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旧道倶樂部録"

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2012-12-25 [長年日記]

[独言] クリスマスは独り

クッキーが大層旨くてその必要性がなかったというのもあるのだが、ケーキを買ってくるのを忘れたぞ。

[独言] くそSPAM

「メリークリスマス!」というSubject:のスパムメールを万分の一の確率に賭けて開いてしまったnagajisを叱咤したい。

[独言][奈良近遺調] 葛城水力電気・関屋発電所

「管内電気事業要覧」の電気事業者一覧では、葛城水力電気の免許申請は大正7年1月24日、発送電開始は同年12月30日となっているが、当初は火力発電でスタートし、後に水力発電へ切り替えたのではなかったか(公文書でも「関屋第二発電所」と書かれたものが多く、建設理由も現在供給中のものに加えてということになっている。そうではなく下流にごく小規模の発電所を設けていたようなおぼろげな記憶もあり断言できない)。また「関西電気事業百年史」では昭和4年頃竣工となっているが、これも正確ではないようだ。大正13年12月25日に工事申請、同14年9月22日付で許可が降り、翌年大正15年12月20日に竣工届が承認された旨が、公文書「水利使用工事実施変更許可」(1-S12-60)に綴られている。

同公文書の「水越川水利使用許可願」によると、葛城水力電気の取締役社長は喜多長左衛門。葛城村生まれの篤農家で、果樹栽培の普及に功績があったほか、各種起業にも参画した(大峰登山電気鉄道の発起人にも名を連ねている。南和鉄道でも役員してなかったっけか)。申請理由は前述の通り。水路長510間、使用水量は2.5立法尺/秒、有効落差318尺1寸4分、88馬力の電動機で48kWの発電を行うとしている。もともとこの場所には大正10年に金剛水力電気が発電所を計画し、その免許も取得していたが、竣工期限内に完成せず失効していた(公文書「大正十、十一年 水越川水利使用 南海鉄道株式会社」(1-T10-60d))。葛城水電の関屋発電所はその計画を引き次ぐ形で実施されたものらしい。なお金剛水力電気は大正3年水越峠の大阪府側に千早発電所を建設し、後に南海電鉄系列の子会社となって、昭和37年頃まで稼働していた(「河南町史」p.517他)。沿道にその遺構が残っている。

取水堰堤は、役行者行場との伝承がある「祈りの滝」祈滝谷と水越川の本流が合わさる地点に置かれ、そこから左岸伝いに葛木水分神社の辺りまで水を引き、落とすという導線だった(金剛水電の計画ではもっと上流の丹生谷に第一の取水堰堤があった=より大出力の発電を計画していた)。また発電所建屋は当初本流左岸側に設ける計画だったが、工事着手後に右岸へ変更されて、その位置で開業したようだ。

昭和4年の夏には大雨で水路が大破した。筧(かけい)で応急復旧したのち水路を改修しようとしたが、秋にも大雨に遭って遅延し、完成が11月までずれ込んでいる。「関西電気事業百年史」が昭和4年竣工としているのはこの復旧のことを言っているのかも知れない。昭和12年8月に宇治川電気に買収され、17年4月には電力統制令で日発へ、戦後に関電所有となり昭和38年3月まで運転されたとのこと(同書年表)。その間ずっと出力43kWであり続けたという、細く長くの生涯を送った小規模発電所であった。

ということを書くために4時間も5時間も費やすなっちゅーの>nagajis。メモを発掘したことだけは誉めておくがよ。


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