nagajisの日不定記。
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なんとはなしにラジオで聴き始めて最後まで聴き通してしまった。映像に気を取られることがなかった分いろいろなことを考えさせられて良かったと思う。
入場行進。205もの国と地域の解説は聞き飽きることがなかった。意外。初めて名を聞くような国も多かったし難民団のオリンピックチームがあることも初めて知った。国ごとに趣向を凝らした衣装だったようなのも楽しそうで、観客がいないので行進する人たちは寂しいだろうと思っていただけに救われた思いがした。
いろいろな小芝居があったようなのだけれどもさすがに解説だけではイメージし切れなかった。それぞれの脈絡もいまいちわからず。別々の何かが展開されていて、それがきれいそうだとか悲痛そうだとか想像されたばかりだ。冒頭のアスリートの挫折と復活は今回のオリンピックらしくてよいと感じたけれど。
こういうのはあとで動画でも見直すようなものでもないだろうし(何かを感じたとしてもリアルタイムで見た感想にはとうてい及ばないだろうし変質もしていそうである)、あって然るべきのような気もするし別になくてもいいんじゃないかと思ったりもする。それでも直前までグダグダしていた割にきちんと何かをしてくれたことは感謝のような気持ちを覚えた。
一番心を動かされたのは橋本聖子会長のスピーチだった。じっくり噛み締めながら聞いていると、この厳しい環境の中、無理をしてでも開催しなければならなかった理由がよくわかった気がする。世界中のあらゆる人種のあらゆる階級のあらゆる人間にとって、心を寄せひとつのことに集中できる何か、ってスポーツくらいしかないのですな。紛争をしている国々も、政治的に虐げたり虐げられたりしている国同士も、それとば別の「スポーツ」という舞台で平等に競い合い得る。中国からだけでなく香港からもチームを組んで競い合おうとしている。すばらしいことだと思う。そのことを自身オリンピアンであった橋本氏が語り、開会に漕ぎ着けられたことへの感謝を重ねていく声を聞いていると、オリンピックはスポーツマンの祭典なんだというごく基本的なことが身に沁みて理解できたように思った。
こんな状況下での無観客の開催となり、経済効果とか何とかが全く期待できない状況になったけれども、それはかえって本来的なオリンピックの意義の純度を高めることになったかも知れない。人間の能力の限界を追求し、同じ人間としてこんなすごいことができる人がいるんだと教えてくれるアスリートの、その戦いの場を提供し、最善のパフォーマンスをしてもらうことが、開催国の義務というものだろう。途中で投げ出したり止めてしまったりせずにここまでやってくることができたのはいち国民として誇らしいというかほっとしているというかな心境。そうしてその責任の大部分を背負って牽引してきた氏の言葉だからこそ共感を覚え「ご苦労さまでした」と言いたくなるのだ。
考えてみれば、スポーツほど多くの人が心を寄せ得るものはないかも知れない。ゲームもアニメも(多くの人の心を掴んでいるとはいっても)その影響の範囲を全人類にまで押し拡げることはできまい。「どれだけ早く走れるか」「どれだけ高く飛べるか」「どこまで精密に身体をコントロールできるか」みたいなことはどんな人間にもよくわかる指標だし、それに向かって挑戦してみることもできる。超人的にできる人=メダリストに対して覚える経緯も素直な純粋なものになりやすい。妬みやそねみではなく純に「すごいね!」「よくやった!」と思える。こういう気持ちになれる機会は、年を取れば取るほど減っていくものだ。
ゲーム音楽のアレンジオーケストラで入場行進だったけれども、任天堂ゲームがハブられているとかドラクエなんて日本ローカルな人気だとか何とかでいちゃもんをつけている層もあるそうだ。どうでもいいと思う。ドラクエのオープニング曲は、たとえゲームを知らなくても、何か壮大なことが起こりそうだという予感を感じられるいい曲だと思う。行進にもぴったりなリズムだし。なまじドラクエのオープニングだと知っているから余計な批評の気を起こすのであって、知らない諸外国の人々には普通のマーチ曲のように聴けたんじゃあるまいか。自分なんかは最初のそれがわかったのとFFの勝利のテーマのアレンジがわかった程度で、残り17のゲームなどわからなかったが、行進曲として不相応なところは感じられなかった。
あと任天堂はリオの閉会式で主役級の活躍をしてるからな、まるで日本代表企業かのような活躍ぶり。他に道を譲ってもよかろうもん。あの安倍さんが出てきた引き継ぎ小芝居は素晴らしかったと思う。たぶん全世界に伝わったはず。ああいうのを開会式にも期待していた時期もあったけれども……まあ最悪な状況下で落ちに落ちた底のところから仕切り直しているのだから多くは望まない。皆さんよくここまで持ち直してくれたね、と思う。
自分がこれだけ苦労|我慢しているのだから他の人間も同様の苦労|我慢をしてほしい、というかしなければならない、そうでなければ気がすまない、という人間が多い。自分という個の見地を基準にして他に何かを強いる人間が多い。主義主張ではなく、より高次の視点からの言説ではさらになく(そういうのは今度は「上から目線」といって反発される)。マスク警察とか自粛警察とかいうものが存在するのはそのせいだと思う。
コロナ対策でレファレンスは一人15分までとお願いされているのに「わざわざ2時間もかけてきたんだから」としつこく尋ね続ける老人を見かけて嫌な気分になった。自分の都合のみを優先し、自分がこれだけ苦労しているのだからと我を通す姿は決して見習いたくなるようなものではない。ああはならないようにしなければと思う。
これは日本人特有の性向なのだろうか。私の観察対象が日本人に限られているせいで「日本人は~」と感じてしまうだけだろうか。諸外国だとどうだろう。東洋では等しくその傾向がある気がする。アメリカは個人の権利として自身の思いを主張し通そうとする傾向がある気がする。ただしその場合受け手も同様に人としての権利を主張し議論を戦わせそうな気もする。感染症対策であることを懇々と説いて納得させようとしそうだ。日本はそこで「規則ですから」を拠り所にしがち。互いに平行線を辿るばかりである---だから公務員と一般市民みたいなステロタイプなイメージができるんだろう---。そこに気づいてなんとかしない限り双方とも不幸になる気がする。
必要なのは餘部駅ができる前後の2点のデータだけなのだが、せっかくなので大正元年から追いかけておいた。まるで鉄道マニアな出納で恥ずかしい気がしたがいずれ必要になるかも知れない。最初は日に4、5本だが昭和に入るともう2本くらい増える。夜行の急行も始まるようだ。これが片道なので上り下りを考慮すると通過可能時間は結構時間は限られてきそうである。その間に約2km歩かなければならない。1時間はかからないが30分では足りないくらいかな。