録"nagajisの日不定記。
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独語共感殿欠勤のため二時限は習字に変更せり。第六時限目は体操にて棒倒しあり剛健身〔心〕を発揮したり。続いて月齢身体検査あり共に大部増加し嬉し。運動時は雨降りたり。
零下五度。授業開始。先ず昭和十八年度の最初の授業は国漢乙の考査ありたり。午後は訓話「堅忍不抜」あり。剣術は依然たり。休暇後なれども思いたる以上に好調なりき。三日坊主とならざる如く充分努めつゝあり長く続かんことを決〔期〕す。 良好なり。
午前は木曜日の授業。午後は剣術考査にて面の斬撃・突 及試合教習・試合あり。約一時間にて一五・三〇より酒保へ行き、しばらく後に自習に移る。一・二年は午後外出せり。日曜を潰さるゝ事を快とする様に心が自と変る。不平もなく、今日など日曜なりとの観念は念頭に非ず〔朱線、欄外「前線に於ては休日も休暇もなし 此の気持を忘るる勿れ」〕一向に行えり。むしろ進んでやって貰い度し。明日の授業の五時間目を行わざるは不解なり。愈〃考査の週なり。頑張らん。良好。
昨年暮れに「鉄道と煉瓦─その歴史とデザインー」(鹿島出版会景観叢書)という本を買った.全国各地の鉄道の煉瓦構造物を調査して博士号を取った小野田滋氏の著書である.例の原稿を上げた後にこういう本が出ていることを知ったものだから参考文献にあげられていないが,元論文に一番近くて入手しやすい本ではなかろうかと思う.内容や流れは「技術教室」の連載と同じだが,より徹底した情報であることは言うまでもなし.煉瓦や鉄道に興味がある方ならぜひともご一読をおすすめしたい.
ぼつぼつと書き始める.6割くらいか.笹子に行ったことがないのが悔やまれるが、関西方面ばかりでも結構な種類のC隧道があることが有りがたい.写真がなくても、本邦道路隧道輯覽の図が使えるしな.問題は「意匠」をどうまとめるか.古典主義とかゴシックとかの建築様式まで解説するのか?の前に解説できるのか?>おれ
工事画報大正15年4月号・工事タイムスより.
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/02-04/02-04-0277.pdf
■東京驛前の新設備 東京鐵道局では長途の旅客の疲れをねぎらふべき施設を考慮中であつたが、驛前廣場に地下室を設けることとし、過般岡田美術學校教授に依頼した設計も出來上り、この程警視廳の許可も得たので、いよいよ來月始めから四箇月の豫定で工事にとりかかることになつた、(中略)竣工の曉にはパリーの粹を集めたフランス最新式の男女調髮所數室の外に長途旅客の疲れを癒やすための大浴場をも作ることになつてゐる、
ほうほう、さすがは帝都のせんとらるすていしょん.それ位のものがあって然るべきだろう.にしても大浴場とは意外だな.大阪なら梅地下に銭湯があるようなものか.などと妙に感心してしまったのだが、最後はこう締めくくられていた.
因にこの浴場は男子專用との事である.
・・・わざわざ因んだ編集者の意図や如何.
という感じで妙に印象に残っていた大浴場、昭和3年1月号に続報が出ていた.4月より営業開始で一度に60人が入浴可能とか.
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/04-01/04-01-0696.pdf
ひとが休んでいる間に限って倉庫に猫が来たらしい。釣り餌としてバームクーヘンを配置してみたが効果の程は定かで無いと。10日に確認してみたがやはり齧った跡はなかった。くやしい。
水辺の遺産 京都府大山崎町桂川右岸高水敷で発見された明治期の煉瓦造樋管調査報告書
舞鶴の赤煉瓦・土と風の見聞録
舞鶴の赤煉瓦 1889-1991
国産赤煉瓦焼成窯の技術史的研究 上,下
[陶磁器関係原材料ノート]
最近セメント及煉瓦業
日本鉄道史上巻米原敦賀間鉄道の項目を読んでフムフムコレハと思っている最中にメンテナンスモードに突入されてしまった。この生半可な納得のやり場を如何にせましや。
金ケ崎丸が建造され海上輸送で敦賀に建設資材が送られるようになったのはM15.3のことで、その前から敦賀〜疋田間の暫定運行が行なわれていた(確かM15.2)。ということはその時にはすでに路盤と線路ができていた、即ち鉄輪の眼鏡橋や疋田の暗渠が出来ていたことになる。だとすると別の手段でどこかからか煉瓦を持ってくる必要があったことになるわけで。レールは間違いなく他所から持ってくるしかなかったはずだが煉瓦は現地でも焼くことができたし事実焼いたという場所もあるのだから敢えて堺くんだりから運んでくるまでもなくそれを使ったほうが早かったはずだろう。柳ケ瀬隧道だって軟弱地盤だったため巻き立てながら掘らなあかんという時期が続いていたし刀根も小刀根も曽々木もM14に完成している。それも金ケ崎丸就航前の話である。
塩津経由が柳ケ瀬経由に変えられた理由。当初塩津が湖北最大の荷駄集散地であって、なおかつ敦賀に出やすいから(距離が短くて済むから)大津〜塩津航路+鉄道という組み合わせが考えられた。けど「あとでよう考えたら」柳ケ瀬回りのほうがいいと言い出す井上勝(M13?)。後々陸路で東海道線につなげなければならんことを考えると塩津は不適格。賤ヶ岳をクリアしないといかんくなるから。んで改めて調べてみると刀根越下を抜けばほとんど同じマイル数で疋田に出られることがわかった。先に提案してなくてごめんねテヘペロ。さらには塩津方面は寒村ばかりで殖産の途がなく鉄道敷設しても効果が薄い、住居の廊下のようなものになってしまうとまでいっておる。ひどい話である。それは柳ケ瀬方面もどっこいどっこいじゃないか。。んで稟議書には小刀根刀根曽々木のことは書いてないんじゃね。というところを読んでいるうちにメンテされた。
刀根回りのルートは井上も実地検分済み。もう一度行幸のメンバー確認のこと。
長崎地方で幕末から明治にかけて作られた最初期の煉瓦。厚40mm強という薄さと平面形の小ささから「蒟蒻煉瓦」と称されているけれども、別にこれ、当時からそう呼ばれていたわけではないらしい。NDLで「蒟蒻煉瓦」or「コンニャク煉瓦」を検索しても戦後の文献しかヒットしない。そももそ長崎の煉瓦がなぜこんな厚さなのかを考えた人もないようだ。
長崎での煉瓦製造は長崎造船所の建設を契機としたのは間違いなく、その長崎造船所はオランダの技術供与を受けていた。そのオランダの煉瓦が実は薄いものだったりする。"Dutch Brick" と呼ばれ Wikipediaにも項目があるほどの特徴的な煉瓦らしい。Wikipedia曰く、オランダは15世紀頃には技術が最も進んだ国と認められていたほど煉瓦建築が盛んだった国で、17世紀18世紀のイギリスがオランダから煉瓦を輸入していたほど。そのオランダの煉瓦が世界各地の植民地に普及しもした。上記Wikipediaページには1874という西暦が刻まれた煉瓦が掲げられている。寸法は明記されていないが明らかに薄い煉瓦だ。
つまるところ、長崎造船所建設のために現地で煉瓦製造をした際、オランダの流儀で製造したために蒟蒻煉瓦は薄くなったものらしい(建設に際してオランダ技師たちがいかに苦労したか、どこに煉瓦工場が設けられたかは『長崎談叢』という雑誌に論考がある。北岡伸夫「蒟蒻赤煉瓦石考」(1)、(承前)。この記事などは「蒟蒻煉瓦」という言葉を使い始めた最初期のものだ)。
技術の源泉がどこかによって煉瓦寸法が異なった例は他にも多い。横浜に建設された横須賀造船所でも煉瓦が製造され、その寸法はのちのどの規格にも一致しない変わったものだったが、造船所建設に寄与したフランス海軍の煉瓦規格を踏襲したものだったことが判明している( 菊地勝広「横須賀製鉄所へのブレスト海軍工廠煉瓦寸法規格の導入について-横須賀製鉄所におけるフランス系建設技術の導入に関する研究(その3)-」。要約が https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20760435/20760435seika.pdf で見れる)。ベックマンやエンデが来日しドイツ建築ブームが起こった時にはドイツのノルマルフォーマットだった大型の煉瓦が作られ独逸形と呼ばれた(そして跡形もなく消えた)。つまるところ、西洋技術の移植のついでに煉瓦寸法も持ち込まれることが当時は当たり前だったということだ。東京形 7 x 3.6 x 2寸などもイギリス流儀の建築技術とともに持ち込まれたもので、もとは 9 x 4-1/4 x 2-1/4 in あたりのインチ寸法で設計されたものだったに違いない。M28「煉化石及モルタル試験報文」(『分析試験報文 第1号』)にも東京形の寸法はイギリス・スタッフォードシャーの煉瓦に近似するとい記述がある。一方で鉄道分野でもイギリスから技術を入れたけれども、煉瓦寸法に対する考え方は若干違っていたらしく、 9 x 4-1/2 x 2-1/4 in と長手=小口×2となる目地見込まないディメンションを基準としていた節がある。而して特に煉瓦厚は 2-1/4 in 厚を墨守した。一般建築に要求される煉瓦寸法の精度と土木構造物たる鉄道付帯構造物に求められる精度が違っていて、要するに土木向けには目地をあらかじめ見込まないでもいいようなバラツキのある煉瓦をもちいていたことを反映しているんじゃないかと想像する。なにはともあれ日本ではイギリス流儀の建築とイギリス流儀の鉄道(土木)がデファクトとなり、先行していたオランダ流やフランス流を駆逐してしまったために煉瓦は 7.5 x 3.6 寸四方という感覚が固定化することになったと。そうして欧米各国がモジュラー設計の寸法で作るようになっても日本では旧概念の寸法で作り続けられる。はじめに覚えたことはなかなか捨てられないものだ。
オランダ流の薄い煉瓦は、当初は〝パン瓦〟と呼ばれていたんじゃないかと根拠乏しく妄想している。大阪で煉瓦が製造され始めた頃、煉瓦を〝麺麭瓦〟と呼んでいて、その大きさが 長七寸、巾三寸二分、厚さ壱寸六分(1.6寸=48.48mm)程度の小型ものだったと小泉王勁が書いている。大阪窯業もその前身である硫酸瓶製造会社時代に自社窯で使うパン瓦を製造していた。その経験が煉瓦製造専業に転じるきっかけになったとされている(『大阪窯業五十年史』)。
わが国最初期のパンはいまの食パンのような四角いふわふわしたものではなくビスケットに近いものだったらしい。韮山反射炉を建設した江川太郎左衛門担庵が作ったのが最初というし、確か宇都宮三郎もパン食をしていた話があったはず(両人とも煉瓦製造に関わりがあるのが面白い)。陸軍でもパンが採用されたがその改良は日清戦争後という記述もあるので少し違うかも知れぬ(三立製菓サイト)。もっともパンの漢字表記 麺包 は中国からの輸入で(発音メンパオ)、中国経由でパンの概念が二本へ届いていた可能性もある。ともかく最初期の乾パン的パンと煉瓦の大きさや色感が似ていて、それで煉瓦を〝パン瓦〟と呼ぶようになったらしい。そう考えると蒟蒻煉瓦も当時は〝パン瓦〟呼ばわりされていたのではあるまいか。
大阪で〝パン瓦〟の呼称が使われ、小型の煉瓦が焼かれていた時期があったのも、長崎方面からの技術伝搬があったのでは。砲兵工廠を設立するときには長崎造船所で使用されていた器材と技術者が大阪へ移されている。それとともに〝パン瓦〟が渡ってきたのではあるまいか。造幣寮の建設では鴫野の窯でウォートルス指導のもと煉瓦が焼かれたが、その事業と技術は一代雑種的で、後世に伝わることはなかった。伝わっていれば東京形がデファクトになっていたと思われる。続いて起こった砲兵工廠の建設(堺の官設工場で製造)、および鉄道建設に伴う煉瓦製造(官設工場やその払下げを受けた原口工場)など、堺で繰り広げられた最初期の製造が煉瓦製造@大阪の基礎となっているのは確かである。