nagajisの日不定記。
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最後の最後で調子に乗って弁解ドビュッシー聞きながらやり始めたりしたものだからドタバタした。そのせいであるという弁解。
ドンキで売っていたどん兵衛焼うどん担担花椒仕立を食おうと思って流しに置きっぱなしにしていたポットに水を足しぐつぐつ沸かしてさあ注いでみれば、最後の最後に「ポロン」と蝿が出てきた。もちろんすっかり茹で上がった蝿である。蝿を茹でた湯をどん兵衛に注いでしまったわけである。
一瞬どうしようかと悩んだのだが、茹で蝿だけ取り除いて、何事もなかったかのように作業を続行した。どうせ湯の大半は捨てるのだ、という判断である。大いに間違っていることは承知している。
蝿を茹でた湯であったためか、それともこのどん兵衛のアクが強すぎたのか、どうも腹が落ち着かない。痛いとか滲みるとかいうのとはちょっと違う、不整合を形にして腸に詰め込んだような違和感がある。胃はどうもないのである。まことに不思議なものである。おそらく蝿入であったことに気づいていなければこの不快感もないのではないだろうか。気づいてしまったが故の不快感なのだと思う。
かと思うと、飲み差しの缶コーヒーを口に含んだら若干の黴を口内で検出したりした。誤って少し飲み込んだようにも思われる。そうしてさらに膨満感を増す下腹部。
ほんとに書きにくかった今号の記事。妙なものを見つけてしまったものだ、転載的に記事にしてどういう効果を望もうというのか、と悩みながらちまちま書いたものだからすっかりアレな出来になってしまった。
失われたものを惜しむ側の「惜しい」の気持ちを書いた文章は、波長がぴったり合わない者にとってはかえって苦痛であったり忌避の素になったりするのだなと、読みながら思ったことだった。できるだけ冷静に、中立的に書こうとされているので、かえって行間に目が行ってしまう。文字になっていないところにどれだけ憤怒が隠されていることかと思わずにはいられない。それをフィルターで漉したのが今回の記事。
市政の側と市民との対立、食い違い、反発。法の遵守と市民感覚の尊重。なんでこんなにすれ違うのだろう。行政は行政で、おそらく、「こうにしからない」という諦めがあったろうと思う。いわゆる市民感覚とは相容れない形でしか依頼できないし回答もできない。担当は一人の人間であっても背後に市政があることを常に考えていなければならない、ある意味市政を代表する、窓口というか、多面体の一面であることを自覚して発言しなければならない。その発言を個人の感覚で行なうのは多分違う。内部でコンセンサスを取って根回しして交渉して譲歩しての末の結論が市民には降りてくる(べき)。とすれば八方美人か右顧左眄な言辞にしかならぬではないか。
市民の側は気楽である。自分の意見すなわち市民の意見である(市民を代表する意見ではないとしても)ので好き勝手言える。
互いに、思いやりが必要だな。あるいは最初から行政をあてにしないで市民だけでちゃっちゃか進めてしまうかだ。「街の遺産」にはならんかも知らんがモノはそのほうが残るかもしれん。
色々反省点はあるが、「賢くありたい」と言う下りはそれなりに過不足書くことができたと思う。普段ぼんやり思っていることを端的に言い表せたときは胸がすく思いがする。たとえその考え方が社会的に間違っているものだったとしても(てか大いに間違ってるはずなんだな)それで行く気になれる。自分で自分の手綱を引いているようなものかも知れない。
私が絡んでいるSLの保存修復は行政に頼らず、まず地元の人が中心になってコトを起こす(修復する)して、綺麗にして見せたら、行政が追認的にバックアップが入った事例もあります。<br>それ以外にも地元の人が複数で市議会議員を絡ませる方が進んだ場合もありますが。