nagajisの日不定記。
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15日に書かないのがミソと見た。
大層なタイトルだが大した話ではない。堺市立図書館でたまたま手にしたスクラップブックで堺市にあった堺紡績所の保存運動とその挫折を見通す機会があり思う所多々というだけである。
昭和48年頃までは堺市出島町に堺紡績所の建物が残っていた。当時は喜福工業株式会社というベニヤ板製造会社が所有していたみたいだが、その敷地を今のURに売却し建物も取り壊されることになったという辺りから?保存運動が展開された。結局解体撤去は免れなかったが、一応の学術的調査がなされ、発電所建屋の窓部分だけモニュメントとして残されることになったという。また解体の際に丹治煉瓦の墨書きのある煉瓦が見つかったり、柱の一つが鉄管柱になっていて雨樋を兼ねていることが判明したりもしている。
解体完了は確か昭和53年のこと。窓枠は喜福工業の社員寮の庭に移設されたそうである。
それから約40年後の今日、どうなっているかというと、これがさっぱりわからない。喜福工業はすでに存在していないようだし、調査の報告書が刊行されたようでもない(←OPACで調べた程度なのでどこかには存在するのかも知れないが)。そして勿論今現在に堺紡績所の遺構として知られている物件はない模様である。
近代化遺産の保存と活用。どう考えても分が悪い。どんなにそれが貴重なものだ(と主張)としても「保存するのに必要な金があるか否か」「残したものが金になるか否か」で裁断されてしまう。貴重なものだ(と思われる)から残そうということになった試しはまずない。特に問題なのは()のところ。ものの価値をわかっている人にとっては壊すなんてとんでもない話なのだが、そうでない人にとっては無益な古物でしかなく、そもそも価値があると考える人の主張する価値が理解できない。たまたま同じスクラップブック(これは明治建築研究会から寄贈されたもののようだった)には浜寺町役場の建て替えに際しての悶着も載っていた。役場を利用する側にとっては旧態然のぼろっちい建物でしかなく、建て替えて便利なものにしたいという意見が圧倒的に多かったようだ。
出発点が、いかんのかも知れない。貴重だからという理由で残すことを主張するのは理解を得にくい。むしろそうだ、残っているものをうまく活用すれば「こんだけ金儲けになるんだよ」とか「活用すれば便利だよ」ということを前面に押し出してやったほうが、実は理解が得やすいんじゃないだろうか。その結果として貴重なものが金儲けの手段となり本来の用途・意図から逸れていくことになるが、そのことによって貴重だと思っている人の純心が苛まれることは我慢してもらう、しかないのではないか。どうせ器でしかないんだろうから、残してテナントか何かに利用する他に生きる道はないのだし、それだって100%成功するわけではないし、未来永劫続くとも思えぬ(結局は資本のある者が余力でやってゆくしか)。土木構造物の場合はまた違うことになるだろうが……。少なくとも一部分だけ切り取られてよくわからないモニュメントにされてなおかつ数十年もしないうちに行方知れずになってしまう、ような醜態を演じさせられるよりかはマシなんじゃないだろうか。
大阪中郵のポータルとか、哀れだよなぁ。
統計書から取ってきたデータの中には「諸会社」欄にあったものを持ってきたものもあって、南山城のM30代の煉瓦工場のは大半がそれだ。そのデータは「本社の所在地」であって「工場所在地」ではない場合がある。よほどの大工場でない限りは工場と本社が一致していると思っていたのだが必ずしもそうではなかろう。工場は非常に零細だったり零細工場を束ねていたりする場合もあったと思われる。京近煉瓦、吉野煉瓦のように会社として拾えても工場通覧には出てこない工場はそういう経営態だったのではないか。こういうものを区別する手立てを現在の工場表では施しておらぬ。ううむ。どうしたものか。
要するに平岡窯が木津煉瓦株式会社の工場だったという可能性はあるんじゃないかと、お手紙の返事を書きながら考えてみたりしている。
@堺市史史料類纂。関西鉄道と奈良鉄道に納入実績あり。前者は淀川橋梁橋台が証明していて、まあ間近だからわかるんだけれども、奈良鉄道まで送っていたとは意外な気がする。だとすると関西本線方面にも行ってるんじゃないか。いやそうでもないか、M29-33頃といったらまほろば線辺りでもいいわけか。
@同。川口にあった頃の大阪窯業は西成郡住吉村産と淡路国志筑産の土を使っていた。前者はわかるが後者は(略)。そもそも工場周辺は淀川の末の堆積州を開墾して水田にしたようなところだから赤土なんてなかったのかも知れない。堺に移転してからは堺近郊の畑地から取得。
性懲りもなくまたバッティングセンターへ。夜中に走るせいか服部緑地公園を過ぎた辺りで毎回迷う。緑地公園を半横断して自動車学校の前を通っていくのが最短距離なのだが、植物園を右に迂回していった先でいつもわからなくなる。そのまま高架を下っていってしまうと小曽根のほうへ出るはずなので脇の歩道を通っていくのだがその次の曲がるべきところがわからなくなる。今日はそこから真っ直ぐ行ってしまい気がついたら小曽根にいた。なぜだろう。
正解は高架歩道を下りて左にある橋?を渡り、渡りきったところで左に折れねばならないのだった。そうやって植物園の南縁に沿って進めばバッティングセンターのすぐ下に出られる。新御堂沿いを余計に登らなくて済む。 このコース、帰りはすごくわかりやすし、早いんだけどなあ。行きで迷って10分15分無駄にしてしまうのがここのところ続いている。
今日は少年野球の講習会があったらしくて大変賑やかであった。自分よりも数段上手い子供もいて負けてられぬと思ったりしたが、別に勝ったところで得るものも活かす場もないのだ。そうしてやはり会心の当たりはわずかなのだった。当たる時は当るんだけど、だんだん疲れてきてボールのタイミングで振ってしまう。そうやないねん、いわゆる「よおく引き付けてひっぱたく」やないとあかんねん。くるぽかあんと撃たなあかんねん。
妙な振り方なものだから左の脇腹が痛くなった。空振りすると覿面に痛い。また治癒に時間がかかったりしたらやだな。
S15、16のデータを入れた。長崎がさらに圧縮されてごちゃごちゃしてきた。一方佐賀のS15をコピーし忘れている模様。なんだかなあ。それだけ取りに行くとなるとまさしく愚の骨頂だ。S16はデータがあるのでさほど影響はないと思われる。
それ以外にもいくつかデータの誤りを発見。今はまだパブリックベータ的な状態で、あと何度か目を通さないと正しくならないように思われる。