トップ «前の日記(2016-09-16) 最新 次の日記(2016-09-19)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2016-09-18 [長年日記]

[きたく][煉瓦] nagajis乙

画像の説明

この雨のなか姫路くんだりまで行ってきた。雨でではなく汗でびしょ濡れ。

そもそもは兵庫県立図書館に豆腐町遺跡の発掘調査報告書をコピーしに行くのが目的だったんだが、その中でrefられていた「塵界」第21号を手繰っていって、そこに「市川橋梁に[製]がある」と書かれてたので(いや、正確には写真だけか)、それを見に行くことにしたのだ。

東姫路駅で降り、右岸側の橋脚を見に行った時に上掲「乙」を発見した。山陽型の分厚い煉瓦の小口に打たれている。手書きではなく刻印な証拠に文字の底が平らだ。橋台から見始めて最後の最後の橋脚でこれを見つけたのでまさしくnagajis乙だった。同じ思いをしてもらいたいために場所は特に秘す。(全然秘してねえ)

画像の説明「塵界」にはなかったが橋台側面天角に一つだけ平が露出しているものがあって、ここに「五」の刻印を検出した。漢数字刻印は左岸でも見つかっているが(後述)、いずれも生石山砲台の漢数字と書体が違うように思われた。生石山の「一五」の「五」には一画目がない。15だからかも知らんが。

目当ての[製]は左岸側にあった。これもやはり最も河道に近い橋脚の、洗われて露出した基礎にある。河道とは反対側だ。この基礎に「十四」と「二二」もある。もう一つ[煉]らしいものを見つけたがこれは秘匿する。

画像の説明左岸側下り線の橋脚は基礎の露出が数か所あって「✕」と「✕」or「ヤ」or「4」らしいのを見つけた。後者はもうちょっとしっかり確認しておくべきだったな。一瞥で岸煉とみなしてぞんざいな写真しか撮らなかった。そのぞんざいな写真を見る限りでは「ヤ」か「4」に見える。棒の交差は直角だがハネみたいなのが写ってるんだ。困ったことだ。少なくとも下り線に岸煉煉瓦が使われているのは確かで、「塵界」に明瞭な✕刻印が載っている。自分が見たのは線描のような細いやつ。

画像の説明画像の説明ひとつ謎だったのは、上り線の橋台の天辺の煉瓦列が奇妙な割り方をされていることだ。小端立てて並べた煉瓦の一部が斜めにカットされ、そこだけ網代積みのようになっている。片側だけならまだしも左右岸ともだから余計に謎。枕木を直置きすることを想定したサイドストッパーとか、そういうことか。

画像の説明

で、何故かこんな場面を渡渉する羽目に陥った。しかも渡っている最中に左足が攣った。お前はギャグ漫画か。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160918-00000042-mbsnewsv-l28

うへー洒落ならん。

[煉瓦] 豆腐町遺跡(山陽鉄道転車台)

そもそもの目的であった豆腐町遺跡、即ち姫路駅高架化の時に見つかった転車台遺構(明治21年末姫路駅開業時のもの?)で採取された煉瓦刻印は、これ。

画像の説明

(『豆腐町遺跡Ⅱ』p.23より引用)

とても気になる刻印だ。1類に分類されている刻印は漢字を四角で囲ったもので、並べ替えると「末廣煉化製造(販)売部」とか何とかになりそうで、煉瓦工場の名前っぽいのだが、「吉」が余ってしまったりするし、そもそもそんな工場は存在しなかった。唯一可能性があるのは明治20−23頃に西宮市にあった勝部煉瓦製造所か。「勝」が見つかってなくて「部」だけという推測。それでも「末」「廣」「吉」辺りが余ってしまうが。西宮市末広町の辺りにあったとしても「吉」が要らない子になる。あ、「子」は「ネ」であって2類に分類されるべきなことは報告書に書いてある通り。

2類に分類されているのはカナ+□刻印で、これは京都府深草フチ町の一帯とかうちのアパートの隣ブロック(!)とかでも見つかっている。1類は一辺1.8㎝で枠線も太め、2類は1.5㎝角で細い枠線。後者の特徴は深草フチ町とか中桜塚のとも一致する。

1類は上記転車台のほか、市川橋梁、揖保川橋梁で採取されているそうだ。また西宮神社周辺の遺構?でも[賣]が発見されているとのこと。最後の一つを除いて山陽鉄道がらみの遺構。さてどこの工場が供給した? 勝部煉瓦製造所だとしたら西宮神社に行っててもおかしくはなく、明治21年から22年にかけて作られたという時期も合致するんだけどな。辰馬組でもいいんだけど。しかし兵庫港に荷揚場あったくらいだから堺から運んできてもいいんだよなー。

[煉瓦刻印] 五光刻印

生石山第三砲台で1つだけ検出した五本線+○刻印(以下五光刻印と称す)が、実は豆腐町遺跡でも見つかっている。ただしここでも1つだけで、なおかつショベルカーによる掘削の際に出てきた遊離煉瓦とのことだ。転車台遺構そのものには検出されていない。ただ転車台の竣工(姫路駅開業)が明治21で、生石山第三の着竣工とさほど離れていないところからすれば(あれが要塞本体から出てきたとすれば)、山陽鉄道時代のものとみてよいのではないか。

さらに資料をみていると、鹿児島県の旧集成館の鋳造場遺構からも出土しているらしかった。ここでは大阪の盛秀館の耐火煉瓦も出土している。盛秀館は明治19年〜27年(自称11年〜)なのでやっぱり時期が合うのだった。

以上のこととM21の煉瓦産出量を考えると、意外と堺煉瓦の前身である共立社のだったりするのかも知れん(新聞記事の「協煉瓦石」がたぶん共立社)。五光−○=堺煉瓦の五本線、という図式も強ち妄想ではないのかも知れぬ。

そういや大阪煉化石も未確定のままだな。


トップ «前の日記(2016-09-16) 最新 次の日記(2016-09-19)» 編集