nagajisの日不定記。
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大正天皇祭なる故休日。生徒舎に一日を過したり。雨の休日程飽きの来る日はなし。夜は随意自習なりき。ウエーク島完全占領。
長い経緯がある。
・・・という訳なのだが。この考えは間違ってるんだろうか。
そんな時ちょうどCDの購入にもPayPalの導入を、というご提案をいただいた。そういえばCDの注文はいまだに振替か郵便貯金かeバンクしかない。一時期paypalのショッピングカートで売ろうかとも考えていたが、すっかり忘れていた。そうか、購読料としていただいた分から差し引けばいいのか。
ということでCD代金を入金額のなかから支払えるよう変更を加えた。CDはまだ沢山残っている。ぜひ購入していただきたい。
が、封筒がそろそろないんだよな...封筒屋の営業は28日まで、その頃にもう一度考えよう。
長いこと使っていたくせに「石橋駅が古レールの宝庫」だということに気づかなかった。そういえば古レールだったような・・・それだけを見にこんど石橋駅へ行ってみよう。
http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_091217202733_1.htm
次回のみどころ
ナガジコが穴からでてくるキモい動画がみれる
結局前のままで。ヨッキれん&nagajisプレゼンツ、と冠しないといけない。前回SOLD OUTしたからって今回もというわけにはいかんだろうから一生懸命宣伝しなければならないのだが前回のテのアンケートによるとORJ経由で開催を知った人が(守秘義務)人だったとのことだからせめて今回は2人くらいにしたいところだ。
残念な企画が残念なものになりそうな件について。昨日電車の中で一生懸命考えたのだが、考えれば考えるほど「残念」の定義から外れてきて独り笑いを押し殺すのに必死だった。すごく・・・残念です・・・。でそういうのは受けないから企画自体残念になりそうな気がする。nagajisが来ること自体残念なことだがあえてカウントしない。
明治30年代の吉野林業説明書に「高原にて幹線二本支線十二本の恒久的木馬道網を建設すべく計画中」などと書かれてあって鼻息が荒くなっていた昨今なのだが、昨日その裏付けをしに行った所、結局一幹線+二支線に落ち着いていたうえどちらも車道林道になっちゃってることを知って悲しくなった。ようは五番関トンネルへ抜けるあの道だ。
唯一の慰みはこの林道が「高原土木林業組合」という組合方式で建設され運営されていた『有料道路』であったことを知ったことだ。こっからここまでなに運んだら何円みたいな感じ。設立から5年分くらいの毎年の事業報告書なんかもあってKNIAS的に面白かった。あと、ほんのちょっとだけ残滓がある。
それで思い出したのだが、masaさんが「神之谷林道が有料だった時期がある」ということを教えてくださったことだ。いただいた山高にちゃんとそう書いてある。恐らく上記高原と同様、林業組合が建設した有料林道だったのだろう。山の所有者が他所にいて、その山の伐採やら搬出やらをやって生計をたてる山守制度が発達していたから、かえってそういう有料林道が作りやすかったのかも知れない。高原の組合の理事も(この林道の沿線に山を持つ)上市の安田家だとか北村家だとかの大地主の名が列ねてある。ちうことはあれか、山主が搬出の便をはかるために道を開くために資金を集めるために組合が作られたということか。山主側の策なのかな。
ついでに中奥の林道についてちょっと情報入手。昭和初期の振興事業の一環で中奥林道が作られている。経費の半分が国庫補助。12年度分軌道に60mの隧道が計画されてて諏訪と思ったが結局2m横にずらして切り通しとなって実現したうえ多分その軌道はもう消滅してるはず。すごく・・・残念です・・・。そもそも字中奥っていったら枌尾とか瀬戸とかも含むはずで場所が特定できやせん。
だから林道関係をもう一度洗い直そうと思う。次回は写真撮ってくること>S12
先日のEPH・武庫川下りにて。こういう想いの迸った系看板は批評が難しい。何か言って差し上げたい気もするが声すること即ち口をさしはさむことよって罪にも思えてしまい気が引ける。貶めるのは人としてどうかだしそれがそこにあることを伝えるだけというのも主体性のない傍観主義的で宜しく無いであろう。そういうもどかしさのポテンシャルレベルで勘案すれば非常に高いポテンシャルがあるだろうが、ようは「どないせいっちゅうねん」が先に立って健全な批評を妨げるのである。
実質的な遊歩道になっている福知山線旧線のトンネル群の脇に立っている、という説明をつけた場合とそうでない場合とで受け止められ方が変わるかも知れない。試してみる。左のトンネルの坑口前に右の看板が立っているものとして見てみてほしい。
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あれ、それ、これ。たらったらしているから出てこない。
本棚の整理をしていたら買ってそのままになっていたのを発見.少しずつ読み進めている.文庫本だがガチ経済の話.最初はとっつきにくいが戦後からの各論にかかる頃から「なるほどなー」が増えて印象深くなる.戦後間もなくの日本はスイスのような文化国を目指していたとか(日本国憲法第九条につながる話),敗戦後に高炉がさらに減って八幡の3基だけになったとか.戦後史観は自分に身についてない分野だから,これで補えたらいいな.
廃道がらみで歴史の微細構造を見てばかりいると大局が掴めない.歴史の教科書では大筋過ぎて身近に感じられない.間を埋めるのは自分でしなければならない.大変っちゃあ大変.まあ,いまの日本ではそういうのを知る必要もないのかも知れないけれど.
売れているかどうかはさておき(実際のところいま段階ではわからない),出来たものに対する認識?評価?については2人とも同じ方向性であったことを確認し安心した.読まれた方の評価も(ピー)ということで何よりである.自分は怖くて見に行けない.書いて垂れ流し・投げっぱなしが良くないことはわかっている.だからこそ自分で各所に送りつけておるのだ.
献本先を一つ漏らしていた.今年中に送っておかなければ.そういえばクロネコメールで厚2cmまで送れるのだったな.そっちを使ったほうがよかった...あと,追加で数部いただくことができたのでどこかへ送りつけたいと思う.どこがいいだろう?おすすめの場所があったらお教えいただきたい.てか個人購入の分も捌かないと.+1
珍しくいまの時期に大掃除が済んでいる.本棚も少し整理ができた.
もう読むこともないだろう本(Vine Linuxの入門書だとかネタで購入した良悪パソの本とかHTMLのタグ辞典旧とか)を片付けたほうがよいような気がする.数年前から本棚の肥やしになってるやつなんかはヤニまみれなので捨てるしかないだろうが.蔵書の大半は古本で購入したやつで,そういうのは捨てるに忍びないが,新しく購入したものでもう読むこともないだろうものはさっさと捨てるに如かずだろう.いつも思う.自分は書籍のターミネーターである.
紙資料の片付けも徹底したいような.どのクリアファイルに何入れてあるのかわからんくなりつつある.エリア分けもちょっといまいち.背表紙に何も書いてないのがいけない.毎回毎回『林道のあゆみ』を手にして違うと舌打ちするのはさすがに愚だ.
あと,抜き出して断片になってしまった資料のナイナイ.あとで自分が困ることは屁を見るよりも明らかである.日本近代の架空索道とか.ページ抜けると府立中央まで行かなければならなくなる.その面倒くささから逃避するために特許タグをやってたりするのだがまあ無駄な話だ.時間はもっと有益に使え.
純粋に「この情報を広めたい」と思う時の宣伝の難しさ.自分が感じたことを書いても共感を得られないことを知っていながら広めなければならないという難しさ.いろいろ考える割にちっとも答えがわからない.どっかで新次元な何かをせにゃならんのだろうがそれが何なのかわからないから困る.いろいろやってみるしかあるまい.まず最初は恥をかくことを厭わない辺りから始めなさい>nagajis.嫌われることから取りかかりなさい.手を拱いてたら何も進まぬよ.
九州・山口の近代化遺産は景観法に基づく指定から始めようかという話に落ち着いた云々という話を読んだ気がする.世界遺産も文化財指定も若干お役所仕事的なところがあって,その指定以前に何かの文化財指定(例えば世界遺産なら国の重要文化財とか登録文化財とか,国文化財指定なら県とか市町村の文化財指定とか)がないとならないみたいな風潮がある.それがその物件のもつ価値を端的に&普遍的に示す指標として有効だから仕方ないといえば仕方ない.人の能力を測るのに「資格」が幅を利かせてるのと同じ.
だけどもなあ,とは思う.能力があればどんな資格でも得られるが(得られる権利がある.実務経験とか要資格とかあるだろうが),物件はステップバイステップでしか許されない.ということは個人が「いいものだ(遠い目)」しただけではいいものにならず,自治体や政府のお墨付きがない限りそこで終わってしまうということになる.公的にお墨付きを貰わないと両者ともただの馬の骨で終わってしまう.
何度も引き合いに出すが,産業考古学会の推薦産業遺産制度はその点に注目した面白い試みといえる.あえて未指定のものに限って推薦し,人々の注意を喚起するという.権威の笠を着る行ないといえなくもないが権威の使い方としては間違っちゃおらんよな.近代土木遺産制度,近世以前土木遺産制度も同じようなところがある.破壊され失われやすい土木構造物を守るための箔付けだ.
逆説的だが,人が「○○遺産」という箔に左右されず,自分がいいと思うものをいいと信じ,誇ったり宣伝したりして省ることがないような世の中になれば万事うまくいくんじゃないか.他人の「いいもの」を素直に自分の「いいもの」とできるような風潮になれば.廃道は好きだが廃墟には距離を置きたいなどと面倒くさいことを云うnagajisのようなやつが減れば.世の中は徐々にそのようになっていってて,nagajisは要らない子確定なのだから,そこは心配しなくともいい.時を待て.その間自分がどう食い繋いでいくかはまた別問題.
世の中に迎合する練習をたまにはしておくべきだろう思い、独りケーキを買ってきて食べている。お世話になった方々に感謝しつつ。ケーキである必要はなかったかも知れない。
クリスマス(イブ)は彼女と過ごさなければならないという風潮で,そうでない人を憐れむような放送をラジオがやっている.どうだっていいじゃないか.その通念は通念として伝え残す必要があるもののように思われない.
自分がそうありたいと願うことを,さも常識のように述べ立てて誤誘導するような振る舞いは差し控えなければならぬ.自分の理想我を人に押し付けるなと.それって廃道を喧伝するのと同じじゃね? と思われたらnagajisの負け.廃道が流行になったところでnagajisの価値が上がったりはしないのだ.廃道探索が流行って過去が見直されるようになればいいのであって,nagajisの名を売るために廃道を喧伝するようなことがあってはならんのだよ.と思った.ケーキの効果が全然ない.
新調した。レンズは8年ぶりである。クリアな視界がこのうえなく有難く、今度は傷だらけにしないよう気をつけながら使おうと思っている。机の上に適当に放っておくとレンズを下にして転げてしまうので注意すること>nagajis。
メガネの仕上げに時間がかかるということだったので、時間潰しにふと思い立ち、部室へ行ってみることにした。ついでに偉人伝献本してこようという魂胆。その途次、待兼山の住宅街にロータリーがあることを発見した。そういえばそうだったな、ここにはロータリーがあった。記憶が擦り切れるほど何度も通った場所なのだが、ロータリーだということにこれっぽちも関心を持っていなかった。
ちゃんと標識もある。
村田鶴との脈絡がこんな近くにもあったとは。とはいえこんなものまで脈絡のうちに入れていいのか>jis? そのうち村田姓の表札まで撮り始めるかも知れない。
で,行った部室にはクリコンの日であるにもかかわらず誰もいない.そのうえOBお断り的な張り紙がしてあって門前払いの格好.ううむ.
まるでアリバイ工作のごとくに大量の書き込みを投下する.[特許]カテゴリをやめて[戦前特許]に変えた.最初のやつも和暦表記を一発クリックで済むように修正.
クッキーが大層旨くてその必要性がなかったというのもあるのだが、ケーキを買ってくるのを忘れたぞ。
「メリークリスマス!」というSubject:のスパムメールを万分の一の確率に賭けて開いてしまったnagajisを叱咤したい。
「管内電気事業要覧」の電気事業者一覧では、葛城水力電気の免許申請は大正7年1月24日、発送電開始は同年12月30日となっているが、当初は火力発電でスタートし、後に水力発電へ切り替えたのではなかったか(公文書でも「関屋第二発電所」と書かれたものが多く、建設理由も現在供給中のものに加えてということになっている。そうではなく下流にごく小規模の発電所を設けていたようなおぼろげな記憶もあり断言できない)。また「関西電気事業百年史」では昭和4年頃竣工となっているが、これも正確ではないようだ。大正13年12月25日に工事申請、同14年9月22日付で許可が降り、翌年大正15年12月20日に竣工届が承認された旨が、公文書「水利使用工事実施変更許可」(1-S12-60)に綴られている。
同公文書の「水越川水利使用許可願」によると、葛城水力電気の取締役社長は喜多長左衛門。葛城村生まれの篤農家で、果樹栽培の普及に功績があったほか、各種起業にも参画した(大峰登山電気鉄道の発起人にも名を連ねている。南和鉄道でも役員してなかったっけか)。申請理由は前述の通り。水路長510間、使用水量は2.5立法尺/秒、有効落差318尺1寸4分、88馬力の電動機で48kWの発電を行うとしている。もともとこの場所には大正10年に金剛水力電気が発電所を計画し、その免許も取得していたが、竣工期限内に完成せず失効していた(公文書「大正十、十一年 水越川水利使用 南海鉄道株式会社」(1-T10-60d))。葛城水電の関屋発電所はその計画を引き次ぐ形で実施されたものらしい。なお金剛水力電気は大正3年水越峠の大阪府側に千早発電所を建設し、後に南海電鉄系列の子会社となって、昭和37年頃まで稼働していた(「河南町史」p.517他)。沿道にその遺構が残っている。
取水堰堤は、役行者行場との伝承がある「祈りの滝」祈滝谷と水越川の本流が合わさる地点に置かれ、そこから左岸伝いに葛木水分神社の辺りまで水を引き、落とすという導線だった(金剛水電の計画ではもっと上流の丹生谷に第一の取水堰堤があった=より大出力の発電を計画していた)。また発電所建屋は当初本流左岸側に設ける計画だったが、工事着手後に右岸へ変更されて、その位置で開業したようだ。
昭和4年の夏には大雨で水路が大破した。筧(かけい)で応急復旧したのち水路を改修しようとしたが、秋にも大雨に遭って遅延し、完成が11月までずれ込んでいる。「関西電気事業百年史」が昭和4年竣工としているのはこの復旧のことを言っているのかも知れない。昭和12年8月に宇治川電気に買収され、17年4月には電力統制令で日発へ、戦後に関電所有となり昭和38年3月まで運転されたとのこと(同書年表)。その間ずっと出力43kWであり続けたという、細く長くの生涯を送った小規模発電所であった。
ということを書くために4時間も5時間も費やすなっちゅーの>nagajis。メモを発掘したことだけは誉めておくがよ。
昨日の成果その1。アルファベットの「M」1文字が刻まれている。形といい大きさといい、大阪鉄道の煉瓦構造物に見られるアルファベット1文字刻印と脈絡がありそげ。これは結構重要な発見だ。アルファベット刻印は大阪鉄道由来の構造物でしか見たことがなかった。それが鉄道とは無縁なこの場所にも存在する、ということは(今まで想像していたように)大阪鉄道自前の煉瓦工場のものではなく、市井の工場のそれである可能性が出てきたということだ。
採取場所は本丸の北東角。白龍大神附近の遊歩道に露出していた。歩道を挟んで反対側には明治8年に完成した大手前配水池があり、その水壁に煉瓦が使用されているのを確認している。それが毀れて落ちてきたものか………土手にもいくつか転がってたしな。あるいは本丸に建設された陸軍施設の何かであるかも知れないが、直感的には前者が濃厚だろうと思う。大阪鉄道路線が建設された時期と重なるからだ。
この煉瓦と並ぶようにして堺煉瓦のカナ入り煉瓦も埋もれていた。配水池側の側溝には堺煉瓦+カナ煉瓦6個ほどで構成された塊もあり、観察はこちらのほうが容易。堺煉瓦カナ入りは明治20年代~30年代に建造された鉄道構造物でよく見る。JR桜井線の橋台とか、滋賀の狼川トンネルとか。
成果しょの2。そこから南に数十m行ったところの草地で採取。○にホが刻まれている刻印で、似た構成は採取例があるが、このサイズは初見だ。
先の“M”刻印のそばには“○”の一部が残った煉瓦もあった。“M”、堺煉瓦+カナ、そしてこの“○ホ”が互いに繋がるのかも知れない。
印影の狭い隙間にモルタルが詰まっていたので清掃に苦労した。あと写真はカーペットのほうにピンがあたってる。シャープネスでごまかしきれないくらいにボケている。
明治維新のあと大阪城址には陸軍連隊が置かれた。本丸なんかは営舎が所狭しと並んでたらしい。今ではすっかり片付けられ、観光客が大阪城を眺めてへーと思うスペースになっている。
そんな大阪城址に陸軍時代の煉瓦を求めて歩き回った。北東隅に門壁や理化学研究棟や謎の小屋が残ってたり、多聞櫓の辺りに煉瓦壁が残ってたりするけれども、それ以外に何かないものかしらん。単体で転がってて、ひっくり返して刻印確認したりできるやつとかさ。
まあダメ元だ、と思いながら、観光客の流れを避けて隅の方ばかり歩き回ってみた。そうすると、あにはからんや予想以上の煉瓦転石を発見することができたのだった。
こんな感じで歩道に埋もれていたりする。外堀の石垣沿いの遊歩道に埋もれていた。 これは大阪窯業だ。この外堀の土手は上をゆく遊歩道より土手脇の崖に転石が顔を覗かせていることが多かった。2、3個引っ張り出してみたら六稜星(中)なんかも出てきた。
もっとも有望なのはこの斜面。野外音楽堂の西方にある大きな土崖だ。ここには全形を保った煉瓦がいくつも露出している。解体し整地した土砂に煉瓦が混じっていて、そういうのが崖の斜面に露出しているらしい。
崖の北の方では何故かキシレン(小)が優勢。南のほうでは堺煉瓦を見つけた。しかもこの堺煉瓦、裏にカキメが施されている。 大正丹治で裏カキメとか、カキメだけ但し半分以上欠損とかは見たことがあるが、カキメ入り堺煉瓦は初めてかも知れない。(想像を逞しくすると、刻印よりカキメのほうが製造者のキーになったりしないだろうか。同じ工場の中でカキメ施したり非だったりはしないような気がする。作業者同士で競って作ってたような場で余計な手間をかけるだろうか)。
んで、本丸の隅では未見の刻印煉瓦まで見つかったのだった。行ってみないと何があるかわかんねえのは廃道と同じだな。
コレハ猫デス。充分に餌を貰っているらしく、どいつもこいつも丸々していたにも関わらず、近寄ると逃げる逃げる。触らせてくれたっていいじゃないか・・・。
結局のところ、公園の北の方ではめぼしい発見がなく、煉瓦に遭遇したのは南の方ばかりという結果になった。 北部はアパッチ族が活躍したから煉瓦まで持ってっちゃったに違いない(違
(今回荷揚門下はパスした。満潮だったしハンマー持ってってなかったし)。
生きているのは間違いないが、ただ生きているというだけでこれっぽっちも世に関与していないのは哀れだぜ?
文句をつける前に企画がボツってしまったそーだ。そりゃまあ、芸人が行ってpgrするだけっていうどっかの二番煎じ三番煎じのような内容じゃそうなるだろうじゃん。
調子に乗るからだ……。
斑入りの煉瓦とそうでない均質な煉瓦が存在する。前者は捏ねが足りなかったもの、後者はよく練ったものあるいは土質によるものと想像していて、それは工場によって違うんじゃないか、即ち斑入りか否かが生産地特定に使えるのではないかと考えていたりしたのだが、平岡窯跡ではどちらの煉瓦も存在した。上記のようなことは単純には言い切れないらしい。
構造物に使われているものについても同様。区別できるのだったらいろいろとヒントになりそうなんだけどなあ……。
もっとも平岡窯はM25-T8頃までやっていたみたいなので同じ工場の製品でも優劣があるだろう。製法の改善があったであろう。そこで見つかった煉瓦に差異があるのは当然かも知らぬ。
間違えて入り込んだ赤田川橋梁。現関西本線の隣にもう一つ橋台が隣接している。これも大仏線の遺構なんじゃねえかと思うんだけど、あんだけ詳細ば解説看板には記載されておらぬ。違うのか。境目をちゃんと確認しておくべきだった。
大仏線の解説看板は橋梁と隧道が混用されている。鉄道にとっての架道橋を道路の視点で隧道と呼んでるものが混じっている。それに加えて黒髪山隧道も黒髪山隧道跡と紹介されているからなおさら混乱を招く。M先生だったら激おこ案件。重箱の隅といえばそうかも知れないがあそこまで持ちあげるんだったらどっちかに統一してほしい気はする。
鉄道橋梁で石梁桁って実は非常に稀なのだけれども誰も気にしていないらしい。「日本の近代土木遺産」初版のリストには新潟の西越第二橋梁と三重の小田カルバートの2件しかなく、どちらも大正期のもの(それはそれでレアかも知らんな)。
もっとも、近代化遺産調査や土木遺産調査の時にそれが珍しいと知ってて拾った調査員はいないだろうから、単に忘れられているだけという可能性も大。櫟本駅下の通路だって石梁天井だったしな。赤橋の梁だって最初からこうだったとゆう保証はない。他の橋梁跡には梁が残っていない(桁の高さは赤橋のと同じだったようだが)。
生欠伸がふがふが出るばかり。
そのせいで進まない。S33まで。ここまで頑張ったらあとは減る一方だから。でもS29の新潟より後を入力していないらしいことに気づく。硅藻土煉瓦がいっちゃん多い頃ちゃうん。
_ 絹路 [http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?adr=27204 たしかココにあった駄菓子屋ミニゲーセンの"播磨焼き"なるモノが激ウマでした。カレー味、10数年前に訪..]