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2013-06-29 [長年日記]

[煉瓦工場] 大正煉瓦阿弥陀工場@印南郡阿弥陀村阿弥陀

画像の説明地図は6月27日のエントリ参照。高砂市阿弥陀村阿弥陀(元阿弥陀村阿弥陀)、国道2号とJRとの間にあった。大正9年5月創業。

例のごとく出先でマップアプリが落ちてしまい、記憶を頼りに歩くはめになる。最初は阿弥陀1丁目のほうへ行ってしまい収穫なしで終わった。そこから見えた古い街並みをアテに、東へ。

画像の説明たぶん旧街道だろうという道を歩いて行くと、だんだんと煉瓦転石が見られるようになった。ふらっと入り込んだ路地裏ではこんな一角も発見。焼損煉瓦を敷き詰めた小路だ。こういうのがあれば間違い無く近くに工場があったはず、と思ってスキャンのdpiを上げると、「大」という刻印のある煉瓦を発見した。この辺りで大正煉瓦の阿弥陀分工場だったことを思い出した。

「大」刻印は文字を意匠化したものと、四角い判に太楷書で「大」を刻んだものとがある。後者は機械成形の煉瓦に押されていた。さらに歩き回った結果、別の路地裏で「T」刻印も発見。ここで見た「T」刻印は、テトリスブロックのようなゴシック体で、サイズも小さめ。一円玉を載せたら隠れるくらいの小ささだった。

その刻印を眺めつつ、どう撮ろうか悩んでいると「どうしました?」と声をかけられた。その家の方らしい。「し、失礼しました、煉瓦工場を探してたもので」云々。冷や汗をかいたが、そのお陰で工場の場所を知ることができた。ほぼ目と鼻の先といっていい場所、旧街道を挟んだ北側にあったのだそうだ(工場通覧にあった番地そのままの場所)。

その方曰く、今から50年ほど前までは残っていて、大きな煙突も立っていていた(その頃にはすでに営業していなかった?)。しかし台風で倒壊してしまい、それを機に敷地を片付けてしまったのだそうだ。

画像の説明

教わった場所へ行くと、センチュリーアミーなるマンションと、その駐車場と、いかにも新しい住宅街があった。煉瓦工場の面影は一切ない。……と思ったら意外にも跡形があった。マンションの上り口や駐車場の外周壁に古いレンガが使われていたのだ。どれも手成形で大ぶりな煉瓦。もとからあった構造を流用したものではなく、解体で出てきた古煉瓦を積み直して作ったものらしい。

画像の説明ここに「T」or「大」刻印があるに違いない!と意気込んで見て回ったのだけれども、見つかったのは「K6」刻印だった。平を見せて並んでいるたくさんの煉瓦の中の2つに「K6」がある。その他にチョボが3つ並んだ刻印(らしきもの)も見つかった。これは1つだけ。んで、「T」や「大」は見つからなかった。

ここまで歩いてくる道すがらで「K9」「K7」刻印を見つけていた。Kなんちゃらというのは大阪でも見たことがある。そのバリエーションが遠く離れたこの場所に、そこそこの頻度で分布していたわけである。

ちょっとばかし謎だ。工場周囲には確かに「T」「大」刻印が分布していた。位置関係からいっても大正煉瓦の刻印と見ていい。しかし大元の大正煉瓦跡地にはそれがなく、「K」刻印が存在しているという……。

今から50年ほど前ということは1960年頃だから、大正煉瓦が戦後に名前を変えてこの刻印を使っていたのかも知れない。大正煉瓦が興った頃、少し離れた所に弘栄煉瓦製造所という工場があった。弘栄煉瓦製造所は「ABC」という社章を使っていたらしいが(大日本商工録参照。Amida 村にあった Brick Company だからな)、それが戦後に大正煉瓦を買収して「K」刻印に変えた……とか何とか遠回りな想像をせざるを得ない。ともかく「K」シリーズの出処が印南郡にあった可能性が出てきたわけで、ちょいとばかし驚いたことだった。

(工場の建物に自社煉瓦を使ったかどうかは検討の余地がある。少なくとも最初の窯は他所から煉瓦を買ってこないと築けないはずだからな)

昨日のエントリに上げた「T」刻印は旧街道の脇の花壇に使われていた。十三で見た「T」刻印と一緒!と思っていたのだが、よく見ると若干違った。Tの横棒の両端にセリフがついていなかった。たったそれだけの違いだから、同じ会社のものである可能性のほうが高いだろうが、最終的な判断は曽根工場の周辺を見て下したほうがよさそうだ。

[道路元標] 岸和田市道路元標・熊取村道路元標

画像の説明画像の説明

画像の説明熊村の元標には「昭和四年十一月」ナントカと彫られている。最後にわずかに文字が見えるのだがコンクリに埋まっている・・・。そこが結構重要なのに。恐らく「設置」か「建之」だと思うが。

大阪府の元標位置告示昭和四年十月。なのでその翌月にはもう設置されていたことになる。大阪府統計書昭和四年版(昭和四年十二月末調)を見る限りこの場所を府県道が通っていたわけではないので(現府道62号泉佐野打田線に相当する佐野粉河線は郡道上がりの府県道だったが)、村が独自に設置したものだろう。この頃にはすでに各市町村に一つという大前提が有名無実化していて、府県道の通らない市町村は無理に置く必要がないと考えられていたかったはずなのだが、それでも&告示直後に建標しているところに、道に対する熊取村の思いを読み取ることができる。形式行政の陋と取ることもできようがそれはあまりにあんまりだろう。

岸和田市の道路元標は現役場別館脇の旧紀州街道の辻の角に建っている。この辻は昭和16年まで国道16号が通っていたから、国道の管理者たる府県知事(府県)が設置する必要があった。大阪市や枚方町と同じ設置者なら、道路の真ん中に埋まっていた可能性があるのだが、いまは辻の角に、さも昔からこうでしたという顔をして建っている。遅くとも昭和58年頃にはすでに「建っていた」らしい。


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