nagajisの日不定記。
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舞子からの帰りがけに、探査が手薄だった長田区か兵庫区の辺りを歩いてみようと考え、何の気なしに板宿までの切符を買った。そうして東へ向かっている最中に月見山駅で特急待ちとなり、ふと気が変わってそこから歩いてみることに。月見山周辺や「須磨の穴門」の辺り(東須磨)もまた最旧版地形図の時代からの繁華街である。
東須磨からは天井川に沿って南下し、駒ケ林へ。なぜ駒ケ林へ向かったかというと、単にそこが大きな住宅密集地だったから、という以外にない。神功皇后の征韓にまつわる伝説があるとか遣唐使船の船継所だったとかいう話は探索し終えてから知った。
大変興味深い町である。旧市街は浜に沿って東西に伸びていて、端から端まで旧い形態の街区が残っている。高密度に並んだ家並み、民家と民家の間には細い路地が縦横無尽に伸びていて---人一人通るのがやっとというような、路地と呼ぶのもおこがましいような通路も多い---、中にはそんな通路で四方を取り囲まれた家もあったりする。そして古い家も新しい家も基本的に垣根がない。まさに家と家との間をすり抜けていくようなところが多い。
こういう家並みは古くからある漁村に多いような気がする。和歌山の加太とか、湯浅とか、舞鶴湾の北面の集落とか。できるだけ路地を多く、しかし高密度に家を寄せて建てるべき理由があったのだろうか、それが漁村のセオリーだったのだろうかと思ってみたりしたけれども、仮にそうだったとしても理由が思いつかなかった。風通し・風当たりに関係するものだろうか。建物を離して建てるよりギリギリまで寄せて建てたほうが集落総体として風に対して強固になりそうな気がする。軒下を吹き上げられて屋根が飛ぶということはないだろう。浜辺の街は台風の時などは特に影響を受けそうでもある。
漁村ならではの労働形態に起因するのかも知れない。通路が多ければその分各々で浜に出やすくなるよな、と思ってみた。しかし漁村の労働と農村の労働はどちらがより集団的なのだろう。曳網などは大勢が加勢しなければなし得ないが、普段から曳網ばかりというわけでもないだろうし、小舟で個々に沖に出ることも多かったはず。ただ魚をさばく場とか寄り合いの場とか、船溜は最たるものだな、そんな公共の場は漁村のほうが多かっただろうと思う。そういえば井戸のある家はほとんど見なかったな、庭からしてないのだから。井戸も共用であったのだろうか。
細路地は水道管やガス管の埋設に利用されているのが多かった。そういうものを埋設するとますます境界を変えられなくなる。路地の真ん中に壁を立てて敷地を二分するなんてことができなくなるからな。と考えた時に、この街の形態が保たれているのは都市部に近くて比較的早い時期に水道瓦斯が整備されたことが関係しているかも知れない。そのせいで街区が改まるタイミングを逸したと。新しい都市なら幹線道を通してそこから枝分かれさせれば済む。道を基準にして街を作れる。駒ケ林は人住ありきで始まり発展した集落なのだろう。
それを考えると、都市部でも似たような町並みはある。キタの中崎町とか玉造の中本町とか。泉南の鳴滝も似たようなところがある。必ずしも海辺の街だけに限らないのかも知れぬ。ただ都市部のは長屋が建ってそうなったような向きがないわけではない。駒ケ林は基本的に一軒家の連なりだ。
いろいろ考えてみたけれども答えは得られず。とにかく駒ケ林には数多くの煉瓦があり、煉瓦刻印も多数検出することができた。明治まで遡るような煉瓦は尠いが(貝塚煉瓦や岸和田の古めのものが数点あったくらい)、播煉や和田煉瓦、弘栄煉瓦といった、大正から昭和戦前期にかけての播州煉瓦がそれこそ掃いて捨てるほどある。その頃急激に都市化し、それが一度建て替えられて今になっているものと思う。阪神大震災ではあまり被害が なかったそうだが、それでも真新しい洋風住宅がそこかしこに混じっている。かと思うと倒壊した煉瓦壁の一部が残っている空き地?菜園?があったりもして。道を軸として考えた時の街のかたちは古いが、そこに乗っかっているものは千差万別で、それもまた面白い。
駒ケ林だけでなく、その周辺にも古い街区は残っていそうだ。どうも長田区というと震災のイメージが強すぎる。無事だったエリアも広いのである。