nagajisの日不定記。
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四時十分起床す。直に自習室に出る。机の上に弁当・おこしが乗り致る。菓子出でたるは始めてなりし為嬉しかりき。四十分舎前集合、瀧田口-坊中まで列車輪送。駅前にて朝食を食う。坊中より歩き出し五合目にて休む。特にきつかりき。六合目までは草地なりしが以後は灰地となり、ほこりがひどかりき。あとの五合は楽なりき。苦は楽の種なる事を知る。十一時昼食、写真をとり三十分よりふん火口に致る。水蒸気は絶えず出づ。噴火口をのぞきしは始なり。下りは岩のごつヽせる処を下る。大変きつかりき。下りて官幣大社阿蘇神社参拝、宮地-瀧田口まで列車輪送、裏門に著きしは十九時なりき。以後食事・入浴・手入なり。今日は実にきつくて休みたくてヽたまらなかりき。然し良い教訓を得たる事を喜ぶ。
〔nagajis:致る、輪送、著きし、いずれも原文ママ〕
国漢文の太平洋と日本及日本人を学びたる時は非常に昂憤〔奮〕したり。大東亜戦争と結びつけ。午後は工作。
鉄棒をなすも此処五日間授業の関係によりなす能わざりし故腕力非常におとろえたるを知る。何事も常に鍛錬必要ならん。
昨晩より相当に冷え始めたり。午後楠公会にして香川教官殿話及び生徒の詩吟あり。十五時半より其の一部として綱引き・騎馬戦・棒倒しあり。愉快に万事を行いたり。独語は今日にて終了す。要するに独乙語は整然たる語にて易きなり。故に、主語・述語とを見出しそれをつなぐべしと。学習に積極的ならず。良好。
吹田駅近くの住宅街の中で発見.民家の勝手口の脇にある排水口(写真後ろに写っている)の蓋代わりに使われていた.裏返しになっていたそれを「まさかなあ」と思いつつ,ちょっと失敬してひっくり返してみたら,これだった.驚かないわけがない.
旧ハンター邸や神戸市旧外国人居留地の工事現場,大阪市西九条安治川通3丁目の壁で見つかっているものはプレス成形による凹みを有する煉瓦だった.厚さもかなりあって7cmを超えていたと思う.この煉瓦はそれと同じ内容だが,凹みがなく,ごく普通の煉瓦に陰刻で刻印されている.そのようなバリエーションが存在するとは思ってもみなかった.
明治21年3月創業,同30年頃には消滅したと思われる,兵庫県明石郡垂水村に存在した煉瓦会社の煉瓦.家の主はそんなことなどご存知でないに違いない.
あ,念の為に書いておくが持って帰ったりしてないからな.してないったら.
ついでにこれも発見した.菱型にSの刻印は下野煉瓦(栃木県下都賀郡)のほかにも福岡の高橋煉瓦が用いていたことが知られている.ただし高橋煉瓦刻印は幅5cmほどの大きなものだという(以上『集成』).大きさだけで判断するとシモレンのということになる.
奈良県天理市二階堂上ノ庄町でこの刻印を見つけたときは,まあそういうこともあるだろうと思っていたけれども(その前に大和高田で★刻印を見つけていたせいもある.ひょっとしたらシモレンって広範囲に分布してたのかも知れないな,と),吹田市にもこれがあることがわかり,考えを改めるべきなのかも知れない.わざわざ栃木から持ってくるよりも,高橋煉瓦の刻印に小さなバージョンがあって,それが福岡から流入してきたと考えるほうが妥当では中廊下.
なんとかかんとかM30代まで書くことができた.その先をどうするか悩んでいる.後々まで残る煉瓦会社はこの頃に出揃うので必要十分といえば十分だ.その先に登場する会社の刻印がほとんどわかっていないのも悩みどころ.そもそも府下煉瓦業史をまとめたところで誰の役にも立たない.
組合成立.会社乱立により煉瓦価格の低下>緊縮内閣の成立>在庫滞貨>さらなる価格低下で大正3-4年の生産統制となる.当初は大阪組が他所の需用を「食おう」という計画だったが四国の3煉瓦会社と共同で生産統制へ.中国地方も組合を作って減産する(T2に減産協定なるがだめになりT3-4に再度実施だったかも.このへん要確認).東京荒川筋の改修によって小規模煉瓦製造家がごっそりなくなり東京で在庫払底.これに乗じて増産.T6に最大値を記録するが大戦不況で一気に減少する(T9堺煉瓦の倒産).それが立ち直る前に大震災.建物や土木構造物がRC造へ移行しつつあったところへ大震災によるダメ出しを食らった格好で,府下の煉瓦製造業は凋落の一途を辿る.
大阪窯業は震災前から非普通煉瓦を模索していた.例えば耐火煉瓦,例えば舗装煉瓦,それから化粧タイル,セメントの製造.造船業にも手を出していた.大震災後は復興材料供給で凌げたが(この時舗装煉瓦がかなりの数採用された;舗装煉瓦じたいはT10頃から試験的に製造し田蓑橋北詰とか武庫郡役所周辺とかに使っている.『大阪窯業五十年史』).震災後はそちらへ軸足を移していく.鉄筋煉瓦も作ったがあまり普及しないままに終わった(辰野金吾のと金森のとの違いってどんなんやったっけ).
他府県のはどうするか.T半ばに兵庫県飾磨郡を中心に煉瓦工場群が出現したのは特異現象で興味深い.阿弥陀村.香呂村.香呂村のはおそらく相坂隧道と関係がある.
昭和4年「関西窯業会社」を設立,組合の煉瓦を販売.この会社の素性を明らかにする必要がある.府下に吉名の煉瓦がそこそこの数入ってきたのはこの会社のせいではないかと思う.
戦前はこのくらい.戦後はどうする?ようわかってへんしなー.
大阪府大阪市西成区北津守2-3.真夜中に道に迷っているときに発見したので写真がぞんざいだ.
美含郡の3坂について知るため兵庫県会史を読んでいる。その中で鐘ヶ坂隧道に関するちょっと気になる情報を見つけた。明治22年臨時郡部会の議論のなかに。
この臨時郡部会は同年発生した水害の復旧にあてるため土木費を再考するために開催されたものだが、その最後に「明治二十一年度所属鐘ヶ坂墜道修繕工事及八部郡須磨村ノ内西代村外四ヶ村所属県道及橋梁更正工事費不足二付二十二年県道更正費の剰余金を充用する件」という議案が審議され可決されている。但し次のような答申書つき。
本案に対しては事の止むを得ざるものと信ずるを以て諮問通り異議なしと雖も其事の止むを得ざるに至らしめたる原因に至りては特に主務者の注意を請わざるを得ざるものあり自今土木工事の設計の如きは一層精細緻密なる考案を要し嘗て議会の標準となしたる設計を変更せずんば実際工事に差支を生ずるが如き不都合を惹起することなからんことを切望す
右御諮問に対し答申候也
明治二十二年十一月十七日 兵庫県郡部会議長 内藤利八
兵庫県知事 内海忠勝殿
要するに明治21年度に鐘ヶ坂隧道の修繕工事を行なったらしいのだが、その工費が予定を超過してしまったため、22年度の県道更正費の剰余金でそれを充当したいんだがと諮問され、ちゃんと設計してくれよと文句をつけたうえで認めている。
ここでいう主務者は、たぶん氷上郡と多紀郡。この当時鐘ヶ坂隧道は県道丹後街道の一部を構成していたはずで(兵庫県統計書明治21年版には追入~市島間三里十八丁余りが車馬通行可能になっている。追入から瓶割峠あるいは佐仲峠を越えてはそうはいかない)この時期の場合は郡が県道改修の実務を行なっていた。
この時行なわれた改修が、隧道内部の坑道巻き立てなんじゃないか。鐘ヶ坂隧道が竣工した時には坑口付近しか巻き立てられていなかった(『丹波国鐘坂隧道略記』には「洞長さ百四十七間…磚の囲む所長さ八拾四間」とある)。現況の隧道は長250mに渡る巻き立てがあり中央付近が二重になっている&内側の巻き立てが崩壊している。この崩壊は昭和の盤下げ後の崩落によることはわかっていたけれど、そもそもこの中央の巻き立てがいつ作られたのか、しかも二度巻かれたのはなぜか、わかっていなかった。
上記想像があたっていれば、21年度工事で外側の巻き立てをしたが、それに不具合が生じてやり直しをしたのが22年度ということになりそうだ。これをもっと掘り下げるには22年度議会の議事録とか見つけ出すしかなさそうだ。或いは丹波新聞のその頃のバックナンバーを漁るとか。
明治時代の県道とか道路行政とかを知りたいと思っても手取り足取り教えてくれる本とか記述とかはまずない。まずもって府県によってずいぶん違う。三重県なんかは確かかなり早い段階から補助里道の制度を設けていたけれども兵庫県には恒常的なその制度はなかったらしいだけでなく国県道の改修も全額地方税支弁というわけでなかったらしい。明治21年の制度では国県道改良工費の半額を地方税で、残りは協議費(関係町村から割賦して徴収)。三重県や奈良県の例があったので県道は地方費支弁が大前提みたいに思っていたけれども決してそうではなかったようだ。郡が国県道の改修をしてたというのも今までの理解から逸れている。この時代の郡はあくまでも県の出先機関のような存在であって、土木事業に関しては上寄りに関わっていたわけだから、自分が理解し損ねていただけなのだろう。確かに鐘ヶ坂隧道も工費の半分は地元住民の寄付金で賄われ(略記にも町村連合会が出てくる)残りは国庫補助。3坂に対する美含豊岡郡役所も監督者の立場。あれをものしたのは沿道町村であって郡はお金を出していない。当時は里道だから。鋳物師戻峠は県道因幡街道なので工費半額を負担して工事を実施している。
郡制は23年公布だが実施はもっと遅い。兵庫県は明治29年から。大阪はたしか32年で全国でも最後の方。さらに兵庫県は郡制以前から市部と郡部とで経済を分けていた。東京や京都、大阪、神奈川と同様の三部制。それをやり始めた時期や三部制なのか否か、23年の郡制の実施時期のちがいで県道里道の扱いがずいぶん違う。&、兵庫県は早くから「地方自治」熱が高かった。せっかくついた里道一等道路への地方税補助を「却って自治の精神を減殺するもの」として全廃したりしている。道路や河港の影響をその地方限りのものと考えがち=地方税による支弁に懐疑的なのも特徴かもしれない。あ、あと、他県が「仮定」県道を早くに見捨てて地方税支弁/補助/協議費の分別に切り替えていったのに対し国県里道制を比較的遵守してたという面もあるかも知れない。議会史第一巻のなかには「仮定県道」という言葉は一個しかみつけられなかった。
議会史やら例規集やら統計書やらを読み漁る日が何日も続いた割に理解が追いつかない。すとんと腑に落ちる理解をしたい。そのためだけに読んでいて、その時間がほしい。
寺田甚与茂が会社を設立した時、続いて「第二紡績会社」を設立するつもりであったので「第一煉瓦会社」と命名。「 岸和田紡績株式会社五十年史」p.3。ふむ岸和田紡績のほうに書いてあったか、道理で思い出せなかったはずだ。
『岸和田志』p.424 https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1187455?keyword=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%85%89%E7%93%A6&page=234