nagajisの日不定記。
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TRDBに寄稿をいただいた! その処理を進行中。今回は周辺図がちょっと広いかも知れない。ポップアップを使ってみようかと画策中。
自身の「地方通信」を読むも少しずつ進めている。現在8年10月を了。時局匡救事業や農村救済事業などの成果が出揃う頃で、7年度よりもさらに竣工・完成の記事が増えてくる。1号分打ち込むのに1時間近くかかったりする。ちょっと丁寧に追い過ぎたか・・・旧AppleKeyboard IIを取り出して気分転換したりしつつ入力しているが、しかし次号で全部終えられるんだろうか。かなり弱気。
そのなかで京津国道・京阪国道・神明国道が一気に完成して大津〜神戸まで開通してみたり(その後間を措かずに神戸〜加古川間も改修)、黄金道路の工事が始まってみたり(当時はまだそんな名前じゃなかったか)。また大峠や栗子峠の拡張工事もこの頃に計画され、すでに福島側が着手されている。日本の幹線がものすごい音をたてて構築されていく有り様を追体験している今。
正直言って、これで誰かが得をするとは思えない。全部を把握してくれる人が多数出ることなど期待できないし、「ひょっとしたら誰かの参考に」に賭けるしかないような、そんな八卦な企画だ。あまり迷惑にならないよう気をつけよう。
次回はもう少し「まとめ」が書けるといい。気になった工事のことを今のうちからピックアップしておこう。
そういえば、それ以外に何を書くか、考えてなかったな。。。旧橋は突然違う角度になるかも知れない。「喪われた・・」は徳川道次第、か。苔縄の資料、どこやったっけ?
メールはwebで何とかなるしCD注文も今や手作業で1つひとつ追える量だから無事こなせている。昨日も無事受注・発送した。一番の問題は近世以前土木のリストがマトモにいじれないこと(Classic Macではいろいろ不都合が起こる・・・)。今月から峠追加するぞーと思っていたのに出鼻をくじかれた感じだ。トホホ。しばらくは手許でExcelで作るか。
も一つ、Windowsでのpdfの見え方が検証できないこと。修理が間に合わなければ最終手段に出るか。
高校時代の友人M君が大のファンであったということを除いていは全く接点を持たないので、第三者視点で嫌らしく状況推移を見守っている。
個人的にはとてもタイムリーな話題だと思っている。つい先日、NHKラジオ第一「夏休み子ども電話相談」にこんな質問が寄せられていた。
うさぎは寂しいと死んじゃうって、本当ですか。
ハラハラしながら先生の解答を聞いたのを覚えているが、肝心の中身を忘れてしまった。どうも母親がそんなことを吹込んだようだった。この時代にまで伝わる名言を残した(名演技を為した)のりピーは今いずこ。
それにしても「自称○○」という言い方、ひどくイケてない感じがするのはなぜだろう。「自称犬の訓練士」というのもあったな。
「○○」ではなく「自称」がつく場合はいかなる場合であるだろう。やはり他人からそう呼ばれなければ認められないのだろうか。売れない漫才師でも吉本所属であれば「自称」がつかないのだろうか。nagajisが逮捕される時は「自称オブローダー」になるのだろうか。シラブルでは判断しにくい「変臭長」「偏執長」などはラジオが困るだろうな。試みの計算よろしくいちいち解説しなければならない。
むしろ、「自称nagajis」くらいが潔くて良さそうだ。少なくとも間違いではないし同業者に迷惑をかけることもあるまい。
捨てた結果どうなるか、を直截的に示している看板。物事のあとさきや因果関係にまず頭が回るような人ならすんなり理解できるだろうが、そういう人が不法投棄をしたりはしないだろうから、効果的な表現とはいい難い。
パンチって、最近あまり聞かないような気がする。あってもネコパンチとかアンパンチとかちょっと違ったものになっている。パンチという言葉が持っていた魅力も威力も殺がれてしまっている。そんな気がする。
熊野地方の漁師は豊漁のまじないにオコゼの干物を携行したという。山の神が醜い顔をしているので、それよりも酷い顔をしたオコゼを見ると喜ぶといった。確か笑い祭も熊野じゃなかったっけか。山の神を馬鹿にした一寸ひどい話ではあるが、そういい始めた最初を考えると興味深いものがある。
豊猟の祈りがオコゼ自身に向かうこともある。猟に行く時、小さなオコゼの干物を半紙で包み「獲物を取らせて下さったらこの世の光をお見せしましょう」とまじなう。獲物が捕れたら捕れたでまた紙で包み「もう一度捕らせてくれたら今度こそこの世の光をお見せしましょう」。そうやってオコゼは騙され続けることになる。代々受け継がれ何重にも紙に包まれているオコゼもあるそうだ(以上柳田翁)。十津川の猟師もオコゼを所有した。頭をちらっと見せて「豊猟にしてくれたら全部見せる」。捕れたら尻尾だけ見せた。祈る対象を騙すところはいっしょだ。
山の神を女性に仮託したのは何でだろう。しかも全国一様に。そういえば山姥もそうだ。山爺も山男もないではないが圧倒的に山姥のほうが多い。女なのに山にいて、恐ろしい形相で追いかけてきたり強力を発したりするというところが、恐ろしさを増幅させる設定として好まれたのだろうか。山の恵みを与えてくれる母なる大地だからか。
友ヶ島の海軍聴音所は昭和期に建設されたものと「ヒストリア」の煉瓦特集の論文にあった。ならば和歌山の煉瓦工場のでもいい。統計書や工場通覧で和歌山県に煉瓦工場が現れるのは大正期も後半になってから。和歌山窯業や和歌山煉瓦、南出煉瓦製造所なんかが存在した。
この論文では手成形=明治大正期の煉瓦、 昭和期=JIS規格とかかっていて、手成形のJIS規格でない分銅刻印煉瓦が聴音所に使われていることに疑問をなげかけているが、手成形煉瓦なんて戦後まで作られていたのだし、JESに完全統一されてたわけでもないことは引用文献「日本煉瓦史の研究」にも書かれてあるはずなんだけどなあ。
そういえば五條駅の近くで見かけたあの煉瓦刻印も分銅だったかも知れない。薄暗くなってきた頃に見つけたうえ印影も薄くてはっきりわからなかった。 最初に「Cか?」と思ったのは分銅の片側半分をそう見誤ったのだろう。
昭和10年代から40年代にかけて操業していた鉱山。このへんで「B」といったら播州くらいしか思いつかないのだが播州窯業っていう会社はない。番匠も窯業じゃないし耐火煉瓦作ってたという記録もないし。
機械成形煉瓦に押されたキシレン刻印。目立つ大きな傷は機械成形に伴うものではないらしい(傷が平行or同心円状についているわけではないので。あとこの傷が刻印の底にまで達している。刻印が押されたあとについた傷だ)。そうではなく、刻印の上のほうに、小口の辺に平行にささくれ傷がついている。この方向にささくれが向くのは以前掲げた米国式連続整形機で切ったからではないか。大阪窯業式の機械成形だったら長手と平行に近い形でつくはずだ。
橋本駅前の繁華街の周縁部が絶賛区画整理中で、更地になった住宅跡でいくつかの刻印煉瓦を見ることができた。写真の刻印は「10」入の日本煉瓦刻印が並んでいた基礎の一角で見つけたもの。まるでダブルダガー「‡」だが日煉刻印を縦に2つつなげて押したものだろう。どちらかが掠れているわけでもないから意図的にこう重ねたことがわかる。そりゃ日に数百個も作ってたら飽きるだろう。遊んで単調打破したくもなるだろう。
おしゃれ住宅の庭先に使われていたもの。B.C.△H.J.を彷彿とさせるプレス成形。調べるとオーストラリアのトゥーンバという都市で作られたものらしい。 煉瓦は南半球からもやってきているのである。
トゥーンバにはいくつかの煉瓦工場があるみたいだが特定は叶わなかった。Darling Downs Brick Salesというのが最も古くからある大きな会社の模様。
「橋梁工学の最近の諸問題」を見返して、三弦トラスって結構あったもんなんだなと知る。高知県の下津井橋とか静岡県の万世橋とか。
過日東雲新聞を読んでいて「日本土木会社が請負って建設されている対馬要塞」云々という話がサラッと書かれているのを見つけて魂消たことだった。誰が要塞建設を請け負っていたかっていう話はほとんど聞いたことがない。この調子だと由良要塞もそうなんだべかと思った一枚悟りだがそこまで追いかける時間がなかったし肝心の日本土木会社は明治25年に解散している。関わっていたとしてもごく初期の一部だけだ。
日本土木会社は当時土木請負業でブイブイ言わせてた大倉喜八郎と藤田伝三郎に財界のドン渋沢栄一が加わって明治20年に設立された総合土木会社だ。施工だけでなく測量や設計なんかまで引き受ける、今でいうゼネコンみたいなものだった。 http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170807202222.pdf?id=ART0010435908 に詳しい分析がある。当時官の行う大きなプロジェクトは力のある民間企業に対して「特命」(随意契約)で発注するのが常で、日本土木会社はその受け皿たるべく設立されたものらしい。確かにこの三人の会社ならなんでもやってくれそうだし秘密厳守な要塞建設も任せられそうである。
けれども明治22年に会計法が成立し、官の発注が原則入札制になってから、それが日本土木会社の業績に影響を及ぼし、あるいはその変化を嫌ってわずか5年で解散した(大倉土木組が後を引き継いだ)。というのがこれまでの通説で、上論文はいやそうじゃないみたいだよと仰っている。経営状態も悪くなかったみたいだし解散後の大倉土木組はかえって繁盛している。
要塞建設については随意約定してもよい例外規定 第24条の2に「政府の所為を秘密にすべき場合に於て命ずる工事又は物品の売買の売買貸借を為すとき」があった。んで上論文にある受託仕事のリストには対馬要塞のツの字もない。まあ新聞がちょろっと一行書いたことが100%正しいわけでもないだろうけど、受注が秘密なら業績リストに掲げたりもしなかっただろうさね。この22年の会計法のせいで粗雑な工事や無理な入札が相次いだため明治33年に指名入札制度に変わった。アジ歴にもどこかの要塞で用いる煉瓦について随意契約するって話があったようななかったような。(あ、違った、衛舎建築の請負入札で入札1人とか予定額に達しなかったので直接工事にしたというやつだ)(on M27。入札不調のときは随意契約に切り替えられるとかナントカの法があったはず。うん、M23勅令第193号 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945407/2)(↑の煉瓦云々はM40に大阪陸軍糧秣庫を東洋コンプレッソルの基礎(随意契約)と松村某の煉瓦積み(指名入札)でやったら基礎がダメダメで壁が崩れったて話と混同夢 C02031509200)
あと由良要塞の建設が始まる前、高崎のお台場の護岸復旧工事がされてて、これは和歌山で職人を徴集して事に当たったらしいことも書かれてあったby東雲新聞記事。由良要塞で建設に関わった人が知れているのはこれと赤松山伊張山堡塁の煉瓦を地元のおかーちゃん達が運び上げたっていうエピソードon築城史くらいかしらん。いやいや、沖ノ島の測量ではかの偉い人が職人を引き連れて事に当たった、当時は神の在ます島として恐れられていたから人夫が怖がって捗らなかったっていうエピソードもあったっけ。だとするとこれは直轄工事ってことなのかな。もちろん対馬要塞だって日本土木会社が設計したわけじゃないだろう。口の固い請負業社として請負を特命されたに過ぎないハズ。
日本土木会社が解散したのは「設計測量まで請け負う土木会社」であることの旨みというか用というかが薄れたからなんじゃないかと思ってみたりする。技術者というべき技術者の少なかった明治初はさておくとしても、明治20年代にもなれば大学出の技術系官吏が活躍しだして、設計だの測量だのをほいほいやれるようになる。田辺朔郎みたいな人物が。すると別に設計とか測量とかも含めた「まるごと全部」を請負う必要がなくなり---大きなプロジェクトであればあるほど技術系官吏の出番が増える。そういう工事で官吏以外が設計したって話は聞かない気がするな---、結局は昔ながらの人足頭役を演じるだけになってしまって、そーすると別に大きな一会社を構えておく必要はなくなってしまう。解散の時に大倉が「個人経営のほうがこの困難を乗り越えられる」って言ったそうだが畢竟そういうことなんじゃないか。
まとめなわからんちん。
明治初年代 丹治・岸和田工場の誕生 原口の鉄道用煉瓦工場の盛況 需要は限定的
明治10年代 工場勃興、需要過多→初期工場の疲弊→洋風建築の流行、年を追うごとに著しく盛運
明治21年 製造所10数カ所
明治23年 一般工業不振、工場の新設・起業等は皆無→斯業の需用減縮
明治24,5年 経済界沈滞続く、商工業は至難の極→斯業販路ほとんど閉塞、創業以来の盛況は反転して益々衰微。転業廃業多く工場数も僅かに5、6個を数えるのみ
明治26~28年 日清戦争の戦後経済の膨大に伴ない諸般の事業一時に興る→斯業二たび順境に至る勢い、製造者数会社32個人16計48箇所の起業(注:新たにではなく営業社数として?)を見る。創業以来未曾有の盛況。
明治30年後半 一時起業熱に侵されて勃興した工場は反動で停滞。供給は需用に超過し販路は俄然逼塞、廃業者続出。
明治34年 事業を継続し府下同業組合に名籍を列するもの僅に五社と三個人のみ。
_ とと [>掌を返す人々を眺めつつ←何だか同感…。しかも薄々そうである事を“予測&期待”していながらの掌返し。その威力は絶大です。 自称プロオブローダー…。うーん良い響き。]
_ ホルモン焼き [「森田健作 自称剣道3段。」確かにイケてないわ。「ホルモン焼き 隧道マスター」いやこれは自称やないで。ちゃんとnagajisから証明書が送られてきた。うれピー。]
_ 多喜永宍粟Men [青いうさぎは売ってませんが緑のたぬきは好きです。]