nagajisの日不定記。
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日銀京都支店地下の桜刻印が一体どこのものなのか突き止めようとして混沌としている。
境界条件1:M39竣工
境界条件2:新聞記事では内装外装とも大阪窯業が煉瓦を供給
境界条件3:該煉瓦には機械成形痕がある
M40初頭に大阪窯業は和泉煉瓦と岸和田煉瓦を買収して自社工場とした。大阪窯業と和泉煉瓦はその前から緊密な関係にあったらしくM39秋には大阪府下煉瓦製造業組合の代表として大高庄右衛門と和泉煉瓦取締役・日吉端が満韓へ視察に行っている(『大日本窯業協会雑誌』)。そんななので
仮説1:和泉煉瓦=桜型刻印であって、和泉煉瓦買収直前に同社が成形機械を導入してた
と考えてみたが
仮説1の否定1:工場通覧M40などには和泉煉瓦の動力採用の痕跡がない。
載るか載らないかのギリギリであった可能性を検証。『大阪窯業五十年史』にはM40に両者を買収しただちに窯と機械を据え(各工場に2台ずつ)、結果「半乾式、湿式合わせて8台の成形機械をそろえ」大量生産体制が整ったとしている。この8台というのは大阪窯業全体を合わせての数らしく・・・和泉煉瓦→岸和田工場に2、貝塚煉瓦→貝塚工場に2、堺工場に4らしい。M42日本工業要鑑では堺工場に4、岸和田に3、貝塚工場に2となっている。岸和田の+1は50年史にはないが、この頃岸和田煉瓦を増強したとある故その時に持ち込んだものだろう。T2窯業協会雑誌の倉橋の報告ではこの数になっている。ついでに半乾式は堺工場の1つのようだ(後の日本工業要鑑)。つまるところ和泉煉瓦時代に和泉煉瓦工場に成形機械は存在しなかった。
といったことを考えているうち、和泉煉瓦の社長は中辰之助であり熊取の中家住宅の主であることに気づく。中辰之助は大阪窯業合流後に監査役や常務取締役をやったりしてる。中家住宅の壁に大阪窯業の舗装煉瓦があるのはそのためであって、共使いされている三ツ矢刻印煉瓦も中辰之助の和泉煉瓦である可能性が高くなる。
のであるが、和泉煉瓦はそもそもM30頃成立の桃山煉瓦と泉北煉瓦が合併して出来た節がある(桃山煉瓦の専務取締役石井鉄太郎、泉北煉瓦の誰だったかが泉煉瓦の役員になっておる。その辺から溜まっていた不良在庫の一掃セールだったとしたら?
あの刻印を桜と見て良いものかどうか、と思ったりもした。かの花弁型が桜のモチーフだという認識は果たして明治初期からあったものか。梅は丸花弁、切れていれば桜花弁と考えるのは近年できたコモンセンスでありはしないか。実は桃の花だったりしないか。桃の花=桃山煉瓦という想像。京都の有名な桃園の花は必ずしも切れていない。しかし仮にそうだとしたら桃山煉瓦はM39頃には存在していないわけで元の木阿弥である。