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2013-05-21 [長年日記]

[煉瓦] 関西煉瓦会社 B.C.△H.J.刻印煉瓦

画像の説明

吹田駅近くの住宅街の中で発見.民家の勝手口の脇にある排水口(写真後ろに写っている)の蓋代わりに使われていた.裏返しになっていたそれを「まさかなあ」と思いつつ,ちょっと失敬してひっくり返してみたら,これだった.驚かないわけがない.

旧ハンター邸や神戸市旧外国人居留地の工事現場,大阪市西九条安治川通3丁目の壁で見つかっているものはプレス成形による凹みを有する煉瓦だった.厚さもかなりあって7cmを超えていたと思う.この煉瓦はそれと同じ内容だが,凹みがなく,ごく普通の煉瓦に陰刻で刻印されている.そのようなバリエーションが存在するとは思ってもみなかった.

明治21年3月創業,同30年頃には消滅したと思われる,兵庫県明石郡垂水村に存在した煉瓦会社の煉瓦.家の主はそんなことなどご存知でないに違いない.

あ,念の為に書いておくが持って帰ったりしてないからな.してないったら.

[煉瓦] 下野煉瓦?高橋煉瓦?

画像の説明

ついでにこれも発見した.菱型にSの刻印は下野煉瓦(栃木県下都賀郡)のほかにも福岡の高橋煉瓦が用いていたことが知られている.ただし高橋煉瓦刻印は幅5cmほどの大きなものだという(以上『集成』).大きさだけで判断するとシモレンのということになる.

奈良県天理市二階堂上ノ庄町でこの刻印を見つけたときは,まあそういうこともあるだろうと思っていたけれども(その前に大和高田で★刻印を見つけていたせいもある.ひょっとしたらシモレンって広範囲に分布してたのかも知れないな,と),吹田市にもこれがあることがわかり,考えを改めるべきなのかも知れない.わざわざ栃木から持ってくるよりも,高橋煉瓦の刻印に小さなバージョンがあって,それが福岡から流入してきたと考えるほうが妥当では中廊下.

[] 煉瓦

なんとかかんとかM30代まで書くことができた.その先をどうするか悩んでいる.後々まで残る煉瓦会社はこの頃に出揃うので必要十分といえば十分だ.その先に登場する会社の刻印がほとんどわかっていないのも悩みどころ.そもそも府下煉瓦業史をまとめたところで誰の役にも立たない.

組合成立.会社乱立により煉瓦価格の低下>緊縮内閣の成立>在庫滞貨>さらなる価格低下で大正3-4年の生産統制となる.当初は大阪組が他所の需用を「食おう」という計画だったが四国の3煉瓦会社と共同で生産統制へ.中国地方も組合を作って減産する(T2に減産協定なるがだめになりT3-4に再度実施だったかも.このへん要確認).東京荒川筋の改修によって小規模煉瓦製造家がごっそりなくなり東京で在庫払底.これに乗じて増産.T6に最大値を記録するが大戦不況で一気に減少する(T9堺煉瓦の倒産).それが立ち直る前に大震災.建物や土木構造物がRC造へ移行しつつあったところへ大震災によるダメ出しを食らった格好で,府下の煉瓦製造業は凋落の一途を辿る.

大阪窯業は震災前から非普通煉瓦を模索していた.例えば耐火煉瓦,例えば舗装煉瓦,それから化粧タイル,セメントの製造.造船業にも手を出していた.大震災後は復興材料供給で凌げたが(この時舗装煉瓦がかなりの数採用された;舗装煉瓦じたいはT10頃から試験的に製造し田蓑橋北詰とか武庫郡役所周辺とかに使っている.『大阪窯業五十年史』).震災後はそちらへ軸足を移していく.鉄筋煉瓦も作ったがあまり普及しないままに終わった(辰野金吾のと金森のとの違いってどんなんやったっけ).

他府県のはどうするか.T半ばに兵庫県飾磨郡を中心に煉瓦工場群が出現したのは特異現象で興味深い.阿弥陀村.香呂村.香呂村のはおそらく相坂隧道と関係がある.

昭和4年「関西窯業会社」を設立,組合の煉瓦を販売.この会社の素性を明らかにする必要がある.府下に吉名の煉瓦がそこそこの数入ってきたのはこの会社のせいではないかと思う.

戦前はこのくらい.戦後はどうする?ようわかってへんしなー.

[C60] 9個目

画像の説明大阪府大阪市西成区北津守2-3.真夜中に道に迷っているときに発見したので写真がぞんざいだ.


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