nagajisの日不定記。
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服装検査の際校長殿少将に進級せられしを以て職員、生徒一同祝詞を申し上げたり。暑中稽古の際戸山学校へ行かれた町田生徒監殿の御顔を見る。今日は近頃になき寒さにて裸なるを得ずして軍服を用う避難演習行われたり。雨少々降る中に行われたれども、あまりかつどうせざりしため、濡れ寒く、とんだ目に遇いたり。
例のアレを作成している。長文が入ることになって慌てて作っている。結果、恐ろしくぶっ飛んだ文章ができた。18世紀の思想家の言を借りてまでして主張せんでもええやろ、とか思うがこのままで提出する。全没になったらそれまでよ。
自分のなかではもう翌日になっているつもりだったので翌日に移す.悪いか.
ヘンマ.トンチキ.マ.アクノボウ.書いたことは皆忘れたんだ.
部屋を片付けてすっきりした.ついでに風呂場で洗濯を.これで週一の贅沢ができるんだから喜んで労働しろ>nagajis とかなんとか思いながらTシャツ雑巾絞りした.まとめて洗うと腕が痛くなる.
月末までに書きはじめておきたい.溜まってるうちに先先を片付けておくと気が楽だ.この気楽さ加減はORJハジマテ以来の開渠ッ!なので気を抜きそうだ.スポーンと嵌りそうだ.
あとは大杉谷も着手せな.2008.5.GWの探索(まだ残ってんのかよ)と10.5.GWの結果をどう組み合わせるかな.あんまり深く考えずルポ和したらいいんじゃね.水子支線もとい水越線以外は決着ついてるしな.
で写真集のほうはやっぱり写真が足りん気がする.既出写真ばかりやからしんどいねん.コメントがうざいねん.かといって追加するとまた御託書かんといかんしな.この形式はシンプルで好きだが詰め込むのが大変なのは変わりない.
そういや鹿倉隧道の写真がどっかいっちゃってるな.
TRDB物件ばかりだし、あと3つ足せば丁度だし・・・とか何とか思いつつ5件12ページも追加してしまった。自慰の極みだ。参考文献が限界に達しているのでこれ以上は追加しない多分。いつまで経っても終わらんわこれは。
2組の絵葉書.場所に馴染みがないためこれといって気の利いたコメントができぬ.国道13号以西は走ってないしな.
ふと思いつき材料買ってきて6時間ぶっ通しで作ったった.材料費より人件費のほうがかかっている.明日ゲンコツセットを買ってきて一度洗って完成だ.
部屋の窓から見える向かいのアパートのこの穴にスズメバチが入っていくのを見た.通報したほうがいいのかどうか悩む.
それよりも給湯器の調子が悪いのを何とかしたい.昼間はちゃんと点くのに夜になるとダンマリを決めこみやがる.さあ疲れた風呂でも入るべと思った頃には湯が張れないという罠.という無関係な事象をハチカテゴリに書いて穴ファラ既視−を薄める魂胆である.そして今週末はまた福井なのである多分.18切符が無駄にならないようでほっとした.
ラインを整理。最後に意外な事実を自分が書いていたことに吃驚。役に立ってるぞ!>ココ
こうやってネタを重ねていくと半日で回るのはもったいない気もしてきたな。図書館詰め・宮崎村史も押さえたいし。
切羽詰まってもいないのに図書館へゆく。思っていた以上に混んでいた>毎索@中之島。そしてガン見していると1ヶ月/hも進まないことを知る。
堺煉化石が思っていた以上に活発な動きをしていたものだから、共立煉瓦を経てという話が間違いで、堺煉化石→堺煉瓦(株)と直結するのかも知れないと思っていたりしたのだが、わずが数行のこの記事により否定された。やはり共立煉瓦を源としていた。
●堺煉瓦株式会社 堺市戎島附洲新田に設立しある共立煉瓦会社の資産を購入し其名称を改めて大阪西区新町南通五丁目百八十九番屋敷高木嘉兵衛氏より発起人総代として昨日出願せり且つ此は既設の会社にして已に事業に着手しあれば至急認可ありたき旨を申添えたり会社資本金は十万円大阪毎日新聞明治26年6月17日第2面)
というわけで共立の創業時期(明治22年7月)の記事をガン見していったが結局見つけられなかった。そのかわりに22年7月始めの頃の煉瓦業態をゲッツ。ここでは堺煉化石が存在している。
●堺市に於ける煉化石 府下堺市にては近来煉化石の製造所は追々増加し最早や本年に至りては都合九ヶ所に及び紙が同市に於ける昨二十一年中煉化石の製造販売高は凡そ二千万個にて千枚に付き代価金五円の平均とし総代価十万円に超え又其販路先きは大抵大阪、神戸の鉄道、紡績等諸会社の新築に用いし者なりとぞ尤も本年は春来雨天打続き為めに充分の製造の出来ざりし際九州鉄道讃岐鉄道の両会社より多くの注文ありしにより毎年梅雨中は休業するの例なるに昨今職工を増加し専ら製造に従事なし居れり又同業組合は堺煉化石会社、佐藤煉化製造所、附洲商社、花岡組、丹次製造所、原口製造所の六ヶ所にて此の他に旭会社、若井製造所、青山商会の三ヶ所都合九ヶ所にて之れに使用し居る職工請負人は目下百四十人、下職工人五百六十人ありて其製造の盛んなるは毎年六、七、八、九、十の五ヶ月にて此の間は他の月より職工五倍を増すと云えり且つ又原口製造所は去る五月上旬より耐火煉化石を製造し六月中に神戸小野浜海軍造船所の試験を得て今度二万個を大阪電灯会社へ売り渡せし処至極の好評を得たるにより明年開かるる第三回内国勧業博覧会へ出品せんと目下手筈中のよし(大阪毎日新聞M22.7.3朝刊2面)
ということは明治23年以降26年5月までの間に共立煉瓦が存在していなければならないことになるだが、確かにまあ府統計書には載っておるのだ。・・・あれ、8月ちゅう記録もあんのな・・・。7月ガン見+8月公告流し読みで見つからなかったということは8月の本文なのか。
ともかく年単位で見ると堺煉化石の消滅→共立煉瓦成立→堺煉瓦成立に重複はないのだった。ただ工場場所がちがう。堺煉化石は南附洲新田、共立は戎島附洲新田=住吉橋通なのである。この地名周りの不分明もクリアにしておきたいなあ。
本当は和歌山へ行こうと思っていたのだけれども前の晩に寺田寅彦全集を読み込んでしまったために寝過ごした。結局前回の続き的に広田煉瓦工場と三島煉瓦の跡を訪ねることに。
広田へは久しぶりに171を通ってみた。神戸元町までの往復運賃700えんを節約するために、あるいは帰省のダイアモンドフェリーに乗るために何度も走った道なのだが、ここのところすっかりご無沙汰だったので、懐かしいような新鮮なような気分に浸れた。ただし往時の元気は微塵もない。171で現場まで行くか阪急西宮北口辺りまで輪行するか迷ったくらいである。以前と変わらないのは走って楽しい道ではないという現実のみである。
昆陽西の辺りでは旧道へ入り込んでみたりもした。大したものはなかったけれど。焼肉特急は幸福駅から始まらないほうがよいのではないかと思った。食えば食うほど至福に近づけるほうがいいに決まっている。食うほどに飽きがきて幸福から遠ざかるような焼肉は(たとえそれがよくありがちなことだとしても)あまりうれしくはない。
広田村はまったく新しい住宅街になっていて、それは航空写真からもわかっていたけれども、これほど何も見つからないとは思わなかった。古い煉瓦、というものからして無い。唯一「K1」を見つけられただけだ。それとて戦前を少し遡れるだけで、なおかつたった一個の存在だったから、そこから何かを引き出すことも難しい。
その周辺の町々も少し入り込んでみたがほぼ同様である。シャレオツな住宅街ゆえ新しい煉瓦はたくさんあるのだけれども、目指すところのいびつな手成形煉瓦は一つも見い出すことができなかった。百年前の工場なのだから、何の消息も残さずに消え失せていても不思議ではなく、一概にそういうものと考えるべきなのかも知れない。勝部だってそうだった、多数見つかったあれは紡績工場由来のものだ。
そこから西宮北口駅へ向かい、阪急に乗って、大阪を横断して茨木市へ。上中条にあったはずの三島煉瓦の痕跡を探した。そうしてこれも失敗に終わった。やはり百年前の(略。
茨木市は何かありそうで何もない街である。これまで何度も煉瓦探しに訪れたけれども全く収穫がないことばかりだった。今回はそんな雪辱を晴らしたいという気もあったので、これまで以上に徹底的に歩きまわってみて、なんとかかんとか発見をすることができた。
例えば江州煉瓦。府下では吹田が南限だったので茨木で見つかるのは不思議ではないけれども、検出は初めてである。茨木ではもう一つ江州煉瓦を検出している。よほどの浸透圧と考えねばならぬ。
その近くではこんな耐火煉瓦を目撃。いかにも赤煉瓦っぽい色合いだが三和耐火のSTRとSKグレード30が刻まれておる。
以上2個の煉瓦があったのは梅林寺の北側だ。梅林寺は以前来た時には全周が煉瓦壁だったように記憶するのだが、久しぶりに再会してみると大半が塗り込め直されていた。残っているのは北面のごく一部だけだ。
三島煉瓦の工場は茨木町上中条に所在していたことになっているが、明治29年頃から34年頃までと操業期間はごく短い。上中条の全域を歩きまわってみてもこれといって古煉瓦が多いわけではなかった。明治頃はこの一帯は水田であったようだから無くて当然なのかも知れぬ。
そんな上中条でたった一箇所残っていた煉瓦溝に興味深い煉瓦刻印を発見。推定塔本の五稜星である。
この刻印は淀川以北ではまだ見つけられていなかった。十三辺りでも未検出。それがぽつんとここにある。そうして同じ煉瓦溝に
ちょっとわかりづらいが江州煉瓦の機械成形。それ以外にも無刻印の質の違う煉瓦がまぜこぜに使われている。察するにあちこちから取得してきた再生品を使ってあるようである。少なくとも三島煉瓦=★ということは無いだろう。
その後南下して大手町のほうまで行ってみた。茨木は古い民家というものからして少なく、水回りに煉瓦を使っているような家も稀で、そんななかでようやく目にした民家の煉瓦基礎に
和田煉瓦の「ワ」らしいものを見つけることができた。かの特徴的な、ゴシック体というかじゅん31というかな感じの「ワ」である(モルタルをかぶっていて右辺~下辺が見えないが1・2画目から間違いなくゴシック「ワ」とわかる。それほど特徴的な刻印なのである)。
そんなこんなで一応は収穫があった日曜日。暑くて悶え死ぬかと思ったが帰ってとろろうどんを食して復活した。懸案だったザックの洗濯とゴア合羽の撥水加工も執り行ってさらに実りを得たのであった。うん、こういうのが本来の日曜日の過ごし方のはずだ。
過日近所のインドカレー屋での経験。その日のその時間帯は家族連れが多く、私が食べている間にも一箇の家族が会計を始めた。その中に混じっていた小学校低学年くらいの女の子が、ほぼ同い年と思われるきょうだいに「あ、ネパール」と言ったのが聞こえた。レジ横に張ってあった国旗を目にして、それで何気なくそう言ったのだろう。
皆さんご存知の通り、インドカレー屋とはいえ必ずしもインド国籍の人がやっているわけではない。ネパールやスリランカから来てインドカレー屋をやっているところは多い。行きつけのカレー屋もそんなカレー屋である(名前からして「タージマハル・エベレスト」という。じっくり考えてみると何だかナアという名前である)。
それ自体は何ということもない事態である。問題はその後だ。私の隣に座っていた別の家族の、ちょうど先ほどの女の子と同い年くらいの男の子が、聞こえよがしな独り言を言い出したのだった。曰く「ここはインドや。ここはインドや」。そうして大仰なため息をひとつついた。
何とも心地が悪かった。男の子は最前の「ネパールだ」という呟きを聞き、それを間違いと思い込んで、それを正すつもりで独りごちたのだろう。インドカレー屋=インドという短絡的思考に囚われていて、自分が間違っていることに気づかないでいるのだろう。そのうえに聞こえよがしな独り言でその誤りを(誤りではないのだけれど)正したつもりになっているわけである。
それが腹立たしく感じられたわけではない。自分も同じようなことを子供の頃にしていたような気が、記憶の底のわやくちゃになった辺りから急に呼び起こされた気がして、それで心地悪くなったのだ。自分が今もし同じくらいの子供だったら同じことをしたかも知れぬ。そうしてみたい気分が確かにする。それに気付かされたので、ひどく居心地悪くなったのだ。
過去にした具体的な言動を思い出せなかったのは幸いであったかも知れないが、そのかわりに、今も似たようなことをしてるよなぁ、と思い至った。ネット上で見かけた誤った情報に対し、直接その誤謬を正すようなことをせず、まるで独り言のように(自分の正しいと信じている)正しいことを書き散らしているではないか。正しいと思うことを本当に正しいかどうか判断してもらえるような場に提示したりはしていない。ただ自分の考えを垂れ流しているだけである。そうして勝手に「ここはひどいインターネットですね」と嘆息している。まるで同じではないか。
ORJという形で世に問うてはいるけれども、その「世に問う」機能が全く形骸化していることは言わずもがなで、5点満点だったからOKなどとは微塵も考えていない。要するにここで書いていることの延長線上にあるとしか思えない。客観的に見てみてもね。書き手が減ったことよりアンケートの返事がほぼゼロになったことよりもその点改善できてないことに最も心を痛めているけれども、それを書いてみたところでどうなるわけでもなし、むしろかえって件の男児の呟きに近しいものになってしまうのだった。
おっと、そういうことを書くために独言し始めたのではなかった。「人は何故そのようなことをしてしまうのか」を考えようと思って書き始めたのだ。他人の間違いを無視していられないのはなぜだろう。誤りを指摘してしまいたくのは何故だろう。そんなことを考えさせられたのだ、件の発言に。
思うに、男児のようなケースの場合、誤りを正すことが主目的ではない。自分の知識が正しいのだと主張すること、すなわち自己を優位に保ちたい、他者より勝っている自己でありたいという欲求を満たすために事に及んだのだろう。そしてそれは件の男児がそういう男児だったからではなく、人間誰しも持ち合わせている根本的な心理の一つであって、その欲求を満たすもっとも簡便かつ確実なやり方として他者の誤り訂正、悪く言えば「あげつらう」ことが採用されがちなのではないか。
件の男児に心地悪さを感じたのは、それが直接対決でなく「自分だけは『自分が優っている』と思い込んでいる(うえに間違っている)」辺りに起因する。堂々議論の対峙ではなく負け犬の遠吠え的捨て台詞的言動であるところに嫌悪感を感じるのだ。わざとそんな言い回しをして「『嫌悪感を感じる』ではなく『嫌悪感を覚えるだろ』という突っ込みを待つ気にもなるのだ。
実際他人のアラはよく見えるが自分自身の間違いには気づきにくい。例えばの話、自分だけで誤字脱字を完全に無くすことはできない。どんなに見なおしたつもりでもつまらぬ間違いが残っていて、それでいつもTUKAさんのお世話になっている。以前はそれが自分の能力不足に因るものとして恥ずかしく思い自己嫌悪する種発点にもなっていたのだが、それも人間真理のひとつだろうと思うようにしてからは無駄な気苦労をしなくなった。TUKAさんだってあげつらうために指摘されているのではない。間違っていることに気づいた者の責任として間違いを指摘されているだけで、優位劣位はなおさら関係がない。
人の知らないことを自慢気に語ってしまいがちな心理の裏側にも似たような人間真理があるようである。誰も知らないことを知っている、ということを他者に優越する目的で他者に語れば「自慢話」になる。得てしてそういう自慢話は鼻につく。件の男児のように。だからといって「自慢話」にならぬように人に伝えることは難しい。なぜなら、他者より勝りたいという欲求は人間であること以前の、生き物の本能として欲求されているものだから。
そいつを完全に捨て去ることができたら、どんなに楽になるだろうか、と思ってみたりもする。自己を優位に位置づけようという欲求から離れて自己他己の意見をぶつけあうことはできないだろうか。近代初頭の科学の論文は(べつに悉皆読みこなしたわけでもないのだけれど)それに近かったんじゃじゃいかと思う。こんな現象見つけたんだけど何だろうね。こう説明したらうまく行きそう。いやいやこう考えたほうがもっとスマートじゃね? そんな議論を自己の利のためではなく「科学の発展」「世の中の発展」のためにやっていたように読める。そういう場になればいいなと思っていた。
まあ、たわいもない一児童の言動にさざ波を立てられるようなチキンハートじゃ、叶わないことだろうな。最終的な着地点はそれだった。そして帰って原稿の続きを書き「売間九兵衛の夢の跡」後編を仕上げたのだった。
自分が食べ終わったとき、件の男児の家族はまだ食事中だった。会計の時にどれだけネパールの当世事情でも聞いてやろうかと思ったか知れないことを正直に白状しておく。それは男児へのあてつけでもあるし、矮小な自分への戒めでもあるつもりだった。けれどもこうして書いてみれば、やっぱり男児個人へのあてつけでしかないようだ。そういうのだから世の中に無益な争いが絶えぬのだ。
人の知らないことを知っているという状況は、優越的であるのは確かだがしかし、淋しい状況でもある。人に話したところで(自身がそれを知った瞬間の心持ちが正確に・厳密に伝わることはないという意味で)共感を得られないだろうから。知り得たことへの感動をそのままに人に伝えることはできないだろうから。理解はされるかも知れないが「そのときの感動」と全く同じものを人と分かち合うことはできない。分かち合えば1以下になるのは自明の理で、だからといって水増しし誇張して語ってみたところでそれは虚しいだけである。一人でドアを閉めて心罠に顔挟んでなさいってこった。
●煉瓦製造業の警戒 煉瓦の趨勢は近来漸次に一変し一時一銭五厘内外なりし同品は昨今殆どその半価に低落すれども製品兎角に停滞し前途漸次不況に赴かんとするの傾向あるものの如しけだし今春来阪神地方を始め中国四国等の随所に続々勃興したる同品の製造会社は数十の多きに及びて其差額頓に増加したれども其需要は近時却て減少するの傾向あるよしさては昨今の不況を見るに至りしならんされば営業者中には此程よりその製産額を減少して前途の警戒を怠らざるもの甚だ多しと云う近時セメントの趨勢漸く一変せんとするに際し煉瓦製造業の景況既に斯の如し当業者が此際に処するの用意頗る周到を要するものあらんと語るものあり (大阪毎日新聞M30.11.14.3面)
日が昇る前から動き始め、日が落ちるまで歩き続け測り続けた一日。もし風が強かったら深山第一と大川山堡塁くらいで済ませようと思っていたのだが、幸いなことにほぼ無風で、無事?友ヶ島に渡ることができた。そうして第二砲台→第一砲台→第三砲台と回って(各所で十数個計測✕3ずつくらいして)、第五砲台に行くつもりが野奈浦に直降りしてしまって、改めて第五砲台→また第三砲台→15:30の臨時便で加太に戻る。最終便まで残らなかったのは「測るべきところを全て図り切った」からだった。おまけに野奈浦の厠まで測ったりしてさ。
そうして加太から深山第一まで歩いていって。深山でも10個セット✕3をやり(附属砲台まで行ったったよ)、そこから男良谷に降りて探照灯隧道を測り、さらに登って深山第二の唯一の忘れ形見を測り。いったいいくつ測ったのかわからん。しかも厚はノギス計測。馬鹿である。
帰りの加太湾の夕焼けがきれいだった。日が落ち切った後の余韻の夕闇が、特に好きだ。
第三砲台でYoutubeにあげる動画とやらに写り込んだらしいんだが収入を分けてくれることもあるまいと思い好いようにしてもらった。第二砲台では蝿が煩いと思っていたらドローンだった。なぜ人は、目の前にあるものを自身の目で見ようとしないのだろう。見て考えようとしないのだろう。蝿る映像から本質を読み取れる人がこの世に何人もいるとは思えない。
第三砲台の砲側庫壁は尺寸で作ってある。メートル準拠の設計ではない。扉と入口との間は尺寸でもセンチでもフィットしないうえに砲側庫ごとに1〜2センチ違ったりする。しかしおおよそは7寸5分✕3前後すなわち22.5寸に想定されているようだった。これはかなり、判断に迷う。目地を無視して7.5寸✕3とし、それより短い煉瓦を使って目地分を稼いだように見えなくもないが、扉金具の受け石は7,5寸であったし、7.4寸の並型だったとしても1分強しか目地が取れないことになる。そのうえ長手列には端を削って短くした煉瓦が使われている(特に扉側の端のやつ)。そうした上で縦目地は明らかに横目地よりも詰んでいる。無理栗押し込んでいるというべき作りになっている。
結局のところ長手は大いに変動するのだから寸法を固定してそれに合うようカットして嵌めていくことが大前提になっていたのかも知れない。多少無理があっても7.5寸✕3としたほうがまだ積みのイメージが湧きやすいだろうと思ったりもする。
二度目に第三砲台に行った時にはカットされた煉瓦ばかりを選んで測ってみたりした。7寸2分くらいのものもあったが7.5寸前後でカットしているものも多かった。○寸の煉瓦を使うという規定に合わせてカットしたというよりも、その場その場で合わない煉瓦を適当にカットして使ったもののように読め、そういうカットがごく普通に、苦もなく行なわれていたらしく思われる。ただ例えば7.7寸を7.5寸にカットするとなると6mm削ることになりそんな薄いスライスが可能なんだろうかと思ったりしないでもなかった。これは多分表面だけ綺麗に削って内側は適当に誤魔化してあるのだろう。切れてるチーズのごとくにスライスする必要はない。ガタガタになったとしてもモルタルで埋めてしまえば終いだ。
昼の弁当にエビチリが入っていたのだが一つ食べたところで気づいてしまった。まあええかと思って全部食べたら案の定蕁麻疹が出て痒い。困ったことである。まあ、米にも小麦にもアレルギー反応出すようなポンコツなんだから何食べても同じような気がしないでもない。どのみち食う前から少し出てたんだし。
さてさて、いつになったら治ることやら。気にしているから酷くなるようにも思われるんだが気にしないでいろというのもなかなか難しいことだ。あとこの蕁麻疹が治らない限り新型コロナのワクチンも打てない。壊れた免疫系にワクチンなんぞ打ったらどうなることやらだ。やってみる価値もありそうではあるがその前にどっかいっちゃった予約券を探しだしてこなければならずそれがまず面倒臭い。よだきいで人生の半分以上を無駄にしているnagajisである。
Before...
_ nagajis [are,そうでしたか.]
_ nagajis [JIS男まだ入ってます>bnb206さん]
_ bnb206 [食べ物か飲み物を入れてあげてくださいお願いします<(_ _)>]