.学生時代に一番長く居た場所.要するに部室長屋である.文化系クラブや古くからある体育会系部が居着いていて(チャリ部も一応体育会系だった),各部が好き勝手に使っていた,やや無法地帯的な場所.言い換えれば最も自由のあった場所である.卒業してからはめったに訪れることもなく,現役生と交流や面識があるわけでもない.昔を懐かしむおっさん風情でふらっと訪れるのが好きだった.
自分が現役だった頃はコンクリート打ちっぱなしの壁,および床天井の汚い建物だった.革マルゴシックで「造反有理」とか書かれてたっけな.入り口の軒下部に軽音の謎の倉庫とピアノがあって,その隣にチャリ部の自転車が詰め込まれてて,ひどく邪魔だった.明道館の中庭は,アメフトの防具,灰色の猫,そしてゴミと腐敗が常にあった.それが今やすっかり小奇麗になって,タイル貼りになっていさえする.違和感しかしない.
昔のチャリ部はBOX2.正面の階段の脇を入ったところ.鍵などなく,土日祝日年末年始関係なく入れていたのだが,自分らが卒業した頃からボヤ騒ぎや盗難事件が相次ぎ,セキュリティーがうるさくなったそうだ.新部室には鍵がかかっていて,それっきり.クリコンの日だというのにケーキ&鍋の用意をする姿も見られない(実は昨晩やってたのかも知れないが).
献本は取っ手にぶら下げてきた(この一冊は自費購入分ということにしておく).
変わらないのはこの銀杏くらいだろうか? 生協食堂との間に銀杏の大木が生えていて,秋口にはそこそこ綺麗だった.すっかり葉を落として寒々しい姿になっていたが,唯一当時と同じ姿をしている.銀杏の葉をモチーフにした図案が校章だ,といちよう説明しておく.
イ号館前の池は埋め立てられて小奇麗な建物が建っている.そのうえ公園風ひろばまで作られてある.一帯が学生の憩いの場になっているらしかった.こんなものはなかったぞ.せいぜい埋め立て後の更地くらいしか記憶にない.石橋配水池のほとりを歩けるテラスまであった.こんなおしゃれ臭いもの,似つかわしくないと思う.
かつてのロ号館前のメインストリート.ロ号館は建て替えられ,ロ大講以外現存していない.なおロ号館は文字通りロの字形になっていたがイ号館はイの字形でなかった.単にイロハで命名してた頃の残滓というだけだ.
このほかにも図書館が作り替えられすっかり様変わりしている.書庫は相変わらずだったように思う.自分は工学部図書館の旧館最上階が好きだった.
入学シーズンにはこの通りでクラオリ(クラブオリエンテーション)が行なわれる.各部寄り集まって一斉に勧誘滑動をする行事.入学した春,何も考えずに自転車部のブースへ直行したのが運の尽きだった.そういえばSさんが泳いでいた池はどうなったんだろう?
イ号館.たぶん現存最古の建物.桃色の塗装が品のなさを体現している(当時からそうだった).西門から入るとまっさきに見えるのがこの建物で,よく目立つことからシンボルタワー的な扱いをされることもある.しかしここで講義を受けた記憶がほとんどない.
西門を入った所の植え込み(大仰に「待兼山庭園」なんて名前がついてたな,そういえば)に,こんなものが建っていた.前身の浪高時代を懐かしんで建てられたものらしい.吐き気を堪えつつ大高全寮歌を謳歌していた我々世代からすると今時感・今更感しか感じられぬ.どの面下げて今頃か.
私の通学路であった西門の坂.自転車部OB会の会報のタイトルにもなっている.私がいた頃はまだアスファルトだった.合宿から返ってくる時,ポタ帰りの時,最後のこの坂を登るのが辛かったり嬉しかったりした.一番思い入れのある坂道だったが,それも変わってしまって,こんな人造石張りの小奇麗なものになっている.
なにより驚いた変化.7時〜20時の間は自転車以上通行禁止になってしまったようだ.まるで学校の所有地みたいじゃないか.そうなったのか.確かにこの坂,調子に乗って下ると危ないのだよな.人が多くて.石張りにしたりしたら余計に危ないだろうと思う.
阪大坂を外れ,石橋配水池の堰堤から見る眺め.この貯水池の堰堤も新しくなっていて,ともかく小奇麗な感じばかりがする.愛校精神が強い方ではなく,むしろ没交渉で通っていたことすら黒歴史だと思っているほどなのだが,変わった姿を見せつけられると本格的に「お前の来る場所じゃないんだよ」と言われているように思われて切なくなる.唯一の拠り所だった部も明道館も変わってしまって,殊更その感が強い.
ネームバリューというか拠るための大樹というか,そういうものとしてOUCCを考えたことはなく,そういうものでないからこそOUCCが好きだった.部の隅にいて主に傍観する係,時折突拍子もないことをやって石を積む係であることに喜びを感じた.Since1966をカウントアップするいち回生であることが誇らしかった.そういうものを感じる対象では,すでに無くなっていることを,改めて感じさせる.nagajisの居場所はいつだって無いのである.
堰堤の上をゆく道を進めば,写真の階段,待兼会館前を経て明道館に直行できる.授業をサボって部室に篭る学生の御用達の小道であり,通称「留年坂」という.自分も留年したがこの坂を登り過ぎたからではない.自転車だと西門入っていったほうが早い.
坂下の通り.全国一湿気た学園通りだと思っている(ちなみに正門前はすぐ外環なのでほんとに何もない).よく利用した2つの古本屋もお好み焼き屋もなくなっている.あるのは二升五合を掲げたいこい食堂(の建物.相変わらず営業してるのかしてないのかわからないボロさ),あまりいい思い出のないクレストウッド,向かいに別館ができたダイワサイクルくらい.
坂下交差点.自分が住んでいた下宿は正面の高架(√171)の方へ進む.左手前−右奥が北摂へ向かう√173.右へ曲がれば√176.この関係,慣れるまで少々かかった覚えがある.一つ北の井口堂交差点のところで三者が分かれるように,長いこと勘違いしていた.
√171の高架沿いに降りていくと,もう1つ,お世話になった古本屋がある.ここは専門書教科書の類が充実.あと時々歴史書の面白いのがあった.串田孫一の「峠」もここで買った覚えがある.かなり初期のこと.水曜日曜定休で,こうやって休みの日に来てしまい落胆するという愚を何度もやった.
近くに主将のI氏宅があったはずで,記憶を頼りに向かってみたが,到達することができなかった.建て替えられたのか,自分が記憶違いしているのか.
√171下の阪急の踏切.すぐ隣に石橋駅があり宝塚線と箕面線が分岐する.この踏切で長く待たされた時は決まって緑のプレートを掲げた準急箕面行きもしくはその逆がやってきた.箕面線は全くといっていいほど利用したことがない.その方面への用事は自転車で済ませていた.
チャリ部御用達の石橋温泉.通称「バシオン」.私は下宿近くの共栄温泉のほうへ行くことが多かった.
駅前通りの丁字路を過ぎ,天神橋を渡って川沿いの細道へ入っていくのがいつものコース.その道から振り返った光景.川の名前は今だに覚えていない.商店街の赤い橋の下を流れている川の末だ.
2002年に長旅に出た時,最初に撮ったのがこの風景だった.もう二度と見ることはないのだろうなと思いながら撮った覚えがある.しかし今,行こうと思えばいつでも行ける距離に暮らしていて,そして数年ぶりに同じ場所に立ってみている.その程度の思い入れである.
昭和43年架設の赤い橋のたもとで川沿い道を離れ,この小道へ入っていくと若干近かった.中央に見える小さな十字路を左へ曲がる.この角で何度ゲロを吐いたことか.追いコンでちゃんぽん酒をピッチャー一杯飲まされたうえ江田賞のトロフィー(とは名ばかりの操舵輪.マジモンの操舵輪で重い・嵩張る・抱えにくいの三重苦の物体)を抱えながら帰る時も吐いた.
天神荘.元は会社の寮だったという建物で,廊下を挟んで部屋が向かい合うという,まさにそれらしい作りの建物.最初は1階の端から2番目の部屋に住んでいた.共同トイレ,風呂なしの六畳+四畳半+申し訳程度のキッチンスペース.やがて2階に移った.部屋の改装が済んでないからということで部屋を移らされたのだ(その改装で風呂がついたが,2階の部屋は未実装で,その部屋に最後まで住んでいた).N氏が置いていったクソ重いドラフターを分解して一人で担ぎ上げたのを今でも覚えている.眼の前が真っ赤になるという比喩を初めて理解した.
大家さんはいま住んでいるところの大家さんでもある.学生時代の縁でいまのアパートに入れてもらったのだ.器用な人で建物の改修や補修なんかも自分でしてしまいはる.この看板も大家さんの手製だったはず.
天神荘前の通り.昔から自転車置き場には屋根がなかった.駐輪ポストもない.この通りに自転車を並べて停めるだけだ.スタンドのない旅行用の自転車には辛かった.
奥に見える茂みは民家の勝手口.イヌビワが植えてある.毎年5月〜6月頃にはいい薫りがしたものだが,イヌビワだし民家の植木だしで食べることはしなかった.そういえば明道館のそばにもイヌビワの木があったっけ.一つ試しに齧ってみたが香りばかりで旨くなかった.
この通りから一つ表に出たところが√173と√171を結ぶ府道で,高架になったその下に小さな公園がある.この公園もなんだかんだでよく足を運んだ.素振りとかしてたような.
フェンスの向こうに見えるオレンジ色の庇は「宮崎たばこ店」の跡.CAMELのある自販機があって便利だったのだが,自分が院のときだったかに廃業して無くなった.
府道を越えて駅方面とは反対方向に進めば,住宅街の真ん中にスーパーと少々の店が集まっていて,小さな商店街を形成している.何でこんなところにあるんだろうと思うような奥まったところ.この商店街が自分が最もよく利用したところだった.
スーパーの隣に共栄温泉.要するに銭湯.ここのコインランドリーは24時間営業(といっていいのか・・・鍵を閉めずにいるので勝手に入れるのだ)で,バイトが24時上がりデフォだった自分には大変有り難かった.
懐かしさのあまり,思わず入ってみると….当時と変わらぬ設備のいろいろ.200えんのこの洗濯機ばかり使っていた.1つ30円の洗剤はいまでもちゃんと機能しているようだ.
そして相変わらず置かれている聖教新聞.どこが契約を取っているのかわからないのだが,必ずその日のものが置かれていた.暇つぶしに眺めていたこと多数.傍から見るとシュールな4コマ漫画も健在.
日が暮れる頃,駅に戻った.ついでに東口へ足を伸ばしてみた.石橋駅は非高架駅なくせに西側の商店街と東口のとを行き来できる通路が1つしかない.それが王将前のアンダーパス.2回の時だったか,大雨で附近が水没したことがある.その時運悪くこの高架下に自転車を停めていて,えらい目に遭った.腰まで浸かって足で掬い上げて回収した.あと,ここで高度計つきのサイクルコンピューター定価8000えんをパクられて泣いた覚えがある.それ以来サイクルコンピューターの類を使っていない.
我が部御用達の飲み屋「すずめのお宿」の跡.引退してからも何度か一人で飲みに行った.人生で初めての行きつけの店だったのに,これもなくなって,面白みのない串カツ屋になってしまった.メニュー立てに挟まれていた「そのひぐらし取って−」「ハッ!」というイラストを今でも覚えている.ママさんは孫ができてよいばあちゃんをしていると風のうわさで聞いた.
もう一つの御用達店の跡.名前を思い出せなかったが,そうだ,「ふるちと」ならぬ「ふるさと」だ.日本酒党はこちらへゆくことが多かった.二次会・三次会とかも.先輩に連れられて行くとこわいことになる店だったので若干敷居が高い印象を持っていた.すずめより先に廃業し,ファーストキッチンになったあと今の店になったはず.嗚呼栄枯盛衰.
石橋駅東口.阪急沿線では最も雑多で不便な駅前.かろうじて車が入れるが,√176高架脇の細道を入って行かねばならず,箕面線踏切を渡らねばならず,うえに学生が絶えること無く行き来したり酔っ払って暴れたりゲロってたりして邪魔なこと限無なところを割り込んでいく必要がある.西口も駅前まで道路が通じてはいるが似たような賑わい.ここで輪行するのは恥ずかしかった.大阪駅とか都道府県庁所在地の駅では平気なのだが.
駅の作りはほとんど変わらないが,入り口に何やら店ができたりエレベーターが設置されたりしている.古レールの扱いも変わった.以前はまだ刻印を読むことができていたが,新たに重ね塗りされてしまい,一文字たりとも読めなくなった.阪急創業時代の古レールが並んでいた覚えがある.
以上,おしまい.
子ウィンドウで開いて補完したれって,そりゃXSSになるわな.面倒だが一つずつ手でコピペしてもらうしかねえ.
やななの制作費は1万円らしい。あれでもいちまんえんもかかるのか!
馬鹿の一つ覚えでWiki化しようとしているが若干躊躇っている.tdbやpdbと違ってスタートライン以前の話だしゴールテープも遠い.霞んで見えないくらい遠い.作っても自分がまったく手を加えないだろうことも明らかである.完全に他人任せである.やってもらうことはフォームにコピペして画像の文字を入力してもらうだけなんだが,その「だけ」が面倒だ.いちいち画像認証せんといかんのも(仕方ないとはいえ)面倒.先に土木関係から始めようか.それともその練習として第78,79項をやっておくか.とりあえず少し寝かす.
ぱんぱかぱーん。ぱ、ぱ、ぱ、ぱんぱかぱーん。記念すべき300回目である。継続は力也を地でゆく本部録"のメインコンテツンである。思えば(以下略)。ではどうぞ。
先日五條市街で見かけた看板。ここまで共感を拒む看板はなかなか無かろうと思う。品詞分解したら各々の語の意味はわかるのだけれども、繋げるとさっぱりだ。「癌の」も「天敵」もわかるけれども、「癌の天敵」って何だろう。抗癌剤とか放射線治療とかそういうことか。しかし癌って自分の細胞が癌化するのであって敵と表現するに相応しいものがあるようには思われぬ。続く「毒菌を指摘す」はこれ一行で完結しているのか、それとも「国」あるいは「社」にかかっていくのか。後者だとすればそれによって何を意味しようとしているのか。そのうち国、社ってナンダという話になり、小学校の時間割表記が思い出され、しかし「協力願う」の主語にはなり得ないと思い直して結局共感を断念せざるを得なかった。国語と社会にお願いしてもどうにもならないだろうし先ず以て何をお願いしようとしているのかからして解らない。
下に掲げられている一文も謎。 知識や知恵で答えが見いだせないなら、一体どうしたらいいのだろうか。行き当たりばったりで問題解決すべきということだろうか。それにしては看板をつくって掲げるほど用意周到じゃないか掲載者は。
「不可能也」と強く出られると「はあそうだったのか」と思わざるを得ず、しかしじゃあどうすればが皆目わからない故に自分の愚かさを詰られた時のような思いがする。それもまた共感を遠ざける遠因になっている。
日本建築家協会近畿支部奈良地域会主催でパネル展が行われているとのことだったので行ってみた。今回の調査で見つかった物件を中心に数十件を写真にて紹介。良い物件がこれだけ見つかれば、他県に劣らない立派な報告書になるだろうと思って安心した。
主催が主催だけに建築重視の内容なのは仕方ない。が、せめて端駆橋か池原橋くらいは取り上げてほしかった。 また目立つ物件ばかりだと他がくすんで見えてしまうから困る。うちはそういう華がないからなあ(悔しければ個人でパネル展やるといいよ>nagajis)
御杖小学校以外にも現存する木造校舎は山のようにある。あと助詞の修正を失敗した誤植が一件。
天理の市街地図と御所市史をゲット。これで第38号がらみが調べられる。御所市史には葛城水電の話が一切なく、かわりに水越峠の元禄の騒動を詳しく書いた記事をコピっておいた。当然ながら2600年がらみだとは書かれていず。
天川丹生街道の峠名について補足。「奈良県吉野郡史料」中巻天川村の条の道路の項目に次のようにある。
其の支線に天川街道あり字象牙嶺より川合に至る延長二十八町五十間丹生を経て下市に通ずるの要路たり(強調筆者)
なので、電索がT8に描いた図にある「蔵毛峠」はぞうげとうげと読むべきだったことがわかる。而してこれらは江戸時代の改修記録で「雑木峠」とされていた件から繋がるものと思われる(雑木=ゾウキ=ゾウゲ)。日本には象がいなかったので最初に象牙という字が充てられていたあるいは地形を象の牙に準えて地名がついたとは思いにくい。雑木が繁っていたからゾーキと呼ばれ、それが蔵毛や象牙と書き表されるようになったと考えるのが自然じゃないかしらん。
そんな峠は大正の改修で大きな切り通しが作られ切抜峠という呼称が生まれた。それがコモンセンスになる前に川合トンネルができ、正式名称があやふやなまま廃峠となった。哀れなことである。なお吉野郡史料の道路の項では洞川小南嶺から天ノ川伝いに大塔へ向かう山上街道、黒滝から小南峠隧道までの洞川街道、して天川街道の順に掲げられている。これが当時の幹線度の順だったようだ。同書は大正8年に発行されているが調査は明治年間とのことなので、天川丹生街道が大正3年に改修されたことが抜けている。また県にとっての山上街道は下市から小南峠を経て洞川に達する補助里道であった(明治26年頃、だったっけ)。
気づいている人にとっては何を今さらだろうが、路線や峠の名称が視点によってコロコロ変わる(起点側、終点側で呼び名が異なる)ことが多かったことには注意しなければならない。また時代によって名称が二転三転することもよくある。 道路史を紐解こうとする際によく行き当たる面倒さで、固結びになっているそれを我慢してほどかなければならない。面倒臭がって快刀乱麻ったらかえって混乱を助長するだけだ。気を付けろよ>nagajis。
昨晩ラジオで耳にしたニュースが記事になってた。初代の六郷川橋梁の図面模写が見つかったというもの。消えると残念なので全文引用。おもにKINIAS用。
明治5年、新橋・横浜間で日本最初の鉄道が開通してことしで 140年になりますが、開業当初、多摩川に架かっていた木造 の橋の図案を書き写したものが兵庫県三田市で見つかり、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料として注目さ れています。
見つかったのは、開業当初、多摩川に架かっていたイギリス人設計の木造の橋の図案を模写したもので、兵庫県三田市にある三田藩主、九鬼家の旧住宅に残されていました。 縦72センチ、横1メートル5センチの大きさで橋げたや橋脚当時の多摩川下流の呼称にちなんで「六郷川ブリッジ」と英語で書き込まれています。
調査に当たった三田市によりますと、これは、九鬼家の一族で、明治時代に鉄道技師を務めた九鬼隆範が残したものとみられ、三田市は、日本最初の鉄道の橋の図案の模写が見つかったのは初めてではないかとしています。
鑑定した鉄道総合技術研究所は、「橋の構造が細かい点まで描かれている。西洋の技術を日本がどのように受け入れたかもうかがえ、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料だ」と話しています。
また01岩の人に迷惑をかけてしまった。なんでメール振り分けてたんだろうな・・・。 クリスマスはサーバの手続きをする日にしよう。チキンよりも鯖だ。
江戸時代中期の街道、その後の街道の道筋を再確認。川津から三浦峠に上がってたとは見逃していた。だから川津が要衝たり得たのだな。中期には天辻〜上野地→(1)三里越→風屋→中原→小森→小原→高滝→玉置山経由紀伊国と(2)ミイラ峠→焼尾峠→紀伊国に分かれてた。それが川津〜三浦がなくなり焼尾越がコエド越専用になって水ヶ峯道になる。くぢう越は終点が変わっただけ。上野地〜風屋〜小森〜小原〜高滝〜竹筒になる。最後の柳本渡がよくわからん。小森〜無終方面が江戸以降につくられた?
がたくさんあるなあと感じる今日この頃。新しいことを考えつくとか、保身に走るとか、計略を巡らすとか、発言の影響を予測したうえで喋ることとか、思いついた阿呆なことでゲラゲラ笑うとか。笑いの自給自足ができないのは残念だな。まあその前に笑いを欲しなくなっているというのはあるかも知れない。かわりに今は満足を自給自足できているのでよい。おのれのできることやったことしでかしたことに満足をする術を覚えたように見える。望みが小さくなったわけではないようだ。
少なくとも漠然とした苛立ちに脳裏を焦がされ大浴場の反響騒音のごとくなものがワンワン響いて眠れなくなるようなことはなくなった。いい具合いに枯れていっておるのかも知れぬ。このままカサカサに乾いた塵埃のようになってくれることを願うものである。
ああそうそう、何かと戦う気も薄くなった。世に抗っても仕方ないのだという諦めからも少し離れた立ち位置でさくりさくりと観察している。そんなプローブは自分の立ち位置を守るためではなく立つ瀬があることを確かめるためなんである。できることから、ちびちびと。
そろそろ本気で煉瓦の収納法を考えねばならないと思っておるのだがこれといった決定打がない。窓際の机かその下を片付けてもっと壁際にやってしまいたいようにも思うがそもそもそのへんが片付かなくて困っているのだ。書棚に収まり切れなくなって無造作に積んであるだけの本が机の上に溜まっている。要らんものを年末までに片付けるのは不可能だ。今年は31までみっちり詰まっている。30に片付けたところでゴミ出しもできぬ。
いっそのことトランクルームでも借りれば?と助言をいただいて、はじめはそこまでするもんでもないしなー、と思った一方、煉瓦だったら屋外コンテナ保管で十分なのだしそれ以外のあれやらこれやらも突っ込めるのかぁと思い直して、そういえば向かいの駐車場の隣の駐車場になんかコンテナボックスがあったっけと思い出し、つい今しがた確かめに行ったらいつのまにか廃業してしまっていた。天地創生の砌からこのかたずっとこの姿でございというようなコインパーキングがあるだけだった。おかしい。自分の記憶違いではよもやあるまい。痴呆の経始というわけでもないはず。コンテナのひとつはどなたかがバイク置き場に使っていて、日曜日のたびにヴォンヴォン噴かす音で喧しかったのを確かに覚えているもの。
あそこ以外だと最寄りは服部緑地んところになってしまう。運ぶの大変だし、気が向いた時に取りに行くのも面倒で、そのうち向かう気も起きなくなってしまうだろうこと必至だ。そもそもそんなに頻繁に見に行く必要も生じまい。要するにさっさと写真を撮って必要箇所だけ確認してどっかに寄贈してしまうのが手っ取り早くて後腐れもないんじゃなかろうか。
大阪窯業の窯は小菅集治監の「れっふ窯」を模したもの。れっふ窯?
明治25年の記事なので堺に移転する前の安治川口の頃の窯の話の。
アメリカやイギリスでは2連〜6連の型枠を使うのが普通だった。コンパートメントになった長い型枠だ。これを使うと熟練工で日に3000〜5000も作れたそうな。でも扱いが大変で重いので子供には向かなかった。あとコンパートメントの1個目に詰める時はいいが、2個目3個目と詰めていくうちに(n-1個目の余りを突っ込んでいくので)ややもするとクラックの入りやすいものができた。
日本でこういうのが流行らなかった理由は何だろう。体力の違い? それよりもそんなにたくさんの煉瓦を必要としてなかったのが理由かも知らん。家作る時には基本木だし。煉瓦建築なんて珍しかったのだし。一人500も作れば10人食えるわけだしさ。
ああそうか、これsoft-mudの場合なんだな。水分が20〜30%も含まれる軟い土を使った場合。それより少ないやつはstiff-mud。日本の場合はたぶんこれだと思う。
余談。英語では素地のことをgreen brickという。日本じゃ白地なんだな。一方赤子のことをみどりごというが、これは色の緑とは関係ないか。
国立国会図書館のデジタルコレクションが一新されてXpで使えるブラウザで見れなくなったのを機にXpとサヨナラすることにした。様々な紆余曲折を経て10のインストール完了。元のデータを引き継げなかったがCS2動けばまあいい。あと細々としたデータ移行が残っているが同じSSD上で動かすだけだ。
Xpで爆速だったのがXpで高速になった。案外悪くない。10数年前のメーカーモデルのスリムタワーでこんだけ動くんだったら近年のNew Technologyはなにを消費しているのだろうと思ってしまう。できることは10年近く変わっていないということじゃないのか。
_ MIMIZUK [ご無沙汰してます.マシンの機種は何でしょう? Gossamer or Yosemite 用のメモリならうちに転がってますが.]
_ nagajis [AGP Graphicsですから使えると思います。不要なものでしたらいただけると助かります・・・。 急ぎませんのでお手隙の時に着払いで編集部事務局までお送りくださいませ。]