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旧道倶樂部録"

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2018-07-19 [長年日記]

[独言] 叩き台をつくる

「コンセプト」という言葉が正しく使えないというトラウマを植え付けられている私なので困ったことである。何をどう説明したらコンセプトを説明したことになるのかわかっていない。ダメ出しかOKかのデジタル裁許じゃ学べるものも学べんわなと今更愚痴ってみる。

現状では単に全体像を作ってみただけに過ぎない。ここから内容を書いていただくためには「何を書くか」「どう書くか」「配分は」を伝えないといけない。その点は移動本は楽だった。文字数と写真点数だけ与えられていてコレという方針もなかったものな。なくてあれだけ整った内容になったのはひとえに寄稿された皆さんの廃道に対する意識ベクトルが元々揃っていたからだろうと振り返ってみたりしている。そういう状況でない今回にどう青写真を描くか。しかもその青写真は独自言語独自仕様独自単位で書かれておる。どうやって翻訳・単位変換するか。というところから頭をひねらないといけない。

だからといって例示を出し過ぎると自分が関与したものになってしまうんだよなあ。そうじゃないんだ。

[奇妙なポテンシャル] 最悪死ぬ

ことわざに「最悪死ぬ」をつけると面白い、というネタが何年も前に流行した。そのことを不意に思い出して試してみたりなどしている。 ことわざによって「ああそれは死に得るな」と思うものもあれば、汲んでも尽きせぬ奇妙なポテンシャルの湧出を感じるものもあって、その違いがまた奇妙なポテンシャルでもある。

二階から目薬 最悪死ぬ

猿も木から落ちる 最悪死ぬ

急いては事を仕損じる 最悪死ぬ

この辺りは素直に納得される例である。そんな高いところからものを落としたら衝撃で死に至るかも知れない。木から落ちて死ぬことがあるのは自明の理だ。泡展望もとい慌てん坊は死への一里塚。

待てば海路の日和あり 最悪死ぬ

だんだんPsが発生し始める。上手く行かすための方策を勧めながら実はその先に命を失うような失策が潜んでいる可能性を示唆しているのか。初めから罠なのか。漫才のボケのような味わいがある。

のれんに腕押し 最悪死ぬ

この辺になると辻褄の合わない可笑しみが滲み出てくる。手応えがないことの例えのはずなのにやりすぎると覿面な効果が現れる、ということか。暖簾を押すような微細な力仕事でも力尽きてしまう虚弱体質を言った言葉かも知れぬ。様々な背景が浮かんでは消えする。

三つ子の魂百まで 最悪死ぬ

これなどはどうにもよくわからない。そもそも「三つ子の魂百まで」の意味を曖昧に覚えているせいで、死ぬのが三つ子なのか、そのような境遇・性格の人物が死ぬのかはっきりしない。「雀百まで踊り忘れず 最悪死ぬ」と近しいはずなのだが、そちらは雀の死を想起しやすい。

雲仙に雲がかかると雨 最悪死ぬ

正確にはことわざではないけれどもひどく叙情があってよいと思った。火砕流が泥流となって再び麓を襲う可能性を示唆しているに違いないと思う。但し想起されるものが固定的なので想像の拡がりがないのは残念である。

そんなことを考えているうち、どうもしっくり来ないものもあるように思えるようになった。

豚に真珠 最悪死ぬ

Ps的ではあるがどうも意味内容が発散しすぎているように思われる。豚が死ぬようには読めないし豚に擬せられた人物が死ぬようにも読めない。どういうわけだろう。

泣きっ面に蜂 最悪死ぬ

一見素直に通りそうで通らない。蜂に刺されると死ぬこともあるという事実がPsを遠ざけるのだろうか。 酷い目が重なれば確かに死ぬこともあるだろう。刺された人が死ぬのか蜂が死ぬのかはっきりしないのもちょっとどうかである。「不気味の谷」のごとく、ある極小点より手前にあっても、向こうに行き過ぎても違和を覚えるものなのかも知れない。

五十歩百歩 最悪死ぬ

「五十歩百歩」と「最悪死ぬ」の間に句読点を打つとすっきりPsするのだが、上記のように与えられるとやはりPsは感じられない。両者の間に脈絡が感じられないのである。

いろいろと試しているうちに、どうやら「慣用句に「最悪死ぬ」をつけたから」ではないかと思うようになった。ことわざと慣用句、明確な線引きはできないそうだが、文章として完結しているもの、それ単体として意味が通るものがことわざのように思われる。「待てば海路の日和あり」とか「急いては事を仕損じる」とか、原因が提示され結果が伴うという構図に対し「最悪死ぬ」は容易に接着する気がする。一方「泣きっ面に蜂」は、何か状況の例えであって、その文章だけで言わんとすることを全て言い尽くしているわけではない。そういうものに「最悪死ぬ」を添えてもちんぷんかんぷんなだけになるようだ。なにか添えて完結させたうえで「最悪死ぬ」を足すとPsが現れるようである。

五十歩百歩の争い 最悪死ぬ

四面楚歌の職場 最悪死ぬ

「最悪死ぬ」をつけてPsが生じればことわざ、生じなければ慣用句、という新しい線引方法を提案できるかもしれぬ。もう少し考えてみよう。

[] 皆村武一著:「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新」(中公新書)

保冷所もといホレイショ・ネルソン・レーの件の広告の話が出て来るかもしれん思って読み始めたのだがそれ以外のところのほうが面白くて一気に読んでしまった。岩波の近現代史1を読んだ時も思ったことだが自分の学んだ近現代史は古過ぎたようだ。そうか定説ができあがっていない時代だから学んでも覆される可能性が高くて、だから表面をなぞるだけで終わったんだろう。

イギリスによる薩摩砲撃もイギリス下院議会でその正当性が議論され「国際法に違反するもの」と議決されていたりするのだそうだ。台風下で砲撃を受け、応戦、そこまではよいが翌日にロケット砲を放って鹿児島城下を灰燼に帰したところが問題とされたのだ(当時の慣例的な国際法では戦争に関係のない市街地に攻撃を加えることは違法とされていた。とはいってもあくまで慣習だし「文明国」間でしか通用しないようなものだったけれども)。こっちは武士道あっちは騎士道で戦っておったわけで、なんだか面白い。そうして戦争後にイギリスと手を結んでゆくあたりもいかにも武士道騎士道的で、だからこそ肝胆相照らすような仲になり急激に西欧化していくのだろうと思ったりもした。何もないところに突然文明が入ってきて一染したわけじゃなくて、さまざまな下地があったからこそ侵攻を受け入れて取り込み消化し自国のものにできたのだ、というのが今日における近代史の大方の共通認識になっているようだ。ある意味明治政府の情報操作を引き継いでいたのかも知れぬ>自分の受けた教育。

それを考えると外来語のカタカナの氾濫だって日本古来の性質であり得意技であったと言えなくもない。ともかく短期間のうちに技術を吸収し30年ほどでイギリスに互する紡績業立国になっちゃんだからなあ。新しいものを貪欲に取り込む姿勢。本質を見抜いて利用する能力。そのへんは他国にひけをとらなかった。自動車とかカメラとか、ケータイまではギリギリそうかな、とかく消化吸収と優れたもののアウトプット能力には長けてる。それがここ数十年で停滞しているのは何故だ。

漠然と、電気とか伝播とか電子回路とか、見て把握するのが難しいものについて把握するのが下手な感じがする。歯車を組み合わせて複雑な動きをする。精密な部品を作る。安価に上手に作る。そういうモノを作るのは得意。しかしIT技術とか統計処理とかは大体において苦手っぽい気がする。突出して優れた人物はいても市民感覚として多くの人が理解しているわけでもない。そういうのを使いこなすのも下手。魔法とかアニミズムとか霊とか血液型とか、目に見えない(目で把握できない)ものに対する盲目的信奉と関連するのかもしれん。

最後の最後に維新後の鹿児島県の産業低迷の話が出てきてナンデヤネンと思わないでもなかったが、あとがきを読んですらりと納得した。鹿児島新聞に連載された記事が元になっているのだ(鹿児島県立図書館に蔵されている「ザ・タイムズ」の幕末~明治初頭ぶんを元に話が展開される)。

そうそう、保冷処のことは首になったっていう話が数行で書かれていただけで原文はなし。それはもうどうでもよくなっている。

[独言] 自他不二の境地をM君提唱RPG説で理解する

高校時代の同級生にM君という人物がいた。渾名がダンダンだったので以下M君と呼ぶ。

ある時M君が突然こんなことを言い出した。M君にとっての私はドラクエの町の人のようなものであるかも知れないと。M君の人生というRPGの一場面に登場し、重要かも知れないし重要でもないかも知れない発言をしてくれる、名も無き村人的な登場人物の一人なのであると。周囲にある街や建物や空や雲も、M君RPGを演出するために用意された大道具小道具なのであると。「もしぼくが死んでしまったら、周囲は全部消えてしまうんよ」。そんな感じのことも宣ったように記憶する。自分もそれに似たことを考えたことがないわけではなかったので言いたいことは充分にわかったのだが、改めて人から聞かされてみればひどい話だ、私自身の人生RPGのことは考慮の外に置かれておるではないか、と内心憤慨したりもした。そうして私PRGの登場人物たるM君にそのように言われたことが、人間社会の、このセカイのありようを見る見方に少なからぬ影響を与えたように思われるのだ。他人には他人の人生がある。成り代わってそのロールを演じることはできないし、深く立ち入って覗いてみることもできぬ。人は人、他人は他人、時おり出会って会話を交わしてハイそれまでよ、という視点でお互いを見ている世界がこのセカイなのかも知れぬと。そうしてそんな見方がついこの間まで続いていた。それが真理なのだと信じて止まない自己が常に何割かは存在していた。

そんな見方が、最近すっかり裏返ってしまった。禅でいうところの自他不二の境地、 主客未分とか事々無碍法界とかいう概念がよく理解できなくていろいろ考えを巡らしている時、ふとM君のRPG説を思い出して頓悟するところがあったのだ。自分という存在が思っているほど絶対的な存在ではないとしたら。自分以外のものを対照物として相対的にしか定義できないものだとしたら。自分の評価は周囲がどう評価しているかで決まるのであっていくらnagajis自身が「おれって天才」と信じていたとしても他人が認めなければ真ではない。人間のつもりでいても周囲が人間と認めていなければ人間ではあり得ない。nagajis一個だけがある世界でnagajisはnagajisたり得るかというと多分そうはならない。それしかないのであれば人間という定義も必要ないし生き物であるかどうかも必要としない(無対それ以外の存在としてのnagajis)だろう。

「自分以外の何か」がある故に、それを対照基準として「自分」を認識することができる。そしてそれは「自分以外の何か」にとっても同様。M君のRPGワールドにおいて私が一個の登場人物であると同時に私的RPGワールドの登場人物としてのM君があるように。互いに参照し合っている間柄、とも言える。

ということは即ち、私もM君も対等の立場にある。鏡で相照らしているようなもので、どちらかが欠けたらもう一方にも(大なり小なりの)影響を及ぼさずにはいない。

その考えを敷衍していくと、世の中すべてのものと否応なく関わり合っていることになる。RPGワールドマップにおける山とか野原とかもそうだ。私が山だ野原だ奇妙なポテンシャルだと認識していることは、私が認識をやめてしまえばその存在が消え失せてしまうか、違う誰かの人生にとっての演出物になってしまうに違いない。

てことは、もし、「すべてが自分なのだ」だと考えることにしたら、どうなるだろう? 自分を座標づけするために存在してるものも自分の一部であると考えたとしたら。世の中即ち自分を定義するもの即ち自分であるとしたら。それこそ「自他不二」というやつなんじゃねえ? 我であると同時に彼である、全部ぶっ続きの魂としてのRPGワールド全体が、おれ。nagajisは(そして過日のM君も)勝手にそのワールドの主人公だと思っているだけで、しかし主人公だからといってセカイをまるっきり改竄してしまうこともできないし、自分の都合の良いように回すこともできないけれども、それもまた自分の一部なのであればまあ仕方ないと思えてくる。自分の考えなんかこれっぽっちもわからないのだ。何しでかすかわからないことだってあるのだ。それと同じ状況が周囲で起こっている様々な事件であったりすれ違う人であったり道端で踏んづけた犬の糞であったりはしないだろうか。だったらなおさら、そういうものに腹を立てても仕方ないという気がしてくる。自分で自分に腹を立てても何の益にもならない。

この気分は25枚一組の雲形定規に似ている。長い間一緒にいたせいで精神感応して自分と他人の区別がつかなくなった25枚一組の雲形定規である。一番小さなのを罵ったらその数倍はあろうかという大型のやつにぶん殴られたり「あっちのおれはずいぶんくたびれているようだな、おれも気をつけろよ」「そういうおれこそ」というような会話が成立したりする彼である。私もおれ、彼もおれ、ニュースを喋っているアナウンサーもおれなら刺された女性(19)も犯人もおれ。自分に関わるものすべてがおれであり、そんなおれが知らない一面を覗かせて驚かされることもあれば奇妙なポテンシャルを湧出させたりもする。有り得そうなことである。

さらに敷衍すればモノだっておれだ。この文字を入力しているASUS TF101も台湾のおれたちが作ったおれ。寝転がっているソファもおれが作ってニトリのおれが売っていたのをおれが買ってきた。nagajisがいなくなれば認識されなくなるおれたち。コーヒーをこぼして汚したりするのも予期せぬフリーズで書いたものが消えてしまうアクシデントもおれのせい。そう考えるとモノに当たったりすることもなくなる。未だ見ぬモノ手に入れたいとか高価なモノに羨望したりとかすることもなくなる。それはおれなのだから。持っていようといまいとそれがおれならそれでおkなのである。物欲から開放されるわけである。なんともすがすがすがしい気分ではないか。

残るは形を伴わない何かの追求だけだけれども、情報という無形物への欲はいまだ捨てきれない。歴史を掘り下げてみたりとか煉瓦刻印や古レールから何かを読み取ってみようとしてみたりする追求は、ひとえに自分自身(の意識の隅)を追求することであり自分自身の省吾という意味があって、 だから面白いと感じるのかも知れぬ。自分の知らない自分なんていくらでもあるのだから、なるほどそれでは尽きること飽くこともないだろう。

みたいなことを果てしなく考えてしまうのがいわゆる死人禅の状態だと思われる。じっさい上記のことを言下に実行すればそれこそこの世から葬られそうだ。時おり現実世界に戻ってきてその中で立ち振る舞わなければならぬ。M君のRPGの登場人物としていかにも重要そうな発言をしたり無意味なことを喋ったり返事しなくてただのしかばねと推測されたりせねばならないのである。ふむ。

自分がセカイを疎んじればセカイは自分を疎んじる。セカイに躍り出てみれば両手を挙げて歓迎してくれる。そういうものなのにちがいない。

[独言] 非常にどうでもいいこと

きかんしゃトーマスのトーマスが踏んでいるのは双頭レールなのかどうか。枕木への取り付けはスリーパーを使ってるように見える。あるいはブルヘッドかも知らんが。


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