nagajisの日不定記。
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四時半非常呼集の轟音にて眼をさます。半分は本気にしたれども演習なりき。未だ非常呼集・火災呼集の喇叭は確得せざりき。一日勉強を行わんと思いたれどもやかましくして行う事能わず。
点呼の際除草をなす。朝を除き他はしとヽと雨なりき。教授部にては生理衛生の訓育部にては学科・柔道・剣術の考査あり。柔道にては平川より忽ちにして破られたり。残念なり。無念なり。益〃武道鍛錬の必要をおぼえたり。
昨夜点呼より約一時間半に亘り日曜の酒保の代金間違につき週番司令殿週番士官殿の御注意あり。もっと淡白なる思想家宅、品性ある人間となるべしと。学問は次なり。ついで切磋会をなす。
幾何・物理・訓育学科考査ありて全力出したり。体操は元気なりき。今や考査を前に寸暇も惜しく勉励中なり。根本を考えることこそ大切なれ。良好。
まるはしや様、keisuke様から参加希望のメールをいただきました! コウモリストのまるはしやさまにはぜひぜひ実地研修を乞いたく候です個人的に。「廃道経験が浅くて」と謙遜されるkeisukeさま、オブローダーの道はいつでもフルオープンですからご心配無く。私も廃線あるき?は初めてで(爆
ご連絡第6報は、少し遅くなるかも。。。今は寝かせてください(後述)
登録延期を勧告されていた石見銀山が目出度く世界遺産に。自分にとっては大逆転という感じでとても驚いた。そうして初めての「産業遺産」としての登録。この分野、これからますますアツくなるに違い無いッ!!
7月3日から。ついに来た、という感じ。またしばらくネタには困らなそうだ。(でもいい加減、あの使いにくいUIは改善してほしい...pdfも1.5じゃClassic Macから見れんのだよ(ボソ )
昨日の分を書いてアルコールを浴びてさあ寝ようという時にカシイャに呼び出された・・・そのまま拘束、さっき帰宅。会社で少しは寝てみたが、こんな無茶な生活が、あってたまるものか。なので懐古する気力が尽きた。寝る。
しかしモーローとした頭の時ほど阿呆なことを思い付くもので。OFF会にネタ仕込みありかも。
旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.web経由は7月3日(日)締切り〜。
片づけたのではない。羽根が割れていたのを直した。やはりエポキシ2液系の接着剤は最強だ。これで少しは過ごし易くなるが、しばらくは羽根が吹っ飛ぶかも知れない恐怖と闘うことになるだろう。
タイトルと本文がどんだけ乖離しているかを確認するために入れてみたが未だに動作せず。よっぽど乖離してるのか。月とスッポン、廃墟と廃道くらい懸け離れているか。ちぇっ
亀の瀬トンネル見学会が7月18日にあるらしい。大和川河川工事事務所のパンフ参照。昨年11月のは怪我で行けなかったから申し込んでみようかな・・・
新聞のバックナンバーを探していたらこんな記事を発見.メモメモ.
『竹筋コンクリート』の実験
国鉄が全国専門家の知慧集む国鉄技術の水準向上を図るため鉄道省では先般工務、建設両局の技術会を打って一丸とした鉄道省土木技術会を創設、その第一回協議会を来る二十五、六両日午前十時から鉄道省大会議室で開くことになった当日研究発表される九件のうち最も注目されているのは次の三項目で国鉄ではこれら研究発表のうち可能なものからどんどん実際に使用して行こうとまで意気込んでいる
◇その一つは竹筋コンクリート研究で時節柄鉄の使用制限が非常に強化されている今日、鉄筋の代りに竹を代用しようというものである
所が竹は耐久力から見て鉄とは問題にならないほど弱い、竹をセメントと一緒にかためる時には竹が水分を吸って膨張し、いよいよかたまってしまった時には収縮してセメントと竹がしっくりくっつかない、その上セメントはアルカリ性なので竹をそのまま用いると腐ってくるという二つの欠点があり、これを補い竹の特長を生かすためには水の浸入しない、アルカリに腐食されない特殊の塗料を発見するため名鉄ならびに大鉄では線路の下水蓋、用地杭、棚垣、フォームの擁壁等々に竹筋コンクリートを用いて種々研究を重ねて来たがその実験報告が今回もたらされるのである
(以下略:出典・朝日新聞1941.2.19.朝刊7面)
…と引用したところで大鉄ノットイコール大阪電気軌道でないことに気づいたorz.大鉄は大井川鉄道なんだよ>nagajis
そう言われると,名古屋は盛んに竹筋を使ったところだという印象がある.水分橋の橋脚も一部は竹筋だったし(『道路』),竹筋をモニュメント展示しているところもあったはず.
橋下市長が他の施設に転用したがっている?という件を追いかけてみてますますわかんなくなってしまった.橋下市長は図書館でなくしたいと言っているらしい.松井知事もそれに同意したということになってる.けれども府教育委員会は...ああそうか,図書館やめないとは言ってないのな.
わからんでもない.中央図書館にいて中之島の資料がヒットしたり(しかもそんな時はたいてい日曜日で,中之島は休みだったりする),その逆だったり.どちらか一方に集まっていれば便利だろうと思ったことはある.けれどもあの時代遅れな空間が居心地良かったりもする.図書館でなくなったら寂しい思いをするだろう.
橋下市長は徹底的に合理的なんだなと思う.不便だから便利にする.収益のない図書館より美術館とかにしたほうが儲かる(現府庁移転して美術館に,って言ってたのは松井知事だっけ?橋下ったんだったっけ?).不便だけど居心地がいいとか月曜開いてて重宝するとか,どこかに瑕疵のあるような理由で存続を認めるようなことはしないのだと思う.それだけ徹底的にやってるから,色々問題も起こす一方,改革が進捗してるように見える.そこまでしないと大阪市ヤバイということでもあるのだろう.
近代建築・近代化遺産・産業遺産をどう残すかという問題の一側面.古いものを古いまま使い続けることは,それを使う人にとっては負担だ.誰だって子供の頃着ていた服をちんちくりんになっても着続けていたいとは思わない.宍粟の千年家だってあの家に住み続けろというのは酷で,住人の方は隣に建つ普通の住宅で暮らしてはった.家の形をしてはいるが家としては機能していない家だ.その論点で続ければ,図書館を図書館以外に使うこともまた可ということになる.旧銀行の建物をショップ団地?として使ったり,火力発電所の建屋を倉庫として使うのと代わりない.問題は少なからぬ数の人があの図書館を利用していて,無くなると困るということ「だけ」なんだよな.
地図は6月27日のエントリ参照。高砂市阿弥陀村阿弥陀(元阿弥陀村阿弥陀)、国道2号とJRとの間にあった。大正9年5月創業。
例のごとく出先でマップアプリが落ちてしまい、記憶を頼りに歩くはめになる。最初は阿弥陀1丁目のほうへ行ってしまい収穫なしで終わった。そこから見えた古い街並みをアテに、東へ。
たぶん旧街道だろうという道を歩いて行くと、だんだんと煉瓦転石が見られるようになった。ふらっと入り込んだ路地裏ではこんな一角も発見。焼損煉瓦を敷き詰めた小路だ。こういうのがあれば間違い無く近くに工場があったはず、と思ってスキャンのdpiを上げると、「大」という刻印のある煉瓦を発見した。この辺りで大正煉瓦の阿弥陀分工場だったことを思い出した。
「大」刻印は文字を意匠化したものと、四角い判に太楷書で「大」を刻んだものとがある。後者は機械成形の煉瓦に押されていた。さらに歩き回った結果、別の路地裏で「T」刻印も発見。ここで見た「T」刻印は、テトリスブロックのようなゴシック体で、サイズも小さめ。一円玉を載せたら隠れるくらいの小ささだった。
その刻印を眺めつつ、どう撮ろうか悩んでいると「どうしました?」と声をかけられた。その家の方らしい。「し、失礼しました、煉瓦工場を探してたもので」云々。冷や汗をかいたが、そのお陰で工場の場所を知ることができた。ほぼ目と鼻の先といっていい場所、旧街道を挟んだ北側にあったのだそうだ(工場通覧にあった番地そのままの場所)。
その方曰く、今から50年ほど前までは残っていて、大きな煙突も立っていていた(その頃にはすでに営業していなかった?)。しかし台風で倒壊してしまい、それを機に敷地を片付けてしまったのだそうだ。
教わった場所へ行くと、センチュリーアミーなるマンションと、その駐車場と、いかにも新しい住宅街があった。煉瓦工場の面影は一切ない。……と思ったら意外にも跡形があった。マンションの上り口や駐車場の外周壁に古いレンガが使われていたのだ。どれも手成形で大ぶりな煉瓦。もとからあった構造を流用したものではなく、解体で出てきた古煉瓦を積み直して作ったものらしい。
ここに「T」or「大」刻印があるに違いない!と意気込んで見て回ったのだけれども、見つかったのは「K6」刻印だった。平を見せて並んでいるたくさんの煉瓦の中の2つに「K6」がある。その他にチョボが3つ並んだ刻印(らしきもの)も見つかった。これは1つだけ。んで、「T」や「大」は見つからなかった。
ここまで歩いてくる道すがらで「K9」「K7」刻印を見つけていた。Kなんちゃらというのは大阪でも見たことがある。そのバリエーションが遠く離れたこの場所に、そこそこの頻度で分布していたわけである。
ちょっとばかし謎だ。工場周囲には確かに「T」「大」刻印が分布していた。位置関係からいっても大正煉瓦の刻印と見ていい。しかし大元の大正煉瓦跡地にはそれがなく、「K」刻印が存在しているという……。
今から50年ほど前ということは1960年頃だから、大正煉瓦が戦後に名前を変えてこの刻印を使っていたのかも知れない。大正煉瓦が興った頃、少し離れた所に弘栄煉瓦製造所という工場があった。弘栄煉瓦製造所は「ABC」という社章を使っていたらしいが(大日本商工録参照。Amida 村にあった Brick Company だからな)、それが戦後に大正煉瓦を買収して「K」刻印に変えた……とか何とか遠回りな想像をせざるを得ない。ともかく「K」シリーズの出処が印南郡にあった可能性が出てきたわけで、ちょいとばかし驚いたことだった。
(工場の建物に自社煉瓦を使ったかどうかは検討の余地がある。少なくとも最初の窯は他所から煉瓦を買ってこないと築けないはずだからな)
昨日のエントリに上げた「T」刻印は旧街道の脇の花壇に使われていた。十三で見た「T」刻印と一緒!と思っていたのだが、よく見ると若干違った。Tの横棒の両端にセリフがついていなかった。たったそれだけの違いだから、同じ会社のものである可能性のほうが高いだろうが、最終的な判断は曽根工場の周辺を見て下したほうがよさそうだ。
高熊村の元標には「昭和四年十一月」ナントカと彫られている。最後にわずかに文字が見えるのだがコンクリに埋まっている・・・。そこが結構重要なのに。恐らく「設置」か「建之」だと思うが。
大阪府の元標位置告示は昭和四年十月。なのでその翌月にはもう設置されていたことになる。大阪府統計書昭和四年版(昭和四年十二月末調)を見る限りこの場所を府県道が通っていたわけではないので(現府道62号泉佐野打田線に相当する佐野粉河線は郡道上がりの府県道だったが)、村が独自に設置したものだろう。この頃にはすでに各市町村に一つという大前提が有名無実化していて、府県道の通らない市町村は無理に置く必要がないと考えられていたかったはずなのだが、それでも&告示直後に建標しているところに、道に対する熊取村の思いを読み取ることができる。形式行政の陋と取ることもできようがそれはあまりにあんまりだろう。
岸和田市の道路元標は現役場別館脇の旧紀州街道の辻の角に建っている。この辻は昭和16年まで国道16号が通っていたから、国道の管理者たる府県知事(府県)が設置する必要があった。大阪市や枚方町と同じ設置者なら、道路の真ん中に埋まっていた可能性があるのだが、いまは辻の角に、さも昔からこうでしたという顔をして建っている。遅くとも昭和58年頃にはすでに「建っていた」らしい。
野宿がしたいなあ。
しごとでかいて帰って書いてが続いたせいかこの時間になっても気が散じない。眠くならない。ちょっと使っただけでアレするのはダメな兆候だと思うのである。
使い方が足りないのかなあと思ったりもする。深く考えることをせず脊髄反射で書いているから神経が昂ぶったままなのかも知れぬ。脳みそが宇宙ゴマみたいな動きをしてくれない。それを集中力があるとは言わないな、目の前にあるものに条件反射で応対し続けられているだけで深い思慮なり思惟なりがない。たまたま出てきた腑に落ちる言い回しを後生大事に抱え込んであーだのこーだのとちまちま削って見栄えをよくしようとするばかりだ。もちろんここもそう。
_ おろろん [ ただ、合理化も過ぎれば、それ自体が不合理になったり、破綻の原因にもなってしまいますよね。合理性を追求したら其処に住まう人々の精神や健康を害した初期モダニズム建築とか、不合理性を徹底的に排除した筈..]
_ nagajis [私も感情的にはそのまま残してほしい派です。ああいう贅沢な図書館がひとつくらいあってもいいだろうと。ただ大阪市民でも頻繁に使う利用者でもないので結論は大阪市民の民意にお任せしておきます。 ##情報..]