トップ «前の日記(2018-01-16) 最新 次の日記(2018-01-20)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業資産 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2018-01-19 [長年日記]

[独言] 書かない

大事にしたいことは敢えて書かないという保身。そんなに抱え込んだところで人間が成長するわけでもなし、かといって披瀝しようものならますます矮小なりしことが明らかとなってしまう故に沈黙せざるを得ない。たった一つも持ち合わせてはいないのである。

[煉瓦] 韓国木浦領事館、に始まるいろいろ

確か大阪府誌M36であったと思うが、大阪窯業が朝鮮へ煉瓦を輸出した記録があると書かれていたのが印象に残っていたのだけれども、堺市史史料類纂に拾われている同社の経歴書の中に木浦領事館用に納入したっつー記述を見つけて両者が繋がった。検索してみればこの建物は今でも残ってあるという。例の慰安婦像が置かれたのがこの建物の前だった。建物はとてもきれいな赤煉瓦の建物で、きれいすぎて改装されたものかも知れないと思ったりもするが、きっとどこかに窯業マークがあるに違いない。この他にも確か日本煉瓦も朝鮮台湾に煉瓦を輸出した記録があったはずだがそちらは具体的な建造物名が出て来ない。

煉瓦の輸出はハンター商会の時代から計画があったようだが、それが実行されたかどうかまではわからない。あんなかさばる重いものを何百万個も運ぶのはさぞかし大変なことだろうと想像するし、船で運ぶくらいなら現地に工場を作ったほうが早かったんじゃないだろうか(それで実際に作られた工場も多かった。昭和に入ると大陸のadressの煉瓦工場がいくつも出現する@工業名鑑)。けれども明治20年代には堺の煉瓦が舟運で九州に運ばれ九州鉄道の路線建設に使われていたりするしーーー実際例の五稜星刻印煉瓦が出てきてるーーー何度も書いた通り山仮屋隧道には旭商社製品が納入されている。官営鉄道の建設が滞った頃にはかえって海運が発達し日本の産業革命を下支えしていたという説もある。瀬戸内航路の場合は福岡の石炭を大阪へ運び、空荷で返すのが勿体無いので煉瓦を積んだ、というのをどっかで読んだ記憶がある。海運を舐めたらいかんっちゅうことだろう。あでも堺煉瓦は「鉄道も海運も運賃が嵩むからもっぱら和船を利用」とか何とか書いてなかったけか。海運ノットイコール和船なんだと思ってギモンに感じたのだけれども。ともかくそういう舟運があったから大陸方面にも輸出が可能であった。どれだけ送られたか、かの地でどれだけ内地産の煉瓦が見つかるものか多少興味がある。路地裏に行ったら沢山転がっていそうな気もする。行って調べたくなるほどではない熱心さでそんなことを考えている。んでわかったところであまり実になるものでもあるまいが。

逆に、日本に輸入された赤煉瓦というのはまず聞かない(戦前期に、の話。戦後のは時々見る)。噂ばかりあって実物が見つかっておらぬ。呉鎮守府の建物だってイギリスから油紙に包んで持ってきたという噂ばかりあって実際は日本産であった。ジュラール煉瓦も日本で作られたやつだっけ。敦賀の赤レンガ倉庫にも輸入された煉瓦で作った説があって、そうそうそのことを敦賀港駅舎のパンフレットで見かけてその真偽を確かめようと思い敦賀市立博物館へ行ったのが伝・敦賀線建設用工場に行き着いた経緯だったのだ忘れてた。あの件どうしたらよかんべか。敦賀市の教育委員会さんに尋ねろってことか。

耐火煉瓦は輸入品がいくつも見つかっている。最初期〜明治20年代はまともな耐火度の国産品がなかった。


トップ «前の日記(2018-01-16) 最新 次の日記(2018-01-20)» 編集