nagajisの日不定記。
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独語は英語よりやさしき事を思う。十四時より佐々木軍曹殿指導の元に体操を行う。十五時十五分より生徒監殿の話あり(明日の火災・防空訓練に付きて)その後棒倒しを行い、三年生を二人組仕〔敷〕く。面白かりき。十七時より入浴す。夕食後運動班の軍歌練習あり。音楽にて校歌を習う。
町田生徒監殿十四日十六時より十五日九時まで週番となられ〔トルツメ〕る
日朝点呼後七度あり。診断により劇動級〔休〕となる。音楽の末次教官殿今日始めて飛行機に乗られたると。七時限自習後下川生徒監殿訓話あり。特に衛生に就き話されたり。午後連続にて雨なり。体の工合も大体良く楽しき一日なりき。
教育総監山田乙造閣下の本校第四回御視察の佳日なり。八時三十分御来校になり直ちに閲兵、九時三十分より閣下御来場の下に修身授業あり。後授業。如何なる時にても授業を休まざるは校長殿御方針なり。食堂に於ける総監閣下訓話
敵前逃亡が効いたか? いろいろ詰まってきたぞ。
ともかく廃道巡の告知をトップに置いた。これは次号発行後も目立つ所に置いておくことにする。廃道本のときうしろに回しちゃったのの反省も込めて。
自分の担当コースは柱本の手堀隧道(芋谷隧道)、旧池田隧道、毛見隧道・鵬雲洞を贅沢に回ろうというもの。これだけで道路隧道の成り立ちがだいたい押さえられるというすばらしさ(ホントカ?)。個々の隧道の解説はもちろんだが道路隧道の成り立ちみたいなんまで踏み込んで紹介できたらいいなと思う。柱本・旧池田はちょっとした廃道歩きつき。実はおまけでもう一カ所回れたら・・・などと思ってみたりするが、今さら時間割変えたら怒られるよね。
実際のところ、ものの紹介はwebや日本の廃道でだいたい済ませてあるし、行って迷うようなところでもないわけで、ネットだけの情報で行って行けないところではない。そこをあえてツアーとするからには、参加して初めて得られるものがないといけないと思う。うまくいくかどうかは不明だがいろいろやってみるつもりでいる。
それからツアーとなると「持続的に」「商業的に」成り立つものでなければならないという制約があって、ここのところがいろいろ難しい。参加費はできるだけ安いに越した事はないのだけれど、バスを貸し切り、会社に利益があって、そのうえでnagajisがガイド料を貰わなければならず、したがって9000円前後という価格になった。もちろん挙行最少人数という制限もある。車の運転をすることも駐車スペースやガソリン残量に頭を悩ませる必要も昼飯の算段をすることもなく、案内に身を任せるだけで廃隧道マニアになれるツアーがこの価格と思っていただけるといいのではなかろーか。と人事っぽい書き方だが、こればっかりはnagajisひとりではどうにもならん話だ。ヨッキ氏のほうだけでも開催してくれればと思う。
そうしてこの忙しさは15日過ぎても続くはずなのだ。20日幹事会、21日資料取り、25日総会、までに作り上げてアレしないといけないうえにその後1週間行方不明になる。
廃道ツアーの練習プレ企画のつもりで、今週日曜日(19日)に六甲山でOFF探索をしてみようと思う。
対象は、兵庫県神戸市六甲山の有料道路跡と、ロープウェー跡。今でこそ縦横無尽に車道が開けた六甲山だが、その最初の登山道路は昭和4年に、いまの表六甲有料道路の辺りに開通した。またその沿線に阪急電車系列のロープウェイが作られた(六甲ケーブル、ロープウェイとは別物)。下の駅は六甲トンネル口付近、上の駅は郵便局の辺りにあったらしい。
昭和13年に大水害が阪神地域を襲い、最初の登山道路はこれでずたずたになってしまった。麓からロープウェイ下駅までは何とか復旧したが、より上はほとんど放棄に近い状況に追い込まれた。そのうえロープウェイは戦時の鉄材供給で休止。ロープウェイは以降復活することなく今日に至っている。
昭和30年代に表六甲ドライブウェイが作られた時、麓〜下駅は旧ドライブウェイを流用、そこから先は別谷に道路が新開されている。旧道沿線は(一度復活した節があるのだが)砂防ダムが作られて通行不能になっていたからだ。
ざっとネットで調べてみたところロープウェイの上駅は残っているらしい。ただ山頂道路側から接近するのは難しい模様。旧道を下から登ってみるのが万全かつ王道のような気がする。失われた区間のおおよその道筋は四万分一の地図(なぜか六甲縦走用の旧地図が手元にあったりして)にて把握済み。
コースとしては阪神御影(?要確認)または阪急六甲駅から六甲ケーブル駅まで市バスが使える。200えん。六甲ケーブル駅前に10時集合し、そこから歩いて山頂アタック。最初のほうは砂防ダムを乗り越え乗り越えして行かなければならず、結構アツい山歩きになるだろう(そもそも阪神大水害で大被害なのだし)。そうしてロープウェイ山頂駅で文字通りのくらいむ・まっくすを迎えるわけだ。どうだろうか。案外有名な道&廃墟だったりしてな。まあいいや、ボク知らないもん。
ついでにいうと、山頂からどうやって帰るか考えていない(爆
上記の地図といっしょに、音水林鉄に関する「ものすごく妖しい」地図を手に入れてしまった。「林鉄の軌跡」にもない線が記されている・・・。思い当たる節がないわけでもないが、いろんな意味で怪しさMAX。
音水、また行きたいッスよね。
大学時代の友人がおざなりのことをおなざりと覚え間違えていたが、廃道巡やKINIASやらで忙しいとはいえORJをおなざりにしたりはしないつもりのnagajisである。ホントだよ。
昨晩特濃!の初校をup。表紙写真と行ってきました!の投稿あり。さらに謎の自衛官氏の江若鉄道が入り、TUKA氏旧橋その2(ええもん出てきます)、おまけのnagajis熊野北摂TRDBがついてくる。ボリュームはそれなり。あ、廢毒もついてきます。例によって暫定だけど。
珍しく、忙しくなることを事前察知して進めておいたのが効いたらしい(自分の原稿に関しては)。しかし発行はやっぱり15日夜ということで。慌てても仕方ないしな。
〇
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http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784786/71
里道に立派な煉瓦橋梁があったという話.宮城県名取郡生出村.
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941563/153
近デジに日本登録商標大全が収録されているのだな.
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941558/100
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984219/29
最後の一つは大正初期~震災後の煉瓦の製造状況がわかって面白い.&,この頃鉄道でどれくらい運ばれたかがわかる.
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021049/416
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802718/513
丹治煉瓦、津守煉瓦の住所、だったはず。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/09-12-0042.pdf
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/10-01-0027.pdf
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/11-01-0041.pdf
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/11-05-0007.pdf
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/11-08-0023.pdf
大正9年旧道路法公布とともに大々的な国府県道改修を計画(おもに国道と軍事上重要な府県道)>尻すぼみになり関東大震災がとどめを刺す>T11郡制廃止で府県道の基準が緩められ有造無造の郡道が府県道になる>府県道の質の低下+T9の計画を完遂する意味でも府県道の充実が求められる>T15指定府県道制度。当初から1/3補助を念頭に置いていたが直ちには予算がつかず>S2産業振興に積極的な田中義一内閣成立>(田中内閣の意向を受け、S2~S3に各府県で大規模な改修計画が立てられる?)>S3、S4年度から「産業道路開発」の名目で府県道改修に補助を出す予算が成立(第56議会。対象は指定府県道)>みんな喜ぶ>S4暮れに田中義一内閣総辞職、浜口ライオン雄幸がその予算を削る>梯子を外された状態に>府県仕方なく無い予算を絞って工事続行。次に府県道補助の話が出るのは確かかS11(指定府県道告示)だったはず。
奈良県。S2に赴任した百済知事が道路に関して理解があり(<田中義一内閣の出先として。就任直後のコメント「道はきれいだが狭い」)、S3年度から15ヵ年で県内116里の2間道路を4間道路に改修する計画を立てる。6より償還。総工費726万円のうち1/3を国庫補助、2/3を県債で賄い実施の計画。 晒橋千石橋高橋旭橋がS5までに架け替え決定。 可決。千石橋は大正末に墜落・復旧が急がれていた(指定府県道ではないが下市・黒滝・天川方面の生命線)
しかし3年11月通常県会で昭和5年度までの3カ年に起債額92万5000円で行なうことに変更される。内務・大蔵省が起債3カ年を限度としたため。産業道路改修計画はその後(12月~翌年3月25日)。よってその計画に則った改修計画はつくられずに終わった。百済知事の後釜知事はヘタレ揃い。
百済知事の計画じたいはS4後も残っていたらしく、 昭和6年通常県会でS3至S20度国府県道改修継続年期並支出方法が可決しているほか、S7、8、9で月瀬橋前鬼橋等の架替の継続年度が審議されている。「百済知事の計画もあり」云々。むしろこの時期水害が立て続けに起こりその災害復旧に多くを費やしている(県債とか)。このへんは議会議事録読まないとはっきりしない。
S4年度の予算名目が「産業道路」改修となっていたせいで指定府県道=産業道路と見なされる傾向にあったらしい。産業に資するから産業道路ではなく指定府県道の別名で使われている場合があり注意を要する。「地方通信wiki」でも昭和3年から産業道路という名称が使われ始め戦前まで。「指定府県道」はS6から出てくる。「所謂指定府県道に就いて」のいわゆるが抜け切れないまま。
指定府県道になったからといってただちに改修されたわけでもなく、補助が改修を加速させたような感じでもないのだが、県のなかでの改修の優先順位は高くなったはずで、その改修に内務省の許認可が必要となり道路構造令に準拠した規格の道路になったと思われる。T12中の橋とS3以降の橋ではずいぶん差がある。ただこれも府県の心意気次第か。T11天辻隧道とかT13岩井橋とか大きいのあるもん。
地震で目が冴えたのちに眠って見た夢。夢の中ですごく眠い思いをしたという奇妙な夢で、自分にとっては初体験なので、殊更のように書いてみる。
探索ではない別の目的でトンネルのような研究施設のような場所へ来ている。場面はすでに現地なのだがそこまでの行程で精魂尽き果てたのか異様に眠くなり壁際に崩れ落ちてしまう。腕を上げるのも首を回すことさえも覚束ない眠さ。目を瞑ってうしろへ身を預ければそのままどこまでも落ちていって二度と浮かんでこないんじゃないかと思うほど眠い。そんな睡魔に倒れた姿勢で必死に抗う。腕を上げてみたり目を見開いてみたり。しかし一向に効き目がなく、重力が2倍増3倍増になったような眠さに覆い尽くされてしまう。
このまま眠ることができたらどんなに心地いいだろうと思った。普段思うように入眠できないくせに何でこんな時に眠くなるのかとも。しかし寝るわけにもいかない。車が来て轢かれるかも知れないからだ(そういうトンネルではないのだけれども。だいいち通路とは思えないほどモノが置かれている)。あおむけに倒れた状態から何とか上半身を起こし手近にあるものを押しのけて立とうとするが、そうしたいという意識も体を動かす力も睡魔が蝕んでしまって思うようにいかない。手近のダンボール箱を持ち上げることもできなかった。中には何も入っていないはずなのに重くて持ち上げられなかった。軽さを感じているにも拘らずそれに拮抗するだけの力が入らないのだ。眠い。ねむい。NEMUI。背中をどこかに預けて眠りたい。どうなっても構わないから寝たい。
そんな呻吟をしばらく続けたあげく、もうダメだと力尽きそうになる瞬間、「本当にそれでいいのか」と思い直した。また立ち上がろうとするが、相変わらず力が入らず。これまでか。
そこまで。結局寝てしまうことはなかったはずだが、どんな顛末を経て目覚めたのかよく思い出せない。ともかくも起きた瞬間に思いっきり背伸びをし手足が動くことを確認した。意のままに体が動かせることの幸せを噛み締めた。
今思えばあれなのだな、寝る前に風呂に入った時からそんな睡魔にやられていた気がする。頭を反らせばそのまま意識が遠のいて眠ってしまいそうな眠さに風呂の中で襲われた。あの時のぐったりした感じは一瞬であったけれども、それと同じものを夢の中でも感じ、悶え苦しんでおったように思う。あのまま寝ていたら風呂場で溺死できていたかも知れぬ。
昨日の憤慨はようわからんうちに世界遺産になったことへの不信感から始まってたんだった。そのへん書いてない。軍艦島なんか明らかにこじつけだもんな。そんな価値があるものなのかよう吟味されないまま無理矢理加えられたやつだもんな。で、多分国民会議やったんだから議論尽くしただろって言われる。胡散臭い胡散臭い。そういうやり方がまかり通るんだからヤな世の中だ。世界遺産なんてそんな程度のもんかと思う。根っこはそうじゃないかも知れんが日本においてはどっかで捻じ曲げられてるな。
あっ、はらがたわ峠の南の麓の道もそうだった。あのバイパス橋完成して沢沿い通れなくなったんじゃなかったっけか。もともとじめじめした感じのする道で半死半生という態だったからな、ちょっと趣旨とはなれてるかもしれんけど。まあよい。
_ やの [大阪万博の年家族で六甲山に行った折、「あの橋の向こうに昔ロープウェイの駅があったんやで。」と父が教えてくれたことを今でも良く覚えています。]