nagajisの日不定記。
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女学校時代の煉瓦壁。昭和13年(だったっけ)に作られたもの。ここには大阪窯業と岸和田煉瓦の刻印がある。どこにでもある刻印だからあまり気にかけていなかったのだけれども、よく考えたら手成形煉瓦なのだよな、あれ。昭和初期の煉瓦のはずなのに。
昭和40年代まで手成形で煉瓦を作っていた工場もあるから、手成形であること即ち古い証拠ではない(逆もまた然り。機械成形だから新しいとは限らない)。問題は、明治大正期に機械を導入していたはずの大阪窯業・岸和田煉瓦が昭和初期まで手成形もやっていたというところにある。そりゃそうだよな、機械一台や二台じゃ年間数千万個も作られへんやろ。職工数だって多いのだし。並行して手成形でも作っていたと考えるべき。とnagajisに言い聞かせるために書く。
この壁に使われている、松葉菱にイの刻印の入った煉瓦は機械成形だ。側面のツルツルさでも判別できる。柱に相当する部位の特に上のほうにだけ使われていて、そこだけ目地も違う。崩れたのをあとで補った(その煉瓦に松葉菱イ印刻印煉瓦が使われた)と見るべきで、昭和13年に松葉菱イ印刻印煉瓦があった証拠にはならないようだ。
といったことを今日気づいた。何度もしつこく見ることで見えてくるものがある、というよりも一発で見抜けないnagajisが間抜けなのに違いない。煉瓦は難しく、そして面白い。
中国地方に昭和初期に興った煉瓦会社も機械成形煉瓦に刻印を押したところが多い。そして片面にしか押されていない。○Mの松本煉瓦、◇Tの東洋煉瓦、◇中の中国煉瓦は片面だった。□SRKは縁石の一部なので裏側がわからないが、抑え板に印があったのだから片面にしか打たれなかっただろう(同じ並びに刻印の見えないやつがあったからそれが裏だったかも知れない。また今度見とこ)。
大阪府域の煉瓦刻印は裏表に押してあるのが多い。六大窯業はみな両面打ちだったような。両面に打ってあると平が露出していれば必ず見えることになり、それが「大量に分布している」と感じる原因なのかも知れない。両側に打つのはそれなりに面倒だったろうにな。ただでさえ煉瓦工場が沢山あったところだから、積極的にアピールしないと紛れてしまうという不安があってそうなったのかも知れん。
手成形煉瓦だと表の平のほうが綺麗に仕上がるから、平を見せて積む時は表を表にしたいところ。とすると刻印は裏だけにしといてほしい。しかし作る側にとっては表のほうが押しやすい。わざわざひっくり返さないと裏に押すことができない。そんな条件でありながら裏表押しているところに何か特別な理由があったはずだ。作業的にそのほうが楽だとか、別の目的でひっくり返す工程が必須だったとかで、「わざわざ」がわざわざでなかったとか。上記のアピールのために「わざわざ」だったかも知れない。
若井煉瓦の煉瓦は片面だった。堺附洲も片面だけ。「★」は両面にある。 ある時期を境に両面打ちに切り替わったようだ。明確に何年と線引きすることはできないだろうが。裏面に横筋が入っているのが共通項なら、製造手順も共通であったはずでーーー堺で焼き始めた頃から脈々と受け継がれてきた不文律の製造手順がーーー、それがどこかで両面打ちになったと想像すると、それだけで愉快な気分になる。いつ誰が始めたものなのだろうか。周囲は嫌がらなかったのだろうか。
あるべきものがあるべきところにあって満足。やはり「T」刻印は大正煉瓦であったようだ。いやいや…….「T」ではないのかも知れぬ.後日近くで「山」を見た.大阪の「T」刻印よりもその「山」のほうに近い.とすると山陽窯業の可能性大.
「大」字のバリエーション.これは大正煉瓦で間違いない.