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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-06-28 この日を編集

[陸幼日記]六月二十八日 土曜日 雨

独逸語考査あり。佐賀市にては洪水なる為十名死したり。さぞ困るならん。午后は体力機能力検査の為、運動場に出で、雨に遭い、ぬれ復る。中止となり整頓検査あり。後一時間に渡り生徒監殿御注意あり。山羊を見、集会所へ行く。


1942-06-28 この日を編集

[陸幼日記]六月二十八日 日曜日 晴

約三十分の剣術を終え直に運動衣袴を着して校庭に出で七時三十分の朝食まで運動をなす。八時服装検査。午後二時半集会所に行きし他は殆ど意を学習に用いたり。十八時より軍歌演習、終に除草をなす。


1943-06-28 この日を編集

[陸幼日記]六月二十八日 月 晴

教授部授業改る。柔道考査にて、四人一組の試合(二本勝つ)・当身なり。試合最後に疲れて破る。之一に持久力の足らざるを物語るなり。最後までのがんばりにつとむ。良好。剣術に身入らず。


2007-06-28 Decrescend 綴はうろ覚え この日を編集

[企画] off会

大学は違えどサイクリングの先輩であるyanoさんが参加されることに。にぎやかな一行になりそうでなによりです。うちも受付連れて行こうか。

そうしてmultiさんの所の表記を間違えていた!!大変失礼しました。。。。

●現時点での参加予定(アイウエオ順)

あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、絹道氏、グロメク氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏、nagajis、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(満流智隧道)、yano氏(大教大サイクリング部OB)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)

さらに「索道線→鋼索線」の間違いでは?というご指摘をいただいたという連絡。確かに間違いだ。慌てて表紙をでっちあげ直す&本文修正する。カナは難しい。変に今風になってしまった。

[橋梁] しょぼーん

いいもの見つけたと思ったんだけどなあ。やはり今ある鉄道橋は知られ尽くしているのだろうか?でも、自分にとっては発見なのさ!

[懐古] 2002年6月27日

今現在のnagajisがどうであろうとなかろうと旅は続く。再びの腹痛と蕁麻疹に加えて食うものがないという三重苦にのたうちながら気がつけば朝。ロクに眠ることができなかった自分とそのテントを異様に濃い朝霧が包んで。幻想的かつ絶望的な状況の中、ほとんどヤケクソで越えたのが治田峠だった。

のっけの倒木。自転車を担いで道無き斜面を右往左往。諦めかけた所で発見した赤テープ。ヘロヘロになりながら沢を遡った。とはいえ沢にさえ降りてしまえば、もう、こっちのものだ。

沢は所どころで広い砂地を形成している。錆びてボロボロになったカメラが一つ、砂に埋もれているのを見た。古そうだがいかにも量産型っぽい小さなカメラ。誰かが何十年か前に撮った風景が、この中に入ったまま失われたのだろうかと思って、ちょっと切なくなったのを覚えている。

峠下の″切り返し″は運が良かった。少し行きすぎてしまって、いくらなんでも行きすぎだろうと思って引き返す時に赤テープを見つけたのだった(そのかわり休憩した場所にライターを落とす)。残りは一本調子の、しかししっかり大地に刻み込まれた塹壕道。

鋭い尾根を乗り越える峠。縦走線ばかりが目立ち、峠らしくもない。建てられた看板も御池や藤原岳などを指し示していて、ここが峠であることさえ書いてあったかどうか。しかしこの峠は茨川の人々にとっての生命線だった。いろんな思いが越えただろうと思うと、目の前の看板に落書された「縦走記念」云々という文字が余計に腹立たしく思えたのだった。あなたのためにある峠じゃない、ここは。

東側への下りは深く掘り込まれた塹壕道。傾斜もきつく、小さなつづらでどんどん高度を下げて行く。これが中尾地蔵の所で一変し、山腹をゆっくりと巻きながら降りる道に変わる。そういう道の変化の目印としての中尾地蔵。存在にも名前にも意味があることを思う。これもまた落書だらけだった。節操のない、自制心のない人々め。

降り着いた先は小さな草原だった。左を見れば谷の対岸の斜面がかなたに見えている。ものすごく深い谷の、その谷の中腹に出来た小さな広場。棚のような広場。すぐに車道に出そうな気もしたけれど、ここからしばらくはこんな草地と薄い林とを交互に通って行くような道だった。それが治田鉱山跡に出た時の場面展開までは覚えていない。これは旅行直後でも思い出すことができず。

いつまにか辺りは平らになっていた。右側に迫っていた山の斜面が遠のいて、小さな平地を抱え込む杉木立になって。あっ、何か違うな、と思った次の瞬間には隧道の前だった。それを迂回する道もあったのだけど、向こうも見えていたしで、その隧道を潜って。出た所に日の岡稲荷の真っ赤な鳥居が建っていて、それで治田鉱山跡だと知ったのだった。

さらに進めば、道はだだっ広い河原に降りる。後に読んだ本ではここでキャンパーが輪になってラジオ体操している写真があった。2、30人はいた。それでもまだ前後左右が余るくらいの広さ。川下できゅっと狭まって、大分で言うサコになっている。ここは岩場を鎖でへつらなければならない。その場面転換の面白さ。有無を言わさず(言う事も出来ず)自転車もろとも鎖へつり。

車道との合流点はその先だった。

まずは飯だ。飯。飯が買える所を探して走る。三重県を三重県だと意識して走ったのはこの時が最初で、そういう時はその時の思いがその県のイメージになってしまったりするのだけれど、その結果「三重県は東西に平坦だ」「店がない」という誤った印象になってしまった(そもそも1週間ほど前に名張辺りを通っているんだが、どうも奈良の続きという印象がある)。いくら走っても変化がなく、ぽつぽつと家があるばかりで、ここぞという町の焦点が、民家の集まってるような場所が見当たらない。起伏が少なく見通しできないせいもあって、余計にそれがわからず、ただ闇雲に走るしかなかった。そうしてようやく見つけた小スーパー。食糧を得る。生き返る。煙草を吹かす。川沿いのコンクリートの壁に座って、いくつ菓子パンを食ったっけ。

帰りは石榑峠を越えて。石榑峠は幅制限のコンクリートブロックばかりが有名だが、個人的には峠道の擁壁に描かれた絵のほうを推したい。登るにつれてどんどん写実的になっていく壁画群。最後のほうで現われる猿などは実にいい顔をして遠くを見つめていた。こんな道だ、誰を楽しませるでもなく在り続けて、そのほとんどはもう色褪せつつある、そんな姿が涙を誘った。そうして幅制限のコンクリートは確かに必要性を感じた。記録には「送電鉄塔が峠の目印になる」と書いているが、そんなことはもう忘れた。

ユズリ葉尾の商店で買い足し(といってもラーメンとコモパンくらいしかないさ)、再び茨川林道。まだこの時点では、林道を下ったことがない。同じ道を2度続けて登る変な感覚。

なお、写真は三重側麓で撮ったもの。単に「電光掲示板には難しい漢字が入ってないんだ」と感心しただけ。


2009-06-28 この日を編集

[web][独言] 奇事!でかい鯛

機時で解体。雉子刑事痛い。貴児で拐帯。木地でか?板井。

記事で買いたい。そういう要求があったわけではないのだけれどそういうものをいっしょうけんめいつくっている。

http://www.the-orj.org/resist/kiji_order_1st.php

あとは3rdの処理と4thのメールを実装すれば・・・これはitem_orderから流用できるはずだ。細かい所の処理もあわせて明日中今日中に終わらせる。「そうする」選んだらメッセージ変えたい。もし購読システムと連動させるなら明日までかかるだろう。

正確にはかってもらいたい/かわせたいであってnagajis必死だなW+と正規表現の使用も可。(w|W|¥|ξ)+でどんな廃道にもマッチ。¥=潅木、ξ=葛。いやちがうな、[WW¥ξ]+じゃないとwWWwwWwξ¥wwwWwとかマッチせえへん。

一生懸命作った割に誰にも使われないであろうことが自明なのが辛い。グラデーションがきれいなのが唯一の慰み。むしろこのシステムでヘコヘコ遊べるようなものにしたい。買うかどうかはともかくとしてだ。

上記のシステムのためにリストをdb化してUICGI修正して0507-0906全部登録し直してまだアイテムも登録しなければならなくなった。泥沼もいいところだ。これでもし購読システムと連動させる(最後にどうDLしてもらうかは棚にあげとくとしても)なら購読済BGにする。

できた・・・。IEで見てから公開する。購読料からさしひくは後回し。だから買っても買ったやつがどすどす落ちてきたりしないんだから。結局は一つひとつウリックしなきゃいけないんだから。ちなみにCD-R代はnagajisの自腹だ。

変に凝ろうとして63号までしか使えないようなウエリになってしまった。32bitずつでういるとあしないといえないんだろうな。お人手きにはテストがしやすうていいのだが。


2011-06-28 この日を編集

[KINIAS] 再掲:旧精華小学校保存運動

旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.確か七月頭には提出するはずなのでお急ぎください。

[独言] 疲れた

このクソ暑い中、自転車で橋を見に行った。正確にいえば橋の橋脚だ。
画像の説明

画像の説明南岸と特に変わりがあるわけではないのだが、考えてみたらガーダー部の橋脚がどんなになっているかマジマジと見たことがなかったことと、当初は小判型ウェルで設計され跳ね出し部はついてなかったことに、南岸から写した写真と航空写真を見てて気づいたからだった。確かに根元は設計図通りの小判型だがその上に打ち継いで広げてある。車線数は変りないので、一車線により余裕を持たせたか、御堂筋線を独立のアーチにしたことで幅を増す必要があったのだろう。写真手前の7号橋脚などは左右にも広げられてあって原型を留めていない。なお堤防近辺はこれといった発見無し。堤防以北はすべてΠラーメンの高架になっちょる。

画像の説明
ついでに水道橋の此岸も撮ってきた。かつてはも少し北岸が南へ寄っていて、この橋のところまで来ていたから、これだけの長さで済んだのだ。ただし渡した水管は岸の地下を東北東に伸ばされていたので7号橋脚8,9,11号橋脚と干渉した。

なんでこんな暑い中行ったのかは謎。ようやく自転車を修理して、ライオン屋にロングソックスを買いに行こうと思い立ち、その帰りに寄ってみようという軽い気持ちだった。13時発17時帰宅という暑い時間帯だけ走ったことになる。自転車に乗れるようになったのは有り難いがたったこれだけの距離なのに足がくたくたになった。そのうえケツが痛え。まだまだリハビリを重ねないといけないようだ。ていうかサドル買い替えないと。

[独言] 新大阪駅が越えられない

自転車で南北に横断しようとすると随分遠回りさせられる。高架下の工事事務所行き止まりに迷い込んだりして少々ツボった。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ しとろん [水道橋の写真、訳が判らないが強く惹かれるなり。]


2013-06-28 この日を編集

[煉瓦] 桜塚高校煉瓦壁

女学校時代の煉瓦壁。昭和13年(だったっけ)に作られたもの。ここには大阪窯業と岸和田煉瓦の刻印がある。どこにでもある刻印だからあまり気にかけていなかったのだけれども、よく考えたら手成形煉瓦なのだよな、あれ。昭和初期の煉瓦のはずなのに。

昭和40年代まで手成形で煉瓦を作っていた工場もあるから、手成形であること即ち古い証拠ではない(逆もまた然り。機械成形だから新しいとは限らない)。問題は、明治大正期に機械を導入していたはずの大阪窯業・岸和田煉瓦が昭和初期まで手成形もやっていたというところにある。そりゃそうだよな、機械一台や二台じゃ年間数千万個も作られへんやろ。職工数だって多いのだし。並行して手成形でも作っていたと考えるべき。とnagajisに言い聞かせるために書く。

この壁に使われている、松葉菱にイの刻印の入った煉瓦は機械成形だ。側面のツルツルさでも判別できる。柱に相当する部位の特に上のほうにだけ使われていて、そこだけ目地も違う。崩れたのをあとで補った(その煉瓦に松葉菱イ印刻印煉瓦が使われた)と見るべきで、昭和13年に松葉菱イ印刻印煉瓦があった証拠にはならないようだ。

といったことを今日気づいた。何度もしつこく見ることで見えてくるものがある、というよりも一発で見抜けないnagajisが間抜けなのに違いない。煉瓦は難しく、そして面白い。

[煉瓦] 片面刻印・両面刻印

中国地方に昭和初期に興った煉瓦会社も機械成形煉瓦に刻印を押したところが多い。そして片面にしか押されていない。○Mの松本煉瓦、◇Tの東洋煉瓦、◇中の中国煉瓦は片面だった。□SRKは縁石の一部なので裏側がわからないが、抑え板に印があったのだから片面にしか打たれなかっただろう(同じ並びに刻印の見えないやつがあったからそれが裏だったかも知れない。また今度見とこ)。

大阪府域の煉瓦刻印は裏表に押してあるのが多い。六大窯業はみな両面打ちだったような。両面に打ってあると平が露出していれば必ず見えることになり、それが「大量に分布している」と感じる原因なのかも知れない。両側に打つのはそれなりに面倒だったろうにな。ただでさえ煉瓦工場が沢山あったところだから、積極的にアピールしないと紛れてしまうという不安があってそうなったのかも知れん。

手成形煉瓦だと表の平のほうが綺麗に仕上がるから、平を見せて積む時は表を表にしたいところ。とすると刻印は裏だけにしといてほしい。しかし作る側にとっては表のほうが押しやすい。わざわざひっくり返さないと裏に押すことができない。そんな条件でありながら裏表押しているところに何か特別な理由があったはずだ。作業的にそのほうが楽だとか、別の目的でひっくり返す工程が必須だったとかで、「わざわざ」がわざわざでなかったとか。上記のアピールのために「わざわざ」だったかも知れない。

若井煉瓦の煉瓦は片面だった。堺附洲も片面だけ。「★」は両面にある。 ある時期を境に両面打ちに切り替わったようだ。明確に何年と線引きすることはできないだろうが。裏面に横筋が入っているのが共通項なら、製造手順も共通であったはずでーーー堺で焼き始めた頃から脈々と受け継がれてきた不文律の製造手順がーーー、それがどこかで両面打ちになったと想像すると、それだけで愉快な気分になる。いつ誰が始めたものなのだろうか。周囲は嫌がらなかったのだろうか。

[煉瓦刻印] 推定山陽窯業/大正煉瓦@阿弥陀村

画像の説明

あるべきものがあるべきところにあって満足。やはり「T」刻印は大正煉瓦であったようだ。いやいや…….「T」ではないのかも知れぬ.後日近くで「山」を見た.大阪の「T」刻印よりもその「山」のほうに近い.とすると山陽窯業の可能性大.

画像の説明

「大」字のバリエーション.これは大正煉瓦で間違いない.

[キノコ] キノコ

画像の説明

きもいよ。


2018-06-28 この日を編集

[] すべておくる

酷いものを発酵させても腐るだけだろうということで手放す。.疲れた。

隧道群の代弁者みたような偉そうなことを書いているが素直に書いたらこうなったのであってnagajisが悪い以外の何物でもない。ついこの間秋元橋の喪失を知った手前でもある。もうこれ以上の損失を私は見たくないのだ。

[橋梁][近代化遺産] 秋元橋続報

その秋元橋。北塩原村に問い合わせてみたら(先方さんの話しぶりから察するに)他からも問い合わせがあったようで日置駅しているような印象を受けた。こちらは無くなった勿体なさを追及するつもりは毫もないのだけれどもなあ。

んでクラベン兄弟(迫真)の銘板だけ残してあるそうだ。nagajis思うにあの橋は「クレーン梁の流用」がキモなのであって「クレーン梁そのもの」「銘板だけ」という状態には価値が見いだせない。いっそ全部喪失してしまったほうが(nagajisが)スッキリしたかも知れぬ。

どのみち某先生に「ゲテモノ」扱いされた可哀想な橋である。橋形レールとともにFeに還って世界の何処かで役に立ってくれればいい。あるいは朽ち尽くして土に還るのも可。人間の業によって眠りを覚まされいいようにこき使われた地の精よ、再び地に戻って安らかに眠れ。

[独言] さて

喫緊の課題に区切りがついたので次何しよう。とにかく年老いた。


2019-06-28 この日を編集

[煉瓦刻印] 讃岐煉瓦百態

さすが四国だけあって讃岐煉瓦がたくさん見つかる別子銅山。高橋氏の報文のとおりである。

画像の説明

醸造所近辺でよく見かけるのがこのタイプ。大型の松葉菱の中に左書きで「サヌキ」の文字と、右書き数字が刻まれる。醸造所自体はかなり昔から稼業していたようだけれども、かの有名な煉瓦煙突など残存している煉瓦遺構は明治30年以降の築造で(だって日本煉瓦が混じってたりするもん)、その辺りに使われていたこのパターンもM30代以降のものと思われる。高橋氏の報文によれば東平の索道場(M38頃?)にもこれが多いというから、M30年代の終わり頃にはこのパターンが使われていたことは間違いない。索道場には後述「分」も使われているので、あるいは分工場稼働を機にこのパターンを始めたのかも知れぬ。 画像の説明

ちょっと面白いのは、このパターンには添字を漢字にしたものもあること。これは左書きで「六号」とある。

画像の説明

数字が二桁になると「二十号」。これは左書きというより縦書きというべきかも知れない。考えてみれば社名「キヌサ」に英数字添字だと左書き右書きが混在してしまうことになってちょっと気持ち悪い。それを解決しようとするとこういうふうにならざるを得ない。しかしこれが英数字パターンより前のものとも断言できぬ。最初に掲げた刻印は「15」だし。 画像の説明

「キヌサ」パターンは刻印のエッジが明瞭なものが多い印象。おそらく煉瓦抜きした直後の全く乾いていない状態のオナマに抜き職人が打刻したものだろう。 画像の説明

左書き讃岐+「分」+英数字というパターンもある。これは讃岐煉瓦の観音寺工場製を示す刻印であるに違いない(観音寺分工場はM39操業開始。戦後に本工場を畳んでそちらが主工場になる)。醸造所近辺では「分」を見なかったが、焼鋼窯群のあたりの路傍で転石を見た。東平索道場にも所在するという。しかしそうすると索道場の完成と分工場創業年がちょっとだけ一致しない。要検討だな。ともかく、このパターンでは[キヌサ+英数字」よりもさらに左書き右書き混在が酷くなってしまっている(「分」は右から読み英数字は左から読むことになる?)。英数字添字が二桁になってしまった場合はどげなるもんかしらん。 画像の説明

その他旧別子地区には松葉菱だけのものも多い。サイズは「キヌサ」ありのものと同じ。M33再建という住友病院の基礎にこれが多い印象がある。だとするとこちらが古いものなのかも知れないが、端出場発電所水路(M44頃)にもこのサイズの松葉菱オンリーはあったっけ。 画像の説明

端出場発電所の貯水池や送水路にも讃岐煉瓦はあったけれど「キヌサ」入りは見つからなかった。ここにあるのは英数字や「●●」が入っているもの、 画像の説明

「サレ」字入り。この「サレ」は個人的には初見。ヌキンガの略のはず。似たようなものはいくつかあったが印影がはっきりしているのはこれだけだった。このサイズで「レ」がなければ下記「松葉菱+サ」になる。


画像の説明以上は別子で検出しもの。関西(府下)では松葉菱(大)オンリーや松葉菱(大)に「○特」印を添えたもの(右写真)、松葉菱(小)+英数字、そして「松葉菱+サ」をみている。

画像の説明量的には「松葉菱+サ」が一番多いと思う。JISサイズに押されたものもあるのでこのパターンが最も新しい讃岐刻印だろう。いずれも転石で検出しているので使用時期のピンに使えないのが残念だ。

遺構の正確な建造年がわかれば刻印使用時期を絞り込んでいくことが できそうな塩梅だが、醸造場のような例もあるので、そう簡単にはいかないかも知れない。


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