nagajisの日不定記。
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特に理由はないが40lザックを洗った。買ってから初めてかも知れない。黒いやつなので汚れが目立たないのはいいが、洗うタイミングがわからない。ベトベトになって発酵臭がするような使い方もしてないし。しかし風呂桶に張った水はそれ相応に濁っていた。
資料の片付けもした。そろそろ棚が一杯になりつつある。
いま出ている最新版がRuby1.8系列をサポートする最後のバージョンなのだそうだが、はて、どうしたものか。今のままで充分使えてるからな。できることもしたいこも充分間に合っているし、わざわざRDBに移す利点が(今のところは)思いつかないし。しかし一度乗り遅れると追いつくのが面倒だ。
大阪窯業が貝塚煉瓦・和泉煉瓦を合併した直後から「大阪煉瓦製造業者の大連合」みたいな話があったらしい(『大日本窯業協会雑誌』No.186、M41.2.)。なかでも大阪窯業と堺煉瓦の合併話はずいぶん進展し、大正2年の初頭には8、9割方成立すると見られていたという。しかしその年開催された堺煉瓦最後の総会で否決され実現しなかった。堺煉瓦は六大窯業会社のなかで最も営業成績が悪く、他の会社が配当を続けていた中で独り無配当を繰り返していたような状況だったから、どこかに救済して貰いたいという思いは強かっただろう。しかし土壇場で自力復興の道を選んだわけだ。
合併話がひっくり返った後、推進派重役が退任し反対派で固められた。そうして狭山村に分工場を設けて最新鋭の煉瓦製造窯を築いたり(京都陶磁器試験場長の設計に拠る遠煙突の上下引可能な輪窯だったという。どういう構造なのかはよくわからないがそう書かれる)、煉瓦製造機を新調したりした。そういう投資があって大正9年頃まで命を繋ぐことができたようだ。
そのほかにも日本煉瓦や岸和田煉瓦も合併話があったらしい。明治37年に成立した煉瓦業組合は同42年頃には六大窯業会社が加盟し実効力のある団体となっていた。合併云々はさておき横のつながりは昔から強かったようで、そんな状況を表すのに「トラスト」の語が使われているほどだ(以上同「大阪付近の煉瓦業」 No.246、T2.3.)。
といった小ネタを多数入手した。