nagajisの日不定記。
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昨日の成果その1。アルファベットの「M」1文字が刻まれている。形といい大きさといい、大阪鉄道の煉瓦構造物に見られるアルファベット1文字刻印と脈絡がありそげ。これは結構重要な発見だ。アルファベット刻印は大阪鉄道由来の構造物でしか見たことがなかった。それが鉄道とは無縁なこの場所にも存在する、ということは(今まで想像していたように)大阪鉄道自前の煉瓦工場のものではなく、市井の工場のそれである可能性が出てきたということだ。
採取場所は本丸の北東角。白龍大神附近の遊歩道に露出していた。歩道を挟んで反対側には明治8年に完成した大手前配水池があり、その水壁に煉瓦が使用されているのを確認している。それが毀れて落ちてきたものか………土手にもいくつか転がってたしな。あるいは本丸に建設された陸軍施設の何かであるかも知れないが、直感的には前者が濃厚だろうと思う。大阪鉄道路線が建設された時期と重なるからだ。
この煉瓦と並ぶようにして堺煉瓦のカナ入り煉瓦も埋もれていた。配水池側の側溝には堺煉瓦+カナ煉瓦6個ほどで構成された塊もあり、観察はこちらのほうが容易。堺煉瓦カナ入りは明治20年代~30年代に建造された鉄道構造物でよく見る。JR桜井線の橋台とか、滋賀の狼川トンネルとか。
成果しょの2。そこから南に数十m行ったところの草地で採取。○にホが刻まれている刻印で、似た構成は採取例があるが、このサイズは初見だ。
先の“M”刻印のそばには“○”の一部が残った煉瓦もあった。“M”、堺煉瓦+カナ、そしてこの“○ホ”が互いに繋がるのかも知れない。
印影の狭い隙間にモルタルが詰まっていたので清掃に苦労した。あと写真はカーペットのほうにピンがあたってる。シャープネスでごまかしきれないくらいにボケている。
明治維新のあと大阪城址には陸軍連隊が置かれた。本丸なんかは営舎が所狭しと並んでたらしい。今ではすっかり片付けられ、観光客が大阪城を眺めてへーと思うスペースになっている。
そんな大阪城址に陸軍時代の煉瓦を求めて歩き回った。北東隅に門壁や理化学研究棟や謎の小屋が残ってたり、多聞櫓の辺りに煉瓦壁が残ってたりするけれども、それ以外に何かないものかしらん。単体で転がってて、ひっくり返して刻印確認したりできるやつとかさ。
まあダメ元だ、と思いながら、観光客の流れを避けて隅の方ばかり歩き回ってみた。そうすると、あにはからんや予想以上の煉瓦転石を発見することができたのだった。
こんな感じで歩道に埋もれていたりする。外堀の石垣沿いの遊歩道に埋もれていた。 これは大阪窯業だ。この外堀の土手は上をゆく遊歩道より土手脇の崖に転石が顔を覗かせていることが多かった。2、3個引っ張り出してみたら六稜星(中)なんかも出てきた。
もっとも有望なのはこの斜面。野外音楽堂の西方にある大きな土崖だ。ここには全形を保った煉瓦がいくつも露出している。解体し整地した土砂に煉瓦が混じっていて、そういうのが崖の斜面に露出しているらしい。
崖の北の方では何故かキシレン(小)が優勢。南のほうでは堺煉瓦を見つけた。しかもこの堺煉瓦、裏にカキメが施されている。 大正丹治で裏カキメとか、カキメだけ但し半分以上欠損とかは見たことがあるが、カキメ入り堺煉瓦は初めてかも知れない。(想像を逞しくすると、刻印よりカキメのほうが製造者のキーになったりしないだろうか。同じ工場の中でカキメ施したり非だったりはしないような気がする。作業者同士で競って作ってたような場で余計な手間をかけるだろうか)。
んで、本丸の隅では未見の刻印煉瓦まで見つかったのだった。行ってみないと何があるかわかんねえのは廃道と同じだな。
コレハ猫デス。充分に餌を貰っているらしく、どいつもこいつも丸々していたにも関わらず、近寄ると逃げる逃げる。触らせてくれたっていいじゃないか・・・。
結局のところ、公園の北の方ではめぼしい発見がなく、煉瓦に遭遇したのは南の方ばかりという結果になった。 北部はアパッチ族が活躍したから煉瓦まで持ってっちゃったに違いない(違
(今回荷揚門下はパスした。満潮だったしハンマー持ってってなかったし)。
生きているのは間違いないが、ただ生きているというだけでこれっぽっちも世に関与していないのは哀れだぜ?
文句をつける前に企画がボツってしまったそーだ。そりゃまあ、芸人が行ってpgrするだけっていうどっかの二番煎じ三番煎じのような内容じゃそうなるだろうじゃん。