nagajisの日不定記。
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過日西宮へ行った時に初めて西宮砲台を見た。こんなに大きなものとは思わなかった、というのが第一印象。ここ150年ほどで隅々まで変わり尽くした西宮の市街地と、150年前から変わらずこの大きさでありつづけている砲台は、立ち位置としては大層ミスマッチだけれども、今ある街が一瞬にして出来上がったのではないというごく当然のことを教えてくれる。150年間何の役を果たすわけでもなく同じ場所に佇み続けているというただそれだけのことが妙に新鮮に思えたことだった。同じことを例えば大阪城の石垣だとか姫路城だとかに感じないから不思議なものである。「役立たず」というところに「同病相哀れむ」に似た心理が働いてそう思うのかも知れない。
街は変わる。変わる定めにある。そんな街で敢えて煉瓦を探すのは定めに逆らう不埒かも知らぬ。以前はそんなことも思わずにただ成果の有無に一喜一憂するばかりだった。岡町住宅地が奇跡の存在に思え感心しきりだった頃から、探せばどこにだってあるのだと知りますます感心した時代を経て、今はそんな思いを抱いて街をさまよっている。変わるべきものの中に変わらないものを見つけられることの奇跡を感謝しつつ埋もれた煉瓦をほじくり返す毎週末。いや毎週末は言い過ぎか。そりゃやりすぎだ。それもまた「見捨てられた意味あるもの」を求めて歩くのであって廃道探索と根は同じ、そして要するに猿が互いの毛づくろいをするようなものなのだろうと思う。道や煉瓦にとってはありがた迷惑かも知らぬが。
ついでにこれも上げておこう。夙川のほとりにあった旧橋跡。阪神香櫨園駅の北側だったっけ。左岸側にある。昭和27年11月架設。親柱だけが残っている。いまは駅南方で川を渡れるようになっているし堤はここで行き止まりになっているからそもそもこの場で渡る必要がない。阪急方面から来た人で夙川右岸に用があれば早くから別の橋を渡っておけば済む。気付かず通り過ぎても阪神駅南に出ればよい。
そういえば西宮戎神社の東門の正面の通りに「旧国道」という通看板が建っていた。あれが旧国道なら東からきた国道は東門の鳥居に正面衝突していたことになる。その後どっちに折れたのだろうか。片鉾橋は西宮戎神社の敷地と阪神線を無視した延長線上にある。
旧長浜駅の庭に移されている、黒田清隆筆「永世無窮」。ここに置かれている扁額'sのなかで一番( ・∀・)イイ!!と思った。一見どの字も読めないところとか、幾何全開の「世」とか。どうもそういうわけわかめ系の書のほうが好きなようだ>nagajis。副島種臣書の扁額とか、どっかにねーかなー。
ここに置かれている扁額はどれも黒く汚れている。墨の汚れなんじゃないかと思う。拓本の取り方を知らずに紙貼って墨塗ったんじゃないか。どこかで真っ黒なこの書の拓の画像を見たことがあるような記憶もある。文化財毀損イクナイ。
屋外で脱糞しているところを見られる夢。 場面は午前1時30分過ぎの複合商業施設前というような按配。半闇夜。それ以前にも何か妙な展開があったのだが確かには覚えておらぬ。あれやこれやがあってから急に抗し難い便意に襲われ、ビル前のコンクリートの地面の上で野糞をしたのである。
「複合商業施設」と書いたのは今その場面を思い出しての後付け説明であり実際にそうであったかどうかははっきりしない。いわゆる無機質なビルがありその前のファサードがあってその周囲を囲むように円形演台状の階段が設けられてある。自分の立ち位置(座り位置)はその階段の下である。豊中駅と岡町駅の間にあるローソンのはいったビルのその辺りに似ている気もするが実物にはそのような階段はない。ファサードの隅には女子高生らしい2、3人がたむろして宵闇を語り明かしている。そこからは見えない位置を探して階段下に居たのだと思う。
便意を開放し始めた時になって自分がその女子高生集団のほうに尻を向けていることに気づいた。そうして便意を開放しながら器用にくるりと回って女子高生方向に向き直った。その動きはシラフの今考えてみればどういう意図だったのか測り難いところがある。いや、記憶の中では覚えている。ケツを見られる恐怖感みたようなものがあったためだ。脱糞中の後ろ姿を見つかって指さされて笑われるなり糾弾されるなりすることが怖く思われたのである。原始的な行為中故に原始的な恐怖を恐怖したのであろう。もし現実にこういう場面を演じなければならなくなったとしたら同じ行動に出るのか否か興味がある。どっちを向いて脱糞するだろうか。同じ場面を演じたいとは毫も思わないけれども。
夢に戻る。そうやって向き直った途端に第三者たる男子高校生に見つかってしまう私。案の定ケラケラ笑われて誠に恥ずかしい思いをする。だからといって便意開放中故に何という反撃に出ることもできない。恥ずかしさの余りうつむけばタール状の黒く粘性のある便があるばかり。抗い難い便意であった割には少量で、かつ開放中に向き直ったせいであちこちに飛散していた。まるで床にケツをなすりつけながら排便したかのような散らかりようだ、と思った。無論そんなことを現実にやったことはないので適当な例えであるかどうか心許無いのであるが、夢の中の私は確かにそんな姿を想像したのだった。
起きたらひどく首が痛かった。寝違える一歩手前といった塩梅。起き上がってしばらくは首を傾けることもできなかったし昼間も不意に向き直るとあふっとなった。そういう肉体的苛荷がこんな夢をみさせたのだろうか。それともnagajisの精神の奥底に澱み居る何かなのか。後者であってはあまり欲しくないものである。
現実の野糞にはやはり恐怖心がつきまとう。今この場面で野犬に出くわしたら。誰も居ないはずの森の中にひょっと通りかかったハイカーがあったりしたら。得体の知れぬ魑魅魍魎に接近されたら。そういう恐怖と闘いながらという側面は確かにある。どんなに山奥で安全だとはわかっていてもこの怖れの感情は拭い去れない。便は拭い去れてもだ。原始の昔から人が行なってきた行為であるはずなのだがだからといって行為に付随する恐怖およびそれへの対処の方法は洗練されていないようである。体験して初めてわかる生物としての私。そして穴は浅く広くではなく縦に深くでなければならぬという経験知。浅いとケツにつきがちである。