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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-07-16 この日を編集

[陸幼日記]七月十六日 水曜日 晴

日夕点呼後明日の野球選手を決定す。吾出づるなり。必ず勝たん。公明正大と戦わずんばあらず。あと三日にて授業終了なり。


1942-07-16 この日を編集

[陸幼日記]七月十六日 木曜日 晴

父の命日なり。独語は斉藤教官殿休まれたるに依り教頭殿の時局の話なりき。午後は工作。予近日より大車輪を練習す。されどなまなかに出来得る物にあらず、十分骨身措〔惜〕しまず練習必要なり。今日は昨日に比し自習時間の活用不可。


1943-07-16 荒地耕作 この日を編集

[陸幼日記]七月十六日 金 曇風

父の命日。昨日家へ明日は緊張して過す旨約束するも、朝の遥拝時の彼の決心は欺かれ昼には全く意中に非ず稍だらけたり。此の日終日緊張し切れざるを恥ず〔づ〕。五時限は耕作(命に依り狭窄射撃場の裏手に荒地を耕し十名一組にて約二坪を耕し農業することとなれり。予は是に趣味ありて班長となる)なるも運動班長副長は一年の増掩〔援〕の意を以て暑中稽古剣術の助手となり、面の斬撃をなす。約三十分、後には頭が変になる気したり。面を除けば前頭は瘤だらけなりき。其の痛きに驚きたり。ついで剣術、再び耕作あり。近日体の工合頗る良好にして特に最も体操を好む。然して好調なる故愉快なり。


2008-07-16 終了 この日を編集

[ORJ] 結局間に合わなかったな・・・

15日中にファイルをupしたのだけれどトップページの書き換えに手間取った。どうせ遅れたならもう一度くらい本文を見直してから・・・と思わないでもなかったが発行。あとで書き換えられるからというのではなく、「15日発行」の不文律を破ってしまったがゆえの脱力感から。

人はどう取るか知らないが、締め切りは最後の守るべき砦であった。たかが同人誌?そうかも知れない。購入読者数ン百人のちいさなちいさな同人誌だ。だがそのン百人の方々に支えられてnagajisは生かされている。真摯でありたいと思う。バカをする時は徹底的に、真面目にならなければならない場面では糞がつくほど真面目に。その目論見が崩れたがゆえの脱力感。

有巣峠に行ってからどうもテンションがおかしい。今は一人で山隠りしたい。その前に寝たい。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ NRG [両方第27号第一部ですぜ(笑) >ダウンロードページ]

_ nagajis [寝かしてやってください(泣]


2009-07-16 終了 この日を編集

[pdf][ORJ] 39号了

photoshopで作ったのが敗因。複数行のテキストをeps保存>pdfにすると必ず行が抜けるのを忘れてた。一ファイルにつき三回くらい保存しなければならず時間を喰った。14日夜に全原稿upなのはどれくらい影響したか。さあね。

所詮は趣味の延長だからな。おれが死のうと死ぬまいと関係あるまい>ALL。発行遅延の文句はすべてながじすまでどうぞ。

[独言] 東熊野街道反省

第三部は容量不足で急遽付け加えたようなものだ。無料にしといてもいいや、とも思ったがそれで金をもらうわけにもいかないからな。無料公開したければ別に書け>nagajis。

結局追加で出かけることができず次善の策。章立てとしてはあまり良くない。流れとしてはとしてはプロローグ>第二章>第一章>以降のほうがわかりよいはずなのだが前回焦り過ぎた。もう一回五社峠で畳み掛ければもうちょっと違う展開にできたかも知れないのだが。後半が持たないかも知れないし。大迫ダム周辺をねじ込んだのは我ながら姑息だと思う。ここを逃すと他で取り上げるチャンスがない。

今回は本文も解像度200dpiにした。ファイルサイズが1/3になったのはこれが大きい。大使いの写真は今回のほうが多いはずだが総量が少ないため1/3になっている。極端な話、大使いのページ一枚も写真一つの本文ページ一枚もさほどサイズは変わらない。

なお、次回予告が東熊野街道1つなのは、予告したとしてもその通りにならないから。次号の予定なんてこれっぽっちも決まっちゃいない。

[ハチ] 観察日記#3

一週間ほど前の雨の晩に2、3匹孵化した。中程の数部屋だけ蛹が入っていたようで、他の小部屋は1mmくらいの白い卵が貼り付いたまま蓋もされていない状態で1カ月になろうとしている。ここからどうするつもりなのだろう。

よくわからないのは、親蜂も小蜂もほとんど巣を離れることがなく、かといって巣を増築しているようでもなく、小さな巣の周りをこそこそ歩き回っているだけなことだ。最初にいた2匹のうち目の茶色いほう(勝手にチャメと命名)は終始巣にいて飛んでいるところを見たことがない。もう一匹の目の黒いほう(同クロメ)は時折巣を離れていたような気がする。で、羽化した数匹はクロメに似たやつ。オスとメスの違いなんだろうか。そのうち親のクロメと見分けがつかなくなり、また羽化当初から数が減って(確か3匹くらい生まれてたはずなんだが・・・)、いまはチャメとクロメ2匹が巣に貼り付いている。

[独言] 今月予定

書いても仕方ないか・・・7月末から8月頭辺りに外出する。鉱毒料関係売買関係が滞る。HEADLINE忘れずに。

五社峠についてはもう一つ調べておきたい旧道がある。江戸時代の古地図には南国栖−東川波津−西河の道筋で描かれたものがある。これが小仏峠というものなのかも知れない。それから水路橋のこと。改修されているのか、それとも地図の通りのサイフォンなのか。写真には普通の橋しか写っていないのだが・・・。見逃していてあとで重要度が増したもの。

それから、伯母峰峠の旧道。雪で逃げたあの道がどこに繋がっているか。長根道は辿るの無理だろうが。

今回はむしろ北山郷に重点をおく。河合峠、音枝峠、池の峰、不動峠。無造作に七色一谷まで、と書いているが実は大きな換線があったことを後で知った。その道とダンプ道以前のダンプ道(大里トンネル)の関連。どの程度需要があったのか。これを解明しない限りオデュッセイアは終わらない。

カメラを置いていけたらどれだけ気が楽なことか。しかし撮らなければ記事にならないしなあ。ああ、またあのハムサンド食べたいなあ。箱庭のような池原を見たいなあ。峠の向こうは、どうなってるんだろうなあ。

[ORJ] 業務連絡

もちろんOKです>二枚橋さま。お待ちしています。送り先をお忘れなく。

謎ワードはスルーするのが吉です。SPAMに気をつけてください>ととさま

寄稿いただいたnoganaさま、OFFに参加して下さった&校正していただいたやのさまかるおさま謎の自衛官さま辰さま、そしてTRDBに多大な示唆をいただいたmultiさま、掲載号を無料でさしあげますので少しお待ち下さい。。。読者登録されている方で残金がある場合は先にDLいただいて構いません。+400の操作をしますので。

noaさま、返事が遅れて申し訳ありません。新天地での活躍を遠くからお祈り申し上げております。体調不良は少しずつ良くなりつつあります。ご心配いただき感謝です。

isoさま、ここでブツクサ言っていることは気にしないで下さい。興行的にはnagajisが居ないほうが成功します。何より9月まで体が持たないかも知れません。

その他もろもろに(自粛)

[ハチ] ハチかんさつ

今日も猛暑の編集部事務局周辺。ハチも元気だ。久しぶりに激接近してみると・・・ コッチクンナ

お!幼虫がおーる。他の部屋にも一匹、奥で蓋されているのが一部屋。だんだん賑やかになっていくのだろうな。

幼虫をさましてやろうというのか、チャメが頻りに羽ばたきをしていた。後ろ4本で巣にしがみついて、前足は折り畳んで「ん〜」みたいなポーズをして羽ばたいている。その前足がときどきヒョコヒョコ動くのがかわいい。虫はえらい。

[独言] 首振りスイッチ破損\950えん

ついに ねんがんの せんぷうきを てにいれたぞ!

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ てっく [もう…ハチはカンベンして…]

_ とと [幸せなせんぷうきの生涯=タイマースイッチが壊れる→頸椎を骨折してうなだれる→ガムテによる延命処置→老衰による旅立ち。 不幸なせんぷうきの生涯=カンフー映画が放送される→影響を受ける→回し蹴りの練..]


2011-07-16 この日を編集

[D] 7/15

画像の説明見知らぬ土地に来ている。自転車旅の途中のようでもあるし、野球部部員の一人として遠征に来ているようでもある。遠くに屹立する岩山が見える。その麓を掠めるような形で洞窟が口を開けている。周囲に見える家々と比較すると「馬鹿」がつくくらいにでかい穴である。

そのうちこれが、有名なあの隧道であることを思い出す(名前は思い出せなかった。以下○○隧道と書いておく)。自然に出来た地形であるのだが、奥が塞がっていて、それを人力で貫通させて交通の用に供したものだ。此の側からの眺めを撮した絵葉書もあったはず。せっかくだから行ってみようじゃないか。

そう思って市街を走っていくが、格子状に発達した近代都市のなかを走るため、隧道へ直接向かう道がなく、ひどく遠回りさせられる。この感じは北条市街を古坂隧道に向かっていく時のヤキモキにちょっと似ている。

画像の説明何とか直下まで来たところ、道は市街地の平坦な道から一転して急勾配のうねり道へと変わる。取付きから見るとちょっと怖じけてしまうような激坂だ。たまたま居合わせた高校生数人組(同じところへ向かっているらしい)もこの坂を見て「こっちじゃないよなアハハ」などと乾いた笑いを漏らしている。方向的にはこの道しかなく、直感もこっちだと言っている。仕方なくギアをインナーローに落としてヘコヘコ登っていく。

 道は確かに急勾配なのだが苦しかった記憶はない。ともかくひたすら20%強の坂道を登っていった。それがだんだん狭く薄暗くなっていき、陸橋のような構造物の下を何度も潜った。道の蛇行を串刺しする形で上に何か通っているらしい。やがて道はその陸橋様構造物の脇へ入っていき、さらに勾配をあげて壁のようになってしまう。そんな姿になりながらもこれが正しいルートだと信じ切っている自分は切迫されるようにして進んだ。

画像の説明とうとう道は崖になった。左手の岩壁、右手のコンクリート構造物に挟まれた、幅1mほどの溝状の崖だ。R173の一庫ダム脇の陸橋や、矢ノ川峠旧道の滝見橋の脇から水場へ降りていく道とも雰囲気が似ている(これほど厳しい垂直度ではないが)。頭上の岩棚に一の腕を載せ、足場を踏み張って、力づくで登らねばならないような垂直崖が続く。意外に登れるのは荷が少ないせいだろう。いつのまにか自転車が無くなっているのに、ヒップバック一つだけだから楽なのだと思っている。

画像の説明背後および足元のスカスカ感が恐ろしくなるほど登ったところでガードレールに行き着いた。必死にしがみついて登り、身を乗り出せば、まるでスキー場かジャンプ台スタート地点の如き様相。人工的な芝生が広がる30坪ほどの広場と、そこからなだらかに下っていく斜面があった。なんだこりゃ?

だんだん状況が飲み込めてきた。さっき陸橋だと思っていたのは人工ゲレンデのようなものらしい。その傍らに、ここからは見えないが超巨大な滑り台もあるはずだ。それを私は滑らなければならかったのだ。(この辺りから大人数で行動する団体の一人になって、芝生斜面の下でキャッチボールをしたような記憶がある。マウンドでピッチング練習をしている人間を羨んでみたりとか)

運動ののち、滑り台のほうへ移動しなければならなくなった。自分は台車を押していく役をしている。このフィールドに登りついた時には滑り台を滑る事になっていたはずで、そのほうへ移動していったはずなのだが、そこまでの道のりが長かったのか、はたまた別目的の移動だったのか、滑り台は滑らずに一車線幅の舗装の坂道を下っていった。えっ、こんな道あるんなら最初から言ってくれよ! さっきの崖登りは何だったんだよ! そんな軽い憤りを感じつつ、3、4%ほどの緩勾配の坂を押し下っていく。

画像の説明急に思い出した。そうそう、この用事が済んだら○○隧道へ行かなきゃ。今ちょうど○○隧道の方角へ進んでいるはずだ。そう思って見上げれば、頭上前方の空を覆う巨大な岩崖。そこまでの間に古風な石垣があって列をなしている。2列あるのは土留めだろうか? いやいや違う、両方とも路肩の石垣だ。自分がいま台車を押して下っている道とは別にもう2本の道があるのだ。

画像の説明上の一段は……と目で追っていくとトンネルが見えた。しかしこれは鉄道のトンネルだ。コンクリートで出来ているし束になった架線も通っている。そのうえ折よく電車が来た。トンネルの向こうからプォーンという汽笛の音、軌条の軋みとガタンゴトンの音が聞こえ始める。

画像の説明では、目的の隧道は? と斜め下へ視線を移して、そこに目当ての○○隧道を見つけた。隧道はとても短く、今いる場所から見上げる角度にありながらもう出口の明かりが見えている。その明かりのお陰で天井が明るいほどだ。遠目にも石であることがわかる天井なのだが素堀とも石組みとも違う感じ。なんというか……一枚岩を刳り抜いて半割の竹のようにしたものを使っている。厚さが50cm〜1mくらいああって、その厚ぼったさがいかにも古い手作り感を漂わせている。へえ……変わった隧道だ。

その隧道が見える辺りから道はヘアピンになり反対へ進み始める。そして1車線地道に合流し、すぐさま短いトンネルに入る。妙に新しいコンクリート製だ。これが○○隧道ではなく、ロックシェードのような目的で作られたものだろう。ということはこの斜面に2筋の道がついていることになるのか。

画像の説明そんなことを思いつつトンネルを抜けようとした時、右手に碑があるのに気づいた。畳を半割、あるいは1/3割にしたくらいの大きさで、かまぼこ型をしている。そのかまぼこ型の縁は浮き彫りになっていて、ちょうどさっきの○○隧道の天井のようだ。

あれを模したものだろうか? と思いつつ碑の文字に目を走らせる。右書きで面白山なんとか……。いや、「白」ではなくて「耳」だ。面耳山。面白山という山は聞いたことがあるが、そうじゃない。変わった名前だ。「なんとか」のほうは「隧道」だろうと理解し掛かったものの、よく読めばそうではなく、「棺堤」だ。(と今これを入力したら「堰」の字が出てきてこっちだと思う。読めるが書けない類の文字でイメージはとても近い)

棺堰。なんだろうこれ。字面から察すると古代墳墓の棺の蓋か何かのように思える。ということはさっきの隧道やこのトンネルのことではなく、そういう遺跡を案内する碑なのだろうか。いやいや、さっきの隧道の古さからすると、隧道をそう呼んでいたのかも知れない。「隧道」だってそもそもは墓へ通じる道のことを言ったじゃないか。なるほどなあ。そういうことかあ。

というところで目が覚めた。妙に理論的で高さや方角の感覚も合っているのが我ながら可笑しい。    


2013-07-16 この日を編集

[煉瓦工場] 大正煉瓦曽根工場@印南郡曽根村

画像の説明大正煉瓦の工場が初めて記録に現れるのは『兵庫県県勢要覧』大正6年版。『工場通覧』大正8年版には印南郡曽根村、大正6年6月創業となっていて、その後あちこちにできる大正煉瓦工場のなかで最も古いから、ここが同社の創業の地であったようだ。写真は天川の左岸側から工場のあった右岸側を見渡した景(曽根村の中心は左岸側にあった)。

画像の説明この工場は昭和10年代の『工場通覧』に番地が載っていて、同じ番地が現在も存在しているらしかったので、おそらくその辺りだろうと目星をつけて行ってみたところ、こんな感じの古い工場が軒を連ねていた。この北方にはノコギリ屋根の古工場を割拠して使っているところもあった。ここではとりあえず工場長屋と呼んでおく。

雰囲気からしても使われ方からしても、この辺りが煉瓦工場の跡地に違いないと思い、辺りを探しまわってみたところ、写真の広場の東側、工場と道路との境界が、石垣ならぬ煉瓦垣になっていた。焼損煉瓦や屑煉瓦を積んで高さ50cmくらいの擁壁を築いていたのだ。

画像の説明

煉瓦垣にはお目当てのものが使われていた。「大」刻印だ。大正煉瓦があったという場所でこの刻印が見つかり、しかも焼損煉瓦まであったのだから、これほどあからさまに直結する証拠はあるまい。大阪では工場跡地に行っても痕跡が見つからないことが多かったけれども、大阪ほど変化が激しくないこの辺りでは行けば何かが見つかる確率が高いことがわかり、探ってみて損はないという確信を深めたのだった。


現地ではそう思って手放しで喜んでいたのだけれども、帰って古い航空写真を確認してみて若干思い違いをしていたことに気づいた。大正煉瓦の工場は厳密に言えばこの広場の北にあるニッセイ曽根コーポの辺りであったらしい。

画像の説明

引用元:昭和49年撮影の航空写真(国土画像情報閲覧システム)。ここに堂々とホフマン釜が写ってる。中央の煙突の高いこと高いこと! そりゃ地形図に記号つけて載せたくなるわと思うような目立ちモノだ。

これとグーグルマップの航空写真と見比べるとホフマン窯の辺りにマンションが建ったことがよくわかる。工場長屋は昭和49年から同じ位置にあり続けているようなので、それを基準にして見比べるとよいかもしれない(ということはこの工場建物は大正煉瓦時代のものだったりするのだろうか?現地で人掴まえて聞いておけばよかったな)。

画像の説明

マンションがニッセイ曽根コーポという名前であるのもちゃんとした意味があった。戦後の『工場通覧』を追いかけて行くと、昭和31年頃に和田煉瓦の中筋工場が「日成産業(株)」の所有になっていた。いまその跡地に建っているのがニッセイマンションだから、日成産業(株)が不動産業に転身し、後に大正煉瓦跡地も買い取ったのだろうと想像される(大正煉瓦曽根工場は最後まで大正煉瓦だった)。阿弥陀の工場後のセンチュリーアニーも元はきっとニッセイグループの所有だったに違いない。マンション敷地に古煉瓦をリサイクルしてるところなんかは同じ匂いがする。そうしてこのニッセイ曽根マンションもやはり、花壇に古煉瓦を再利用していたのだった。

煉瓦工場は素地煉瓦を並べて乾燥させるための広場(乾燥場)を必要としたので、工場敷地も自ずからデカくなった。廃業してそんな広場が浮いたとき、マンションでも建てるか、となるのはよくある流れであったらしい。日本煉瓦工場跡も堺市営マンションになっていたし、奈良の齋藤煉瓦もそうらしく思える。後者はまだ訪れてないけれど。

[煉瓦工場] 伊藤煉瓦工場@印南郡曽根村

大正煉瓦曽根工場とは300mくらいしか離れていない場所に伊藤煉瓦株式会社はあった。創業昭和7年と比較的新しいが、どうも中播煉瓦曽根分工場(大正6年創業)→播州煉瓦合同曽根工場(昭和3頃改名)を経たものらしく、工場敷地自体?は年季が入ったものだったらしい。そうして戦後も営業を続け、最後は伊藤恒業(株)という誤植じみた名前に変わって、S45版まで記載がある。赤煉瓦だけでなく耐火煉瓦なども手がけていたようだ。

昭和10年代の『工場通覧』に記載された番地は現在の曽根駅前総合市場の辺りを指していて、その南には広い空き地もある。いかにも何かが残っていそうなシチュエーションだ。そんなこんなで結構期待していたのだけれども、結果はそれほど芳しくなく。県道を挟んだ向かいにある旧宅壁に「イ」の字刻印の煉瓦が使われているのを見つけられただけ。総合市場のほうは言わずもがなだ。

画像の説明

近くを通りかかった方(私よりも1回り年上の女性2人)に尋ねてみたが、煉瓦工場のことはご存知でなく、空き地はナントカという鋳造工場の移転した跡だと仰っていた。もしここが煉瓦工場跡地だったとしても、その跡地を使った会社すら退転しているのだから、地面の下まで改まってしまっていることだろう。そのうえ空き地は金網で囲われているし夏草が旺盛に茂っているしで地表の様子を伺うことすら難しかった。煉瓦工場跡地の探訪は春とか冬とかのほうがいいのかも知れない。

同行のFさんと「そういうこともありますよ」的な話をしつつ南下していき、山陽電鉄の南側にあった関野煉瓦工場跡へ向かう途中、別の大きな空き地を発見し、そこで別種の「イ」刻印を発見した。最初に見つけはったのはFさんだ。「向こうにも「イ」がありましたよ」という声に、最初はなんという期待もせず見に行って・・・

[煉瓦刻印] 「松葉菱+イ」(伊藤煉瓦@印南郡曽根村?)

「松葉菱+イ」煉瓦刻印

大阪府豊中市岡町桜塚高校(旧豊中女学校)の煉瓦壁に使われている「松葉菱+イ」だったのだ。写真はその壁のを流用したが、刻印の大きさも、機械成形の平に押してあるのも全く同じ。唯一違うのは、長手の一方に緑の釉薬をかけて焼いた化粧煉瓦だったことくらい。

まさかここでこの刻印に遭遇するとは。だってこれ、伊丹の伊丹煉瓦のじゃね? と思っていたのだもの。&、ここまで「イ」一文字のばかりで、それが伊藤煉瓦のだと信じ込んでいたのだもの。

今のところ、印南郡ではここでしか見つかっていないから、これが即伊藤煉瓦のものだとは断言できない。しかし伊丹市にポツンとあった煉瓦会社の煉瓦が、煉瓦製造のメッカである印南郡に運び込まれたと考えるよりも、印南郡から大阪に流入したものが岡町まで流れてきたというストーリーのほうがあり得そうな気がする。だって阿弥陀や曽根には大阪の煉瓦すら入ってきていないのだもの。大正煉瓦曽根工場の北の方でキシレンを一つ見かけただけだ。

印南郡へ行くときは機械成形煉瓦にも気を配っておかなければ。いや今までも随分注意していたつもりなんだけど。


帰ってから国土地理院の地図空中閲覧サービス正式版を見ていて、この辺りの昭和30年代の国土基本図が収録されていることを知った。これに伊藤窯業の位置がばっちり記されている。やはり曽根駅前市場のある辺りであったようだ。

[煉瓦] 東洋煉瓦と伊丹工場と塔本可珉

『大日本窯業協会雑誌』No.345、大正10年5月号。

東洋煉瓦 大阪市東区北浜二丁目東洋煉瓦株式会社(資本金五拾万円内払込拾弐万五千円)は府下伊丹所在の二三小工場に付き設備の完成に努めたるも未だ操業に至らざるが最近泉州塔本煉瓦工場買収契約の成立を告げたり同工場は施設既に完成し目下月産五十万個の能力ある外現に二百万円のストックを擁せるが差当り右の能力を以て註文に応ずる予定なる外前記伊丹工場も茲一二月後には月額六十万円の製造に着手する筈

大正中期のこの雑誌にはこんな感じの小記事がいくつか出てくる。小さな情報だがふだん人の目に触れにくい質のものなので捨て置くわけにいかないのだが、ここから確固たる事実を引き出すのが難しく、扱いに困る。伊丹は 大阪府下じゃないし、「製造に着手する」というのも頼りない。その後どうなったのかきちんと追わないと使えない。

仮に伊丹=兵庫の伊丹だとすると伊丹煉瓦製造所との関連が考えられる。伊丹煉瓦製造所は資料によって操業年が大正3年とか6年とか12年とか昭和9年とかまちまちだ。して『工場通覧』に載っている伊丹の煉瓦工場はここだけであったりする。一筋縄でいかない工場。

塔本煉瓦工場は明治36年創業だがその後載ったり載らなかったりしている。操業と休止を繰り返したか人数が微妙だったのだろう。初は塔本常治の所有で鳳村大字大鳥に所在、素地煉瓦専門、後に八田荘村へ移って小西可珉>塔本可珉が工場主となった。 この工場はT9頃まで操業して消えるが、 月産50万個というから個人工場としては充分に大きかったほうだろう(それでも津守煉瓦の数百万個には及ばないが・・・津守煉瓦は最初の一時期株式だったのだがすぐに個人経営になった。丹治煉瓦も明治期は個人工場だった)。

八田荘村には後に堺煉瓦製造所が興りS10〜14頃営まで操業している。戦後は日本マグネシムがその場所を使った(番地が一致)がすぐに撤退した。

当の東洋煉瓦は・・・大正時代に工場を所有した記録がない。M19―M30の東洋煉瓦は墨江村だし。商社と直属工場みたいな関係で、卸業をやっていたのかも知れぬ。

[煉瓦工場] 伊丹煉瓦製造所@兵庫県伊丹町大鹿

豊中女学校の「松葉菱+イ」刻印が伊丹煉瓦のものじゃないかと考えた当初、その工場跡地を探しに行っている。『工場通覧』にはその所在地が「伊丹町大鹿」とあり、今も大字大鹿(おおじか)という地名があるので、きっとそのどこかなのだろうという単純な発想に基づく行動だ。

伊丹市大鹿。西隣に陸上自衛隊の駐屯地がある。この範囲をくまなく歩き回ってみたわけである。

が、この時工場跡を特定することはできなかった。煉瓦の壁を一箇所見つけられただけで、刻印もなく、それ以外に煉瓦転石を見つけることさえできなかった。やっぱり工場跡地を探しても無駄なんかなあ……と悄気たのを覚えている。

その後『工場通覧』を虱潰しして、年度によって地番まで記されていることがあるのを発見。ただしこれも再訪ドリブンの直接の源にならなかった。版によってまちまちなのだ。住所が。

兵庫県工場一覧 昭和4年12月末日現在』 川辺郡伊丹町大鹿
全国工場通覧 昭和9年版』 川辺郡伊丹町三田大鹿玉田19
『全国工場通覧』昭和14年版 川辺郡伊丹町大鹿19
『全国工場通覧』昭和15年版 川辺郡伊丹町大鹿角入19

こんな感じ。『通覧』はこういうのがザラにあるから困る。大字大鹿で番地が19番、というのは確かなようだけれども……。


こういう古い住所が、今のどの場所に相当するか知りたい時は、法務局の登記窓口へ行けばよいと教わった。伊丹市域を管掌する法務局は市役所の西隣にある。たまたま大鹿とも近い。行って尋ねた足で現地へ行こう。ということで暑い中自転車で向かった。

法務局の登記窓口で「伊丹町大鹿19番地」を尋ねると、新旧住所の対応表を繰ってくれた。しかし窓口の方の手を煩わせても「伊丹町大鹿19番地」は見つからなかった。大鹿の中にないのはもちろん、伊丹市伊丹町に大鹿がある可能性も当たってくださったのだが、見つからず。窓口の方曰く「市役所の住所変更窓口で尋ねたほうがいいかもなぁ」と。

市役所では土地調査課に回された。窓口でこれこれと伝え、窓口の方が帳簿を繰って探して下さったが、やはり見つからなかった。そういうもんなんだろうか……。

しかし、係の方がこんなことを仰ったことが突破口になった。

「『伊丹町大鹿19番地』というのは不完全な表記やなあ。大鹿は大字やから、その19番地というのはあり得んのよね」。そう言われて気がついた。確かにそうだ。うちの田舎は大字+地番で郵便物が届いたが、伊丹のような大きな待じゃ小字の下に地番をつけないと整理がつかないのだ。

「そういえば「角入」とか「玉田」とか書かれた資料もありました」と伝えると……。確かに大鹿に字角入(ツイノリ、とルビられていたが本当だろうか?)、字玉田が見つかった。うち19番地まであったのは角入のほう。そうして角入19番地はいまの瑞原(みずはら)2丁目の59番地になっているという。瑞原2丁目というと……いまの大字大鹿とは飛び離れた、もっと北の方だった。そりゃ、見つからんわ。


その番地を現在にあてはめる段階で、また問題が。瑞原2丁目にはいま59番地が存在しないらしい。あるのは57番地までで、その57番地の一帯が1つのマンションになっているので、合筆された可能性が高いとのことだった。まあ、ここまで絞り込めれば充分だろう。礼を述べて役所を辞した。


画像の説明瑞原は「みずはら」と云うのだけれど、「瑞ヶ池」は「ずがいけ」であるらしい。一文字くらい略さんでもいいんじゃね? 逆に格好悪くなってね? と思いつつ現地へ。該当場所はこんなマンションだが、このはす向かいに瑞ヶ池があるという、煉瓦工場としては悪くない立地だ(池の底土を採取して原料にすることができたので。奈良の大和煉瓦、西村瓦工場はそうしてた。煉瓦会社は土が採れてウマー、池の利用者は嵩下げされて貯水量が増えるのでウマー、というウマーウマな関係になる)。

画像の説明ちなみにこの東側は三菱電機の工場になっている。写真はその西端にある体育館。敷地の広さからいえばそちらのほうが煉瓦工場的なのだが、逆に広すぎるかな?

マンションの周囲を歩きまわった。比較的新しい民家(一戸建ての建て売り住宅的なもの)が小奇麗に連なり、その間を畑が埋めている。そんな光景がコピー&ペーストで繰り返されている。ちょっと期待薄な環境で、諦め半分で畑に絞って見ていくことにした。畑に煉瓦。これが結構あったりするのだ。

画像の説明

ほら。マンション西向かいの畑のふちで煉瓦転石を発見。ずいぶん断片化しているが刻印らしきものがついていた。といっても線が2本あるだけだけど……。

画像の説明

あまりにシンプルなので刻印じゃないかも知れないなと思ったが、畑の別の場所でもうひとつ転石を見つけた。明らかな焼損煉瓦で、しかもさっきと同じような刻印がある。途中で欠けているため断言できないのだが……「//」形の2本の線であるらしい。工場跡地のそばで見つかった焼損煉瓦に刻印があるのだから、これが伊丹煉瓦で使われていた刻印と見るべきであるようだ。

その後工場の周囲を一周したり、三菱電機の体育館のほうに入り込んだりしてみたものの、この他には古い煉瓦を見つけることができなかった。番地まで確定しても確たる現況証拠がないこともあり得るということだ。煉瓦2つというのも少なすぎる気がする。しかし生物の新種認定には2個体以上が必要だと聞いたから、煉瓦も2つでじゅうぶんですよなのかも知れない。そんなことをぐらぐら考えつつ帰路についた。


並行する二本線の刻印は存在しないわけではない。例えば岡町住宅地の中には「||」型の刻印煉瓦がある。斜めになったものも存在したはずだ。あまり短いと大正丹治と同じ構えになってしまうが、伊丹煉瓦が興った頃にはすでに廃業していたのだから、それほど問題視する必要はないだろう。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ 齏藤 [ペントハウスのオブジェが独特な十三のタイガーマンションも虎印計算機の跡地なのでした(だからナニ?)]

_ nagajis [タイガー手回し計算機、回したことありますよ(同)]

_ ヒョウタンツギ [見た事のある地図だと思ったら、、、 阪急伊丹の近所に住んで、ズガイケの向かいに通っていましたよ、6年前。 たま〜に池田の懐かしいお山にも行ってました。 失礼しました。]


2014-07-16 この日を編集

[煉瓦刻印] ○A@ぱらいそ

○A煉瓦刻印

画像の説明ぱら磯で見かけた刻印を今さらのようにあげておく。初訪時に一番最初に目についたのがこの煉瓦。通常の煉瓦の4倍くらいの大きさで、舗装用煉瓦特有の緻密な質感と焦げ茶色の色をしたものである。小口のモルタルを落としたら空洞だったのでびっくりした。舗装に使ったら割れてしまうんじゃないか。何か別の用途を意識したものだろうか。

小口の縁に○でAを囲った刻印が押されている。一方の小口だけに。該当会社はわからないが比較的最近のものであることは確かだ。福岡の荒木窯業?

[煉瓦刻印] 三ツ矢刻印

三ツ矢煉瓦刻印

ごく稀に見かける三ツ矢の刻印。結構きれいに押されているので回収しようかと思ったもの、すでに収集墨であることを思い出し、止めた。この刻印も未だに該当会社がわかっていない。明治40年代に大阪窯業に買収された和泉煉瓦のものであるとする説があるけれども、私は疑っている。そうであるなら中家住宅に1923の銘がある大阪窯業舗装煉瓦と共使いされているのが説明できない。そんなに長いことデッドストックされることがあるだろうか? しかし大阪窯業と接点のある会社のものであることは確かだろう(貝塚工場跡の煉瓦壁でも見られるそうだ。洲本の煉瓦敷にも見られるってFさん言ってなかったっけ)。

[煉瓦刻印] 大阪窯業耐火煉瓦(初期型)

大阪窯業耐火煉瓦(初期型)刻印

OTYでもOYKでもない大阪窯業の耐火煉瓦。OSAKA○YOGYOと打刻されていたはずのもの。同じ煉瓦は中之島公会堂でも使われていたはずだ。

この手の古い耐火煉瓦は意外と目にする機会がない。基本的に消耗材だからな>耐火煉瓦

[独言][橋梁] 伸縮装置

画像の説明源八橋の伸縮装置。よく見る櫛形のやつ。最初からこれがデファクトだとばかり思っていたけれども、戦前は鋼板をこの形にカットするのが難しくて普及しなかったそうだ。今でも橋梁の伸縮装置は「これ」という決定打がないらしい。

中津高架橋のも見てきたけれどもカメラがなくて写せなかった。歩道のを見るとただの隙間にしか見えない。それよりもその伸縮を無視して新しい欄干が作られていて、伸縮の位置で亀裂が入っているのを見かけた。何のための伸縮装置なのか。手抜き工事ではないのか。


2018-07-16 この日を編集

[近代デジタルライブラリー]

いずれも「日本鉄道史」中編

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960215/71

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127166/101

61.5ポンド→60ポンドの変更のあたり

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960215/74

[] 東海道線複線化

M26
補充費の科目を設定 これで既存路線の改修を図る
M27.1.
西ノ宮-三ノ宮 同年竣工(K100)
大阪-西ノ宮(M28)
向日町-吹田(M29)
大谷-京都(M30)
M28
日清戦争勃発 輸送力増強が急務
(M29 随意契約の途復活)
M31
東海道線複線化、信越線停車場の改良等補充費ではおっつかなくなってきたので本格的に予算請求→29年度から35年度の7カ年継続として議会の協賛を得、官設既設鉄道改良費として予算確保するが、34年度に予算繰り延べ そのかわり神戸横浜で海陸連絡工事費として追加あり
M31
京都-向日町、馬場-大谷竣工 ← 桂川橋梁はココ
M32
吹田-大阪、草津-馬場間
M34
垂井-関ヶ原、関ヶ原-長岡、米原-野洲
M35
野洲-草津、長岡-米原、

とくに関ヶ原長岡間は従来の1/40勾配を1/100に改めるべく新線開設。

M38年には東海道線全線の複線化が完了。しかし翌年から75ポンドに葺き替えることにしたってんだからまあ無駄遣いだよなあ。

[][近代デジタルライブラリー] 「ウヱル」使用異形煉瓦雛形並配置図及「カーブシユウ」図面ノ件

[鉄道作業局]規程類聚. 明治三十四年九月現行

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/151

明治29年8月31日鉄工第1749号(課長達)で異形煉瓦の形状を示す。配置図は遅れて明治30年4月22日鉄工第755号(部長達)で。 

その付図が

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/115

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/131

。12ftウェルはA~Cの3種類。9ftはA~Eの5種類。A~Cの段(AをわったA'も使う)とC~Eの段を交互に?あ、違うな、ウエルの沓の段だけA~Cなんか。よって複線化の時の井筒はA~Cであるべき。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/296

追記:煉瓦個数はこっちを参照のこと。https://dl.ndl.go.jp/pid/1349960/1/434

[古レール] 1896 CARNEGIE IRJ

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/126

○米国製造「カ子ーギ」製軌条敷設方ノ件 明治30年4月6日 鉄工第631号(課長達)

今般千八百九十六年米国に於て製造せし「カ子ーギ」製「レール」計理課より回送の筈付ては他の「レール」と混同して敷設せざる様御取扱可有之此段及御達候成

ほう・・・この時局線にもCARNEGIEが回っておったのか。これがこの年に定規が変わったことと関係してたら面白いのだけど、見つかっているのは60-1?だそうだし。

あー、"THE-LONGEST-DH"にIRJのがあることになっとるけど、ほんとかなあ・・・。そんなのがあったような気もしてきたなあ。

うん、そう。上記CARNEGIE 1896 IRJが60-2に相当するやつで、それをM30.5.18に定規にしちょる。多分。附図の「新旧断面」なんちゃらの「新」に相当するやつの寸法図に「カアー子ギイ-」と書いてて第2種断面。↓

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/13

カーネギーめ、なんでそんなやたらめったらいろんな断面を送り込んできたのか。しかも第二種は米国内ではobsoleteになりかけてたやつらしいじゃねえか(中編工事其他の節)。M38にはもう入手しにくくなっててASCE断面60-3への変更を余儀なくされた。Carnegieは諸悪の根源である。

鉄道系はndlからいろいろ拾えてしまうからいけない。調べようと思ったらいくらでも手立てがあるからついのめり込んでしまうのだ。


2022-07-16 この日を編集

[陸幼日記]開戦後

戦争関連のイベントをタイトルに入れておくことにした。陸軍学校生徒に伝えられた情報と真の戦果とを後で突き合わせて見られるようにと思って。真珠湾攻撃の戦果などはこの時点ですでに過大に伝えられているがこれが当時の軍部の把握であったかも知れない。撃沈艦のほとんどは後で引き揚げられて修復されたのではなかったっけか。そのへんが確認できる公式情報か信用できる集約はどこかにないだろうか。

太平洋戦争が始まってもどこかのんびりムードが続く。日中戦争が泥沼化して久しくなっていた頃だから特段の変化とは捉えていなかったのかも知れない。開戦直前頃に時局の講話や訓話が多いのは予めの前フリであったのだろうか。といったことを思いつつ二冊目を終える。これから後はまだちゃんと読んでいない。打ち込みながら追体験してく。


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