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2018-01-09 [長年日記]

[独言][近代デジタルライブラリー] 日本鉄道史

日本鉄道史上巻米原敦賀間鉄道の項目を読んでフムフムコレハと思っている最中にメンテナンスモードに突入されてしまった。この生半可な納得のやり場を如何にせましや。

金ケ崎丸が建造され海上輸送で敦賀に建設資材が送られるようになったのはM15.3のことで、その前から敦賀〜疋田間の暫定運行が行なわれていた(確かM15.2)。ということはその時にはすでに路盤と線路ができていた、即ち鉄輪の眼鏡橋や疋田の暗渠が出来ていたことになる。だとすると別の手段でどこかからか煉瓦を持ってくる必要があったことになるわけで。レールは間違いなく他所から持ってくるしかなかったはずだが煉瓦は現地でも焼くことができたし事実焼いたという場所もあるのだから敢えて堺くんだりから運んでくるまでもなくそれを使ったほうが早かったはずだろう。柳ケ瀬隧道だって軟弱地盤だったため巻き立てながら掘らなあかんという時期が続いていたし刀根も小刀根も曽々木もM14に完成している。それも金ケ崎丸就航前の話である。

塩津経由が柳ケ瀬経由に変えられた理由。当初塩津が湖北最大の荷駄集散地であって、なおかつ敦賀に出やすいから(距離が短くて済むから)大津〜塩津航路+鉄道という組み合わせが考えられた。けど「あとでよう考えたら」柳ケ瀬回りのほうがいいと言い出す井上勝(M13?)。後々陸路で東海道線につなげなければならんことを考えると塩津は不適格。賤ヶ岳をクリアしないといかんくなるから。んで改めて調べてみると刀根越下を抜けばほとんど同じマイル数で疋田に出られることがわかった。先に提案してなくてごめんねテヘペロ。さらには塩津方面は寒村ばかりで殖産の途がなく鉄道敷設しても効果が薄い、住居の廊下のようなものになってしまうとまでいっておる。ひどい話である。それは柳ケ瀬方面もどっこいどっこいじゃないか。。んで稟議書には小刀根刀根曽々木のことは書いてないんじゃね。というところを読んでいるうちにメンテされた。

刀根回りのルートは井上も実地検分済み。もう一度行幸のメンバー確認のこと。


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