nagajisの日不定記。
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本当は和歌山へ行こうと思っていたのだけれども前の晩に寺田寅彦全集を読み込んでしまったために寝過ごした。結局前回の続き的に広田煉瓦工場と三島煉瓦の跡を訪ねることに。
広田へは久しぶりに171を通ってみた。神戸元町までの往復運賃700えんを節約するために、あるいは帰省のダイアモンドフェリーに乗るために何度も走った道なのだが、ここのところすっかりご無沙汰だったので、懐かしいような新鮮なような気分に浸れた。ただし往時の元気は微塵もない。171で現場まで行くか阪急西宮北口辺りまで輪行するか迷ったくらいである。以前と変わらないのは走って楽しい道ではないという現実のみである。
昆陽西の辺りでは旧道へ入り込んでみたりもした。大したものはなかったけれど。焼肉特急は幸福駅から始まらないほうがよいのではないかと思った。食えば食うほど至福に近づけるほうがいいに決まっている。食うほどに飽きがきて幸福から遠ざかるような焼肉は(たとえそれがよくありがちなことだとしても)あまりうれしくはない。
広田村はまったく新しい住宅街になっていて、それは航空写真からもわかっていたけれども、これほど何も見つからないとは思わなかった。古い煉瓦、というものからして無い。唯一「K1」を見つけられただけだ。それとて戦前を少し遡れるだけで、なおかつたった一個の存在だったから、そこから何かを引き出すことも難しい。
その周辺の町々も少し入り込んでみたがほぼ同様である。シャレオツな住宅街ゆえ新しい煉瓦はたくさんあるのだけれども、目指すところのいびつな手成形煉瓦は一つも見い出すことができなかった。百年前の工場なのだから、何の消息も残さずに消え失せていても不思議ではなく、一概にそういうものと考えるべきなのかも知れない。勝部だってそうだった、多数見つかったあれは紡績工場由来のものだ。
そこから西宮北口駅へ向かい、阪急に乗って、大阪を横断して茨木市へ。上中条にあったはずの三島煉瓦の痕跡を探した。そうしてこれも失敗に終わった。やはり百年前の(略。
茨木市は何かありそうで何もない街である。これまで何度も煉瓦探しに訪れたけれども全く収穫がないことばかりだった。今回はそんな雪辱を晴らしたいという気もあったので、これまで以上に徹底的に歩きまわってみて、なんとかかんとか発見をすることができた。
例えば江州煉瓦。府下では吹田が南限だったので茨木で見つかるのは不思議ではないけれども、検出は初めてである。茨木ではもう一つ江州煉瓦を検出している。よほどの浸透圧と考えねばならぬ。
その近くではこんな耐火煉瓦を目撃。いかにも赤煉瓦っぽい色合いだが三和耐火のSTRとSKグレード30が刻まれておる。
以上2個の煉瓦があったのは梅林寺の北側だ。梅林寺は以前来た時には全周が煉瓦壁だったように記憶するのだが、久しぶりに再会してみると大半が塗り込め直されていた。残っているのは北面のごく一部だけだ。
三島煉瓦の工場は茨木町上中条に所在していたことになっているが、明治29年頃から34年頃までと操業期間はごく短い。上中条の全域を歩きまわってみてもこれといって古煉瓦が多いわけではなかった。明治頃はこの一帯は水田であったようだから無くて当然なのかも知れぬ。
そんな上中条でたった一箇所残っていた煉瓦溝に興味深い煉瓦刻印を発見。推定塔本の五稜星である。
この刻印は淀川以北ではまだ見つけられていなかった。十三辺りでも未検出。それがぽつんとここにある。そうして同じ煉瓦溝に
ちょっとわかりづらいが江州煉瓦の機械成形。それ以外にも無刻印の質の違う煉瓦がまぜこぜに使われている。察するにあちこちから取得してきた再生品を使ってあるようである。少なくとも三島煉瓦=★ということは無いだろう。
その後南下して大手町のほうまで行ってみた。茨木は古い民家というものからして少なく、水回りに煉瓦を使っているような家も稀で、そんななかでようやく目にした民家の煉瓦基礎に
和田煉瓦の「ワ」らしいものを見つけることができた。かの特徴的な、ゴシック体というかじゅん31というかな感じの「ワ」である(モルタルをかぶっていて右辺~下辺が見えないが1・2画目から間違いなくゴシック「ワ」とわかる。それほど特徴的な刻印なのである)。
そんなこんなで一応は収穫があった日曜日。暑くて悶え死ぬかと思ったが帰ってとろろうどんを食して復活した。懸案だったザックの洗濯とゴア合羽の撥水加工も執り行ってさらに実りを得たのであった。うん、こういうのが本来の日曜日の過ごし方のはずだ。