nagajisの日不定記。
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ウェーブってなんだ…。
そうだ、宮津、行こう。というつもりで用意していたのに寝過ごしてしまって無為になった昨日から本格的に書き始め、一巡目が終わり現在二巡目前半1/3まで。日曜日は仕上げたいところ。
長くなるようであれば後編一本ということになるかも知れない。小ネタに丁度いいサイズのネタが思い出せない(石アーチ橋を旧橋に分離しようかとも思っていたがそうまでして記事数を水増ししなくてもと思う。内容的には十分いろいろを突っ込めている筈)。
自分の記憶というものがかくもあてにならないものだとは。一巡目は記憶だけで書き、二巡目で写真や資料と突き合わせて訂正書きしているけれども、その訂正書きの多さと範囲の広さといったらない。白黒逆転していたりもする。2002の長旅の記録は忘れてしまっていても仕方ないが、つい数カ月前の記憶さえ間違ってることが多いのはちょっと問題だと思う。
止むに止まれぬ事情によりアカウントを復活させたが、その件に関係することがら以外は書き込むことはまずないだろうと思われるので、なんかいいことあるかも知れんと思って友達申請された方には(そういう人がもしいたらの話だが)申し訳なく思う。これ以上データの在処を分散させたらわけわらんくなること必至だしいろいろ書きづらいじゃんFacebook。nagajisのぐだぐだな愚痴と韜晦塗れの言説と直交座標が有無を言わせぬpush送信で送りつけられるなんて、考えただけでも反吐が出る。速攻ミュートする。
あ、でも、煉瓦師見習ちう肩書きは我ながらいいと思っている。こんどこっちに引っ張って来ようかしら。
あちらを立てればこちらが立たずで苦労するであらうというご神託。なるほどこういうことかと思う。それはおみくじによって与えられた今年限りの試練なのではなく、常日頃からどういう場面でも起こり得て、心労の種になることが多いことのひとつに注意を向けさせてくれるのがOracleなのだと思う。心を鎮めて私欲を捨てよ、と解決方法まで賜っている。そうそれが一番穏便で正しい対処法なんだ。そこで我を通せば通した分だけ身が痩せ細るだけ。得るものは戦ったんだという偽満足。風任せに生きるんじゃなくて風を受け流す葦の葉のようなしなやかさが必要だ。そう意気込むまでもなく、ひらりひらり。
水曜日の問い合わせ、および火曜日のお尋ねにおいて、新年早々様々な利便を賜った。有り難いことだ切ないことだ。今年からは御礼のハガキくらい出そうかしら、と思ったりした。貰ってばかりじゃ申し訳ないし、それが即まともなOutputに繋がるわけでもないのだし。
↑は心境変化の転換点としてメモしておいたほうがいいかもよ>nagajis。そういう真っ当なことを積み重ねていけば少しは人間に近づけるんじゃないか。
ああ、宮津、行きたいなあ。大野再訪したいなあ。
珍しく普通の話題である。月曜日はパートさんが斃れ、今日は主任が斃れ、と明らかに感染が拡がりつつある。インフルエンザをこれほど身近に感じるのは何年ぶりだろう。いつもニュースで聞くばかりで流行に乗り遅れている、というか流行に乗る気さえないnagajisなんだが今回ばかりは遅れを取らなさそうなカンジである。しかし今死ぬのは困る(by漱石先生)。全てが停滞する。内全怨嗟。