nagajisの日不定記。
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T15とS11の比較を完成させた。すっきりした!
指定府県道になったことで内務省の監督を受けることになったということは、指定府県道路線の道路・橋梁の改修は道路規格が守られたのだろうか? 端駆橋、磐余橋あたりは比較的広い。横田の鋼桁橋も。八尾大橋は若干狭しか。
府県にとってはあまり利点のなかった制度。かえって指定が足枷になったようにも読める。奈良県の場合、指定府県道に相当する路線は古いまま現在に至っているところが多い。橋が若干広いかなという程度で、東熊野街道沿いのはやっぱり4.5m強。市街地なんかは特に狭いままなのが多い(新八号とか上街道筋とか)。
若干スレチなメモ。奈良県は大正10年と昭和2年に県道大改修を企図。特に後者は当時116里あった2間幅の県道を4間幅に拡幅しようというもの in 15ヶ年計画で、工費は起債で賄うことになっていた by 奈良県議会史第2巻。S12以降鋼材不足で起債工事を全ストップしたという話はモロにこれにひっかかってくる。 あと県道橋梁は鉄橋のほかは土橋にすべしっていう建議があったな大正時代に。
県議会史はとても参考になるが、決定された後のことがあまり出てこないのが苦しい(具体的にいつどの道を改修したか?とか、どこまで改修が進んだのか?とか)。出てきても繰延とか支出割変更とかいったマイナスの話題ばかりだ。
明治里程元標のほうはちゃんと解説看板が設置され、復元前の位置にプレートがはめ込まれていたりするのだが、その隣に設置された道路元標はまるでオマケの扱いだ。余りに哀れだ。そんなんだからどんどん失われてくんだ!ベサツだベサツ!と憤ったりしたけれども、憤ったところで何になるわけでもなし、憤るようになったのもつい最近のことだし。俺のものでもないしなあ。
結局のところ、それが観光資源になり金づるになる(と踏んだ)から持ち上げるのだ。役に立つから注目するのだ。注目されないものは忘れられて行くのみで、まるで自分みたいだと思う。後で惜しまれることもないに違いない。
今朝生駒市の教育委員会さんから電話をいただいた。行方不明になっていた南生駒元標かも?というTELだったが、どうも違うもののよう。まさか元標に右宝山寺と刻んでたりはしないだろう(「尋ねて」の写真では表面が露出した状態しか写ってないからその側面に追刻されてたら知らない)。 自分が若干寝ぼけ気味で失礼をばしたかも知れぬが、しかし続けて探して下さるとのことで頼もしく感じた。今から数十年前の話だというのにしっかり追いかけて下さっていることに対し、無上の感謝を申し上げたく思う。県の職員がみな×××だと思っているような人とはお知り合いになりたくない。
短い電話の中で教育委員会さんがそういう道標を回収していた過去があるらしいことを教わった。まあそれが第一候補ではあるだろう。
原文にあたって納得した。作った本人が言うからには竹筋に違いないと思う。 橋長3080mm、厚340mmということは側面から見える厚さがそのくらいになるはずで、 2008年の正月早々橋の下に潜って確認した番線の入った板桁はさらに一段下がっていた(写真セレクト不味いな…)。そこまで含めると34cmをはるかに越えてしまう。追築されたものであったらしい。
原文は1985年の「セメントコンクリート」に収録。撮ってきた写真をよく見ると、 鉄筋桁とその上の板桁との間に 「(茨)木市水( 道局) 」「1988」とプリントされたパイプらしきものが埋まっているのが写っていた。原文後に手が加えられたものらしく、それで今でも持っているのかも知れない。
2023-12-01追記:日本橋梁協会『虹橋』第34号に掲載あり。これはフリーに見れる。 https://www.jasbc.or.jp/technique/nijihashiback/files/nijihashi34.pdf