nagajisの日不定記。
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過日東雲新聞を読んでいて「日本土木会社が請負って建設されている対馬要塞」云々という話がサラッと書かれているのを見つけて魂消たことだった。誰が要塞建設を請け負っていたかっていう話はほとんど聞いたことがない。この調子だと由良要塞もそうなんだべかと思った一枚悟りだがそこまで追いかける時間がなかったし肝心の日本土木会社は明治25年に解散している。関わっていたとしてもごく初期の一部だけだ。
日本土木会社は当時土木請負業でブイブイ言わせてた大倉喜八郎と藤田伝三郎に財界のドン渋沢栄一が加わって明治20年に設立された総合土木会社だ。施工だけでなく測量や設計なんかまで引き受ける、今でいうゼネコンみたいなものだった。 http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170807202222.pdf?id=ART0010435908 に詳しい分析がある。当時官の行う大きなプロジェクトは力のある民間企業に対して「特命」(随意契約)で発注するのが常で、日本土木会社はその受け皿たるべく設立されたものらしい。確かにこの三人の会社ならなんでもやってくれそうだし秘密厳守な要塞建設も任せられそうである。
けれども明治22年に会計法が成立し、官の発注が原則入札制になってから、それが日本土木会社の業績に影響を及ぼし、あるいはその変化を嫌ってわずか5年で解散した(大倉土木組が後を引き継いだ)。というのがこれまでの通説で、上論文はいやそうじゃないみたいだよと仰っている。経営状態も悪くなかったみたいだし解散後の大倉土木組はかえって繁盛している。
要塞建設については随意約定してもよい例外規定 第24条の2に「政府の所為を秘密にすべき場合に於て命ずる工事又は物品の売買の売買貸借を為すとき」があった。んで上論文にある受託仕事のリストには対馬要塞のツの字もない。まあ新聞がちょろっと一行書いたことが100%正しいわけでもないだろうけど、受注が秘密なら業績リストに掲げたりもしなかっただろうさね。この22年の会計法のせいで粗雑な工事や無理な入札が相次いだため明治33年に指名入札制度に変わった。アジ歴にもどこかの要塞で用いる煉瓦について随意契約するって話があったようななかったような。(あ、違った、衛舎建築の請負入札で入札1人とか予定額に達しなかったので直接工事にしたというやつだ)(on M27。入札不調のときは随意契約に切り替えられるとかナントカの法があったはず。うん、M23勅令第193号 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945407/2)(↑の煉瓦云々はM40に大阪陸軍糧秣庫を東洋コンプレッソルの基礎(随意契約)と松村某の煉瓦積み(指名入札)でやったら基礎がダメダメで壁が崩れったて話と混同夢 C02031509200)
あと由良要塞の建設が始まる前、高崎のお台場の護岸復旧工事がされてて、これは和歌山で職人を徴集して事に当たったらしいことも書かれてあったby東雲新聞記事。由良要塞で建設に関わった人が知れているのはこれと赤松山伊張山堡塁の煉瓦を地元のおかーちゃん達が運び上げたっていうエピソードon築城史くらいかしらん。いやいや、沖ノ島の測量ではかの偉い人が職人を引き連れて事に当たった、当時は神の在ます島として恐れられていたから人夫が怖がって捗らなかったっていうエピソードもあったっけ。だとするとこれは直轄工事ってことなのかな。もちろん対馬要塞だって日本土木会社が設計したわけじゃないだろう。口の固い請負業社として請負を特命されたに過ぎないハズ。
日本土木会社が解散したのは「設計測量まで請け負う土木会社」であることの旨みというか用というかが薄れたからなんじゃないかと思ってみたりする。技術者というべき技術者の少なかった明治初はさておくとしても、明治20年代にもなれば大学出の技術系官吏が活躍しだして、設計だの測量だのをほいほいやれるようになる。田辺朔郎みたいな人物が。すると別に設計とか測量とかも含めた「まるごと全部」を請負う必要がなくなり---大きなプロジェクトであればあるほど技術系官吏の出番が増える。そういう工事で官吏以外が設計したって話は聞かない気がするな---、結局は昔ながらの人足頭役を演じるだけになってしまって、そーすると別に大きな一会社を構えておく必要はなくなってしまう。解散の時に大倉が「個人経営のほうがこの困難を乗り越えられる」って言ったそうだが畢竟そういうことなんじゃないか。
まとめなわからんちん。
明治初年代 丹治・岸和田工場の誕生 原口の鉄道用煉瓦工場の盛況 需要は限定的
明治10年代 工場勃興、需要過多→初期工場の疲弊→洋風建築の流行、年を追うごとに著しく盛運
明治21年 製造所10数カ所
明治23年 一般工業不振、工場の新設・起業等は皆無→斯業の需用減縮
明治24,5年 経済界沈滞続く、商工業は至難の極→斯業販路ほとんど閉塞、創業以来の盛況は反転して益々衰微。転業廃業多く工場数も僅かに5、6個を数えるのみ
明治26~28年 日清戦争の戦後経済の膨大に伴ない諸般の事業一時に興る→斯業二たび順境に至る勢い、製造者数会社32個人16計48箇所の起業(注:新たにではなく営業社数として?)を見る。創業以来未曾有の盛況。
明治30年後半 一時起業熱に侵されて勃興した工場は反動で停滞。供給は需用に超過し販路は俄然逼塞、廃業者続出。
明治34年 事業を継続し府下同業組合に名籍を列するもの僅に五社と三個人のみ。