nagajisの日不定記。
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「終わりの日は近い」系の看板かと思ったらそうではなかった。読み解いていくうちに「入庫」が弄るべからずな貴い言の葉のようにさえ思えてきて、一周も二周も旋回した奇妙なポテンシャルを覚えたことだった。
指先は相変わらず痺れているし足などは椅子に座っているだけでも違和感なので何とも御し難く今日は不貞寝することに決めた。
前回の原稿で明神口橋を見下ろした時に覚えた感情をうまく説明できず宿題とした。あの感覚はとても大事なものだと思い、もっと丁寧に書かなくてはならぬと思いつつそれができなかった故に逃げたわけである。見ず知らずの昔の人の感覚と<全く>同じ感覚を覚えたに違いないという発見。それはいい。それが廃道探索ならではのものであり探索の醍醐味である、文書では決して伝わらない感覚というものを知覚することこそ廃道歩きなのだ、といったようなことを書こうとして断念した。その発見がnagajis史上初といっていいくらいの鮮明なものだったということが原動力となっているが何かがとても不足していた。過去と変わらぬモノを見、同じ<ような>感覚を得ることくらいなら廃道を歩くだけでも構わない。過去の道を、過去の人とほとんど変わらぬ感覚で歩くことはいくらもできる。が廃道は厳密には過去の姿そのものではない。草木が生い茂り道が崩れ落ち雑草が育って姿を変えている。その草生した姿は過去の人は見ていない。線形は変わってないにしても道幅なんかは変わっていそう。故に廃道だけから全く同じ感覚を得ることができぬ。明神口橋は当時とほとんど変わっていない故に同じ感覚を得られたのだと思う。同じ感覚を得ることは楽しいがもしそれを主目的にしてしまうと感じられる機会はひどく限られてしまう。旧県道のような特異な条件下でならなくなるわけで、だとすると廃道の専売特許というわけでもなくなってしまうのだった。そのへんに論の無理がある。
なんなら廃道でなくったっていいわけである。その感覚を知れさえすればいいのなら。美術館で明治の彫刻なり絵画なりに触れたっていい。廃道は余計なお膳立てがない生提示という点が優れているのみ。
昔の人の感覚を再現する。追体験する。追体験という言葉もちょっと合わない気がした。意味的にはそうなるのだろうけど、何というか、没入感が足りない。それそのものになりきってみたい。現在に身を置いておいしいところだけ楽して取ってくる、みたいな感じがある。あの瞬間はそうじゃなかった。過去になり切って、過去の人になり切って見ている自分に気づいてハッとしたのだ。先にいろいろ書いたけれどもそのような没入観は廃道を歩いていたからこそなんだと思う。より近づけるのは間違いない。そこを本当に「廃道でなくてはならない」と思わせるような書きようがあるはずなんだ。それが伝われば、それに則って歩いてくれたら、きっと廃道歩きの本質的面白さに気づいて貰えると思うんだ。悲しいかなその才が足りない。気力も不足している。
理解してもらってどうするの?と思わないでもなかった。本質的に私は誰かを訓導するような物言いはしたくない。そういう器でないことは誰よりもわかっている。だとすると結局、自分がどれだけ面白く思ったかを可能な限りの言葉で言い表して共感を求めるしかない。しかしそれも限界を感じている。ふだんから共感を求めていないものが急に共感共感言い出したって誰もresonantするわけがないだろう。「伝わらない」だろう。結局のところ体のいい身繕いでしかねえ。てなかんじで自分の生き方の根っこにも絡まってくるわけでさ。
共感してもらえなくていいから、とにかく、この場で感じた感覚を余す所なく書きたい。そこから何かが伝わって「旧感覚への没入」の面白さに気づいてくれる人がいれば。「面白さ」という語もなんか違うのだ。それはとっても素敵なことなんだ。知ればきっとものの見方ががらっと変わる、興味を持てることが世の中に溢れかえりあまりの多さに謙虚にならざるを得ないかわり生きるのが少しは楽しくなるというか本質的な生き方ができそうな勢い位のいいことなんだと思うのだ。ああそういうことに気づいた人が宗教家になったり宣教師になったりするんだろうなというような。いまの世の中にはそれが透徹して欠けている。気づいてくれたらもちっと世の中平和になる。きっと。「思いやりの心」は近いけれどやっぱり主客の関係を免れない。その人そのものになり切って感じること。もしかしたらそれが「父母未生以前の自分」なのかも知れぬ。禅的悟りの境地なのかも知れぬ。