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2018-01-21 [長年日記]

[煉瓦] 堺紡績所始末記・2

中途半端な時間に目覚めてしまい、片付けねばならぬ仕事も思いのほか手早く片付いてしまったので、半端に半端を重ねるような小散策に出た。二週連続の堺行きである。

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UR湊駅前団地をストリートビューで眺めてみた時、正門と思しき辺りに煉瓦造りの構造物が見えて、ひょっとしたら新聞記事にあった窓枠以外にも保存されている部位があるのかも知れないと思ったりしていたのだが、行ってみれば何の事はない、真新しい煉瓦でそれらしく造ったモニュメントであった。笠石も別段流用というわけではなさそうだ。そばに一応解説看板があって、堺紡績所の跡地に団地が建ったことや、当時の建物を再現したモニュメントだということが伝えられてはいたけれども、こんなことをする余裕があるなら現物を残しておいてほしかった。こういう手のツクリモノほど役に立たないものはない。所詮は破壊の言い訳、造った側の自己満足にしかならぬ。

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半ば諦めていた移設窓枠のほうはちゃんと現物が残されていた。UR団地の北にある「ハイツ堺」というマンションの通路に相当するところに建っている(UR団地の西側入口に隣接する通路を入っていったところ。この通路はMapsにも載っていないしブツが奥まったところにあるしでストビューでは確認できない)。以前はこの辺りに喜福工業KKの社員寮があったのだろうか。

アーチにキーストーンを挿入したりしている造りはなかなか凝っているのだけれども、仔細に見ると結構がさつな作りであったりする。中央キーストーンの左右の煉瓦は厚みが違っていたりするし、キーストーン自体がずれて落ちかかっているようにも見える(それはこの部分だけ切り出して運んだせいかも知れないが)。

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この窓枠のほかに門柱の頭の部分も残されていて、向かって右のそれの根元に平が露出した煉瓦があったりした。かなり念入りに調べてみたのだけれども刻印は見当たらず。窓枠のほうも裏側に欠落があって、そこから平の中央が見えている。新聞記事には堺紡績の解体の際に丹治の墨書きのある煉瓦が見つかったことが書かれていたので、他の煉瓦も丹治製の可能性があるのだけれども、もし仮にそうだとして、丹治刻印が見られるのであればきっとそこにあるだろうという平中央に刻印を見ることはなかったのだった。堺紡績所が建設されたのは明治29年。この頃はまだ丸丹マークを用いていなかったか、丹治以外の煉瓦が使用されていたか、その両方かであるのだろう。第一丹治刻印が見つかっていたら墨書き云々を持ち出すまでもなく丹治製とわかっていただろう(だって丹治煉瓦の社屋は残り続けてて丸丹入り煉瓦も使われているんだから)。

新聞記事にはもうひとつ、解体前調査で見つかった雨樋兼鉄管柱を団地の公民館のポーチに流用する計画も載っていた。その鉄管柱のほうは、消息不明。UR湊駅前団地の集会室は他のマンション棟とほとんど同じ造りの建物の一階にあって(Mapsで何も記載されていない建物がそれ)、外を一周してみたけれどもそれらしい柱は見当たらなかった。鉄管柱だけオブジェクトされているようなこともなく。最初から流用されなどしなかったのか、それとも当初は使われていて、後の建て替えで消滅したのかは突き止め得なかった。管理人棟は日曜休であったのだ。なんともはや。

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その後団地の隅々を歩き回ってみて、確かに煉瓦のかけらが多数転がっていることを確認した。それより何より、団地の東側に隣接してある家庭菜園区画の中に多数の古煉瓦があることを特定した。この家庭菜園コーナーは金網に囲まれている上に、入り口にはご丁寧にもダイヤルロックが施されていて、余所者完全シャットアウトの態である。金網越しに空しく眺めるだけとなった。

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そうはいうけれども、ここで気づき得たことが幾つかあって益々也であった。例えばこんな正方形の煉瓦が多数ある。手の届く範囲にあったものを測ってみれば6寸四方厚2寸(もう少し薄いものもあったけど少数派)、平にモルタル跡のないものが多かったから、おそらく舗石として使われていたものと思われる。これが敷瓦というやつだろうか。

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無論刻印を探したのだけれども、丹治の丸丹マークはついぞ見つけられなかった。そのかわりにちょっとレアな「ツキス」印を発見した。考えてみれば明治29年建造とあれば堺附洲の製品が使われていてもおかしくはなく、むしろ堺附洲のほうが最寄り工場であったのだから、その製品が来ていても不思議ではない(同様の理由で日本煉瓦の製品が使われていてよい)。ただし「ツキス」印はこの一つだけしか見つけられず、他の刻印も大阪窯業の断片を一つ見つけたきりだった。

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後は余談。南海本線下り線が湊駅に到着する直前で煉瓦製の壁が目に入ったものだから、ついでに歩いていってみた。ドムス堺というマンションと日新製鋼大浜寮の境界線上に建っている。

電車から見た時にはずいぶん低い壁のように見えたけれども、実物は立派に壁々した壁であった。ただし使われている煉瓦は機械成形で刻印を見出すこともなく。

明治43年の市街図によれば、ここに「栄製鐵所」があったようだ。いまの日新製鋼寮の側である。その頃に機械成形とあれば大阪窯業堺工場しか考えられぬ。無論後年増築した可能性もなきにしもあらずだが。あと一部だけ手成形の煉瓦が使われている(写真手前の茶色いアーチの辺り)。

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そのまま堺駅まで歩き通して、内川の南海鉄道橋脚跡を見た。ものは以前にも見ているはずだが写真を掲げたことはない。開業当時は現在の高架の東側50mほどのところを通過していたことになる。橋脚上には平が露出しているけれども、この配置だ、近寄って調べることもできない。望遠で写真を撮ってみたけれども105mmでは届くはずもなかった。


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