nagajisの日不定記。
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大事にしたいことは敢えて書かないという保身。そんなに抱え込んだところで人間が成長するわけでもなし、かといって披瀝しようものならますます矮小なりしことが明らかとなってしまう故に沈黙せざるを得ない。たった一つも持ち合わせてはいないのである。
確か大阪府誌M36であったと思うが、大阪窯業が朝鮮へ煉瓦を輸出した記録があると書かれていたのが印象に残っていたのだけれども、堺市史史料類纂に拾われている同社の経歴書の中に木浦領事館用に納入したっつー記述を見つけて両者が繋がった。検索してみればこの建物は今でも残ってあるという。例の慰安婦像が置かれたのがこの建物の前だった。建物はとてもきれいな赤煉瓦の建物で、きれいすぎて改装されたものかも知れないと思ったりもするが、きっとどこかに窯業マークがあるに違いない。この他にも確か日本煉瓦も朝鮮台湾に煉瓦を輸出した記録があったはずだがそちらは具体的な建造物名が出て来ない。
煉瓦の輸出はハンター商会の時代から計画があったようだが、それが実行されたかどうかまではわからない。あんなかさばる重いものを何百万個も運ぶのはさぞかし大変なことだろうと想像するし、船で運ぶくらいなら現地に工場を作ったほうが早かったんじゃないだろうか(それで実際に作られた工場も多かった。昭和に入ると大陸のadressの煉瓦工場がいくつも出現する@工業名鑑)。けれども明治20年代には堺の煉瓦が舟運で九州に運ばれ九州鉄道の路線建設に使われていたりするしーーー実際例の五稜星刻印煉瓦が出てきてるーーー何度も書いた通り山仮屋隧道には旭商社製品が納入されている。官営鉄道の建設が滞った頃にはかえって海運が発達し日本の産業革命を下支えしていたという説もある。瀬戸内航路の場合は福岡の石炭を大阪へ運び、空荷で返すのが勿体無いので煉瓦を積んだ、というのをどっかで読んだ記憶がある。海運を舐めたらいかんっちゅうことだろう。あでも堺煉瓦は「鉄道も海運も運賃が嵩むからもっぱら和船を利用」とか何とか書いてなかったけか。海運ノットイコール和船なんだと思ってギモンに感じたのだけれども。ともかくそういう舟運があったから大陸方面にも輸出が可能であった。どれだけ送られたか、かの地でどれだけ内地産の煉瓦が見つかるものか多少興味がある。路地裏に行ったら沢山転がっていそうな気もする。行って調べたくなるほどではない熱心さでそんなことを考えている。んでわかったところであまり実になるものでもあるまいが。
逆に、日本に輸入された赤煉瓦というのはまず聞かない(戦前期に、の話。戦後のは時々見る)。噂ばかりあって実物が見つかっておらぬ。呉鎮守府の建物だってイギリスから油紙に包んで持ってきたという噂ばかりあって実際は日本産であった。ジュラール煉瓦も日本で作られたやつだっけ。敦賀の赤レンガ倉庫にも輸入された煉瓦で作った説があって、そうそうそのことを敦賀港駅舎のパンフレットで見かけてその真偽を確かめようと思い敦賀市立博物館へ行ったのが伝・敦賀線建設用工場に行き着いた経緯だったのだ忘れてた。あの件どうしたらよかんべか。敦賀市の教育委員会さんに尋ねろってことか。
耐火煉瓦は輸入品がいくつも見つかっている。最初期〜明治20年代はまともな耐火度の国産品がなかった。