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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2013-07-16 [長年日記]

[煉瓦工場] 大正煉瓦曽根工場@印南郡曽根村

画像の説明大正煉瓦の工場が初めて記録に現れるのは『兵庫県県勢要覧』大正6年版。『工場通覧』大正8年版には印南郡曽根村、大正6年6月創業となっていて、その後あちこちにできる大正煉瓦工場のなかで最も古いから、ここが同社の創業の地であったようだ。写真は天川の左岸側から工場のあった右岸側を見渡した景(曽根村の中心は左岸側にあった)。

画像の説明この工場は昭和10年代の『工場通覧』に番地が載っていて、同じ番地が現在も存在しているらしかったので、おそらくその辺りだろうと目星をつけて行ってみたところ、こんな感じの古い工場が軒を連ねていた。この北方にはノコギリ屋根の古工場を割拠して使っているところもあった。ここではとりあえず工場長屋と呼んでおく。

雰囲気からしても使われ方からしても、この辺りが煉瓦工場の跡地に違いないと思い、辺りを探しまわってみたところ、写真の広場の東側、工場と道路との境界が、石垣ならぬ煉瓦垣になっていた。焼損煉瓦や屑煉瓦を積んで高さ50cmくらいの擁壁を築いていたのだ。

画像の説明

煉瓦垣にはお目当てのものが使われていた。「大」刻印だ。大正煉瓦があったという場所でこの刻印が見つかり、しかも焼損煉瓦まであったのだから、これほどあからさまに直結する証拠はあるまい。大阪では工場跡地に行っても痕跡が見つからないことが多かったけれども、大阪ほど変化が激しくないこの辺りでは行けば何かが見つかる確率が高いことがわかり、探ってみて損はないという確信を深めたのだった。


現地ではそう思って手放しで喜んでいたのだけれども、帰って古い航空写真を確認してみて若干思い違いをしていたことに気づいた。大正煉瓦の工場は厳密に言えばこの広場の北にあるニッセイ曽根コーポの辺りであったらしい。

画像の説明

引用元:昭和49年撮影の航空写真(国土画像情報閲覧システム)。ここに堂々とホフマン釜が写ってる。中央の煙突の高いこと高いこと! そりゃ地形図に記号つけて載せたくなるわと思うような目立ちモノだ。

これとグーグルマップの航空写真と見比べるとホフマン窯の辺りにマンションが建ったことがよくわかる。工場長屋は昭和49年から同じ位置にあり続けているようなので、それを基準にして見比べるとよいかもしれない(ということはこの工場建物は大正煉瓦時代のものだったりするのだろうか?現地で人掴まえて聞いておけばよかったな)。

画像の説明

マンションがニッセイ曽根コーポという名前であるのもちゃんとした意味があった。戦後の『工場通覧』を追いかけて行くと、昭和31年頃に和田煉瓦の中筋工場が「日成産業(株)」の所有になっていた。いまその跡地に建っているのがニッセイマンションだから、日成産業(株)が不動産業に転身し、後に大正煉瓦跡地も買い取ったのだろうと想像される(大正煉瓦曽根工場は最後まで大正煉瓦だった)。阿弥陀の工場後のセンチュリーアニーも元はきっとニッセイグループの所有だったに違いない。マンション敷地に古煉瓦をリサイクルしてるところなんかは同じ匂いがする。そうしてこのニッセイ曽根マンションもやはり、花壇に古煉瓦を再利用していたのだった。

煉瓦工場は素地煉瓦を並べて乾燥させるための広場(乾燥場)を必要としたので、工場敷地も自ずからデカくなった。廃業してそんな広場が浮いたとき、マンションでも建てるか、となるのはよくある流れであったらしい。日本煉瓦工場跡も堺市営マンションになっていたし、奈良の齋藤煉瓦もそうらしく思える。後者はまだ訪れてないけれど。

[煉瓦工場] 伊藤煉瓦工場@印南郡曽根村

大正煉瓦曽根工場とは300mくらいしか離れていない場所に伊藤煉瓦株式会社はあった。創業昭和7年と比較的新しいが、どうも中播煉瓦曽根分工場(大正6年創業)→播州煉瓦合同曽根工場(昭和3頃改名)を経たものらしく、工場敷地自体?は年季が入ったものだったらしい。そうして戦後も営業を続け、最後は伊藤恒業(株)という誤植じみた名前に変わって、S45版まで記載がある。赤煉瓦だけでなく耐火煉瓦なども手がけていたようだ。

昭和10年代の『工場通覧』に記載された番地は現在の曽根駅前総合市場の辺りを指していて、その南には広い空き地もある。いかにも何かが残っていそうなシチュエーションだ。そんなこんなで結構期待していたのだけれども、結果はそれほど芳しくなく。県道を挟んだ向かいにある旧宅壁に「イ」の字刻印の煉瓦が使われているのを見つけられただけ。総合市場のほうは言わずもがなだ。

画像の説明

近くを通りかかった方(私よりも1回り年上の女性2人)に尋ねてみたが、煉瓦工場のことはご存知でなく、空き地はナントカという鋳造工場の移転した跡だと仰っていた。もしここが煉瓦工場跡地だったとしても、その跡地を使った会社すら退転しているのだから、地面の下まで改まってしまっていることだろう。そのうえ空き地は金網で囲われているし夏草が旺盛に茂っているしで地表の様子を伺うことすら難しかった。煉瓦工場跡地の探訪は春とか冬とかのほうがいいのかも知れない。

同行のFさんと「そういうこともありますよ」的な話をしつつ南下していき、山陽電鉄の南側にあった関野煉瓦工場跡へ向かう途中、別の大きな空き地を発見し、そこで別種の「イ」刻印を発見した。最初に見つけはったのはFさんだ。「向こうにも「イ」がありましたよ」という声に、最初はなんという期待もせず見に行って・・・

[煉瓦刻印] 「松葉菱+イ」(伊藤煉瓦@印南郡曽根村?)

「松葉菱+イ」煉瓦刻印

大阪府豊中市岡町桜塚高校(旧豊中女学校)の煉瓦壁に使われている「松葉菱+イ」だったのだ。写真はその壁のを流用したが、刻印の大きさも、機械成形の平に押してあるのも全く同じ。唯一違うのは、長手の一方に緑の釉薬をかけて焼いた化粧煉瓦だったことくらい。

まさかここでこの刻印に遭遇するとは。だってこれ、伊丹の伊丹煉瓦のじゃね? と思っていたのだもの。&、ここまで「イ」一文字のばかりで、それが伊藤煉瓦のだと信じ込んでいたのだもの。

今のところ、印南郡ではここでしか見つかっていないから、これが即伊藤煉瓦のものだとは断言できない。しかし伊丹市にポツンとあった煉瓦会社の煉瓦が、煉瓦製造のメッカである印南郡に運び込まれたと考えるよりも、印南郡から大阪に流入したものが岡町まで流れてきたというストーリーのほうがあり得そうな気がする。だって阿弥陀や曽根には大阪の煉瓦すら入ってきていないのだもの。大正煉瓦曽根工場の北の方でキシレンを一つ見かけただけだ。

印南郡へ行くときは機械成形煉瓦にも気を配っておかなければ。いや今までも随分注意していたつもりなんだけど。


帰ってから国土地理院の地図空中閲覧サービス正式版を見ていて、この辺りの昭和30年代の国土基本図が収録されていることを知った。これに伊藤窯業の位置がばっちり記されている。やはり曽根駅前市場のある辺りであったようだ。

[煉瓦] 東洋煉瓦と伊丹工場と塔本可珉

『大日本窯業協会雑誌』No.345、大正10年5月号。

東洋煉瓦 大阪市東区北浜二丁目東洋煉瓦株式会社(資本金五拾万円内払込拾弐万五千円)は府下伊丹所在の二三小工場に付き設備の完成に努めたるも未だ操業に至らざるが最近泉州塔本煉瓦工場買収契約の成立を告げたり同工場は施設既に完成し目下月産五十万個の能力ある外現に二百万円のストックを擁せるが差当り右の能力を以て註文に応ずる予定なる外前記伊丹工場も茲一二月後には月額六十万円の製造に着手する筈

大正中期のこの雑誌にはこんな感じの小記事がいくつか出てくる。小さな情報だがふだん人の目に触れにくい質のものなので捨て置くわけにいかないのだが、ここから確固たる事実を引き出すのが難しく、扱いに困る。伊丹は 大阪府下じゃないし、「製造に着手する」というのも頼りない。その後どうなったのかきちんと追わないと使えない。

仮に伊丹=兵庫の伊丹だとすると伊丹煉瓦製造所との関連が考えられる。伊丹煉瓦製造所は資料によって操業年が大正3年とか6年とか12年とか昭和9年とかまちまちだ。して『工場通覧』に載っている伊丹の煉瓦工場はここだけであったりする。一筋縄でいかない工場。

塔本煉瓦工場は明治36年創業だがその後載ったり載らなかったりしている。操業と休止を繰り返したか人数が微妙だったのだろう。初は塔本常治の所有で鳳村大字大鳥に所在、素地煉瓦専門、後に八田荘村へ移って小西可珉>塔本可珉が工場主となった。 この工場はT9頃まで操業して消えるが、 月産50万個というから個人工場としては充分に大きかったほうだろう(それでも津守煉瓦の数百万個には及ばないが・・・津守煉瓦は最初の一時期株式だったのだがすぐに個人経営になった。丹治煉瓦も明治期は個人工場だった)。

八田荘村には後に堺煉瓦製造所が興りS10〜14頃営まで操業している。戦後は日本マグネシムがその場所を使った(番地が一致)がすぐに撤退した。

当の東洋煉瓦は・・・大正時代に工場を所有した記録がない。M19―M30の東洋煉瓦は墨江村だし。商社と直属工場みたいな関係で、卸業をやっていたのかも知れぬ。

[煉瓦工場] 伊丹煉瓦製造所@兵庫県伊丹町大鹿

豊中女学校の「松葉菱+イ」刻印が伊丹煉瓦のものじゃないかと考えた当初、その工場跡地を探しに行っている。『工場通覧』にはその所在地が「伊丹町大鹿」とあり、今も大字大鹿(おおじか)という地名があるので、きっとそのどこかなのだろうという単純な発想に基づく行動だ。

伊丹市大鹿。西隣に陸上自衛隊の駐屯地がある。この範囲をくまなく歩き回ってみたわけである。

が、この時工場跡を特定することはできなかった。煉瓦の壁を一箇所見つけられただけで、刻印もなく、それ以外に煉瓦転石を見つけることさえできなかった。やっぱり工場跡地を探しても無駄なんかなあ……と悄気たのを覚えている。

その後『工場通覧』を虱潰しして、年度によって地番まで記されていることがあるのを発見。ただしこれも再訪ドリブンの直接の源にならなかった。版によってまちまちなのだ。住所が。

兵庫県工場一覧 昭和4年12月末日現在』 川辺郡伊丹町大鹿
全国工場通覧 昭和9年版』 川辺郡伊丹町三田大鹿玉田19
『全国工場通覧』昭和14年版 川辺郡伊丹町大鹿19
『全国工場通覧』昭和15年版 川辺郡伊丹町大鹿角入19

こんな感じ。『通覧』はこういうのがザラにあるから困る。大字大鹿で番地が19番、というのは確かなようだけれども……。


こういう古い住所が、今のどの場所に相当するか知りたい時は、法務局の登記窓口へ行けばよいと教わった。伊丹市域を管掌する法務局は市役所の西隣にある。たまたま大鹿とも近い。行って尋ねた足で現地へ行こう。ということで暑い中自転車で向かった。

法務局の登記窓口で「伊丹町大鹿19番地」を尋ねると、新旧住所の対応表を繰ってくれた。しかし窓口の方の手を煩わせても「伊丹町大鹿19番地」は見つからなかった。大鹿の中にないのはもちろん、伊丹市伊丹町に大鹿がある可能性も当たってくださったのだが、見つからず。窓口の方曰く「市役所の住所変更窓口で尋ねたほうがいいかもなぁ」と。

市役所では土地調査課に回された。窓口でこれこれと伝え、窓口の方が帳簿を繰って探して下さったが、やはり見つからなかった。そういうもんなんだろうか……。

しかし、係の方がこんなことを仰ったことが突破口になった。

「『伊丹町大鹿19番地』というのは不完全な表記やなあ。大鹿は大字やから、その19番地というのはあり得んのよね」。そう言われて気がついた。確かにそうだ。うちの田舎は大字+地番で郵便物が届いたが、伊丹のような大きな待じゃ小字の下に地番をつけないと整理がつかないのだ。

「そういえば「角入」とか「玉田」とか書かれた資料もありました」と伝えると……。確かに大鹿に字角入(ツイノリ、とルビられていたが本当だろうか?)、字玉田が見つかった。うち19番地まであったのは角入のほう。そうして角入19番地はいまの瑞原(みずはら)2丁目の59番地になっているという。瑞原2丁目というと……いまの大字大鹿とは飛び離れた、もっと北の方だった。そりゃ、見つからんわ。


その番地を現在にあてはめる段階で、また問題が。瑞原2丁目にはいま59番地が存在しないらしい。あるのは57番地までで、その57番地の一帯が1つのマンションになっているので、合筆された可能性が高いとのことだった。まあ、ここまで絞り込めれば充分だろう。礼を述べて役所を辞した。


画像の説明瑞原は「みずはら」と云うのだけれど、「瑞ヶ池」は「ずがいけ」であるらしい。一文字くらい略さんでもいいんじゃね? 逆に格好悪くなってね? と思いつつ現地へ。該当場所はこんなマンションだが、このはす向かいに瑞ヶ池があるという、煉瓦工場としては悪くない立地だ(池の底土を採取して原料にすることができたので。奈良の大和煉瓦、西村瓦工場はそうしてた。煉瓦会社は土が採れてウマー、池の利用者は嵩下げされて貯水量が増えるのでウマー、というウマーウマな関係になる)。

画像の説明ちなみにこの東側は三菱電機の工場になっている。写真はその西端にある体育館。敷地の広さからいえばそちらのほうが煉瓦工場的なのだが、逆に広すぎるかな?

マンションの周囲を歩きまわった。比較的新しい民家(一戸建ての建て売り住宅的なもの)が小奇麗に連なり、その間を畑が埋めている。そんな光景がコピー&ペーストで繰り返されている。ちょっと期待薄な環境で、諦め半分で畑に絞って見ていくことにした。畑に煉瓦。これが結構あったりするのだ。

画像の説明

ほら。マンション西向かいの畑のふちで煉瓦転石を発見。ずいぶん断片化しているが刻印らしきものがついていた。といっても線が2本あるだけだけど……。

画像の説明

あまりにシンプルなので刻印じゃないかも知れないなと思ったが、畑の別の場所でもうひとつ転石を見つけた。明らかな焼損煉瓦で、しかもさっきと同じような刻印がある。途中で欠けているため断言できないのだが……「//」形の2本の線であるらしい。工場跡地のそばで見つかった焼損煉瓦に刻印があるのだから、これが伊丹煉瓦で使われていた刻印と見るべきであるようだ。

その後工場の周囲を一周したり、三菱電機の体育館のほうに入り込んだりしてみたものの、この他には古い煉瓦を見つけることができなかった。番地まで確定しても確たる現況証拠がないこともあり得るということだ。煉瓦2つというのも少なすぎる気がする。しかし生物の新種認定には2個体以上が必要だと聞いたから、煉瓦も2つでじゅうぶんですよなのかも知れない。そんなことをぐらぐら考えつつ帰路についた。


並行する二本線の刻印は存在しないわけではない。例えば岡町住宅地の中には「||」型の刻印煉瓦がある。斜めになったものも存在したはずだ。あまり短いと大正丹治と同じ構えになってしまうが、伊丹煉瓦が興った頃にはすでに廃業していたのだから、それほど問題視する必要はないだろう。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ 齏藤 (2013-07-16 21:44)

ペントハウスのオブジェが独特な十三のタイガーマンションも虎印計算機の跡地なのでした(だからナニ?)

_ nagajis (2013-07-16 23:13)

タイガー手回し計算機、回したことありますよ(同)

_ ヒョウタンツギ (2013-07-19 00:21)

見た事のある地図だと思ったら、、、<br>阪急伊丹の近所に住んで、ズガイケの向かいに通っていましたよ、6年前。<br>たま〜に池田の懐かしいお山にも行ってました。<br>失礼しました。


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