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2018-07-17 [長年日記]

[文芸] 暑さと575

草いきれの海を泳いだ記憶がある

あまりに暑いと思考がまだるくなり、言葉を重ねて表現するのが面倒くさくなる。できるだけ手短かに済ませてしまいたくなる。そういう蒸し暑い亜熱帯気候の夏が575を生み短歌俳句出したのではないかと、河川敷の叢を漕ぎながら思ったことだった。ロシア語の「 Здравствуйте(こんにちは)」が唇をほとんど動かさずに発話できる、みたいな因縁(あまりに寒いと口を動かすのもつらいから。さらに寒いと「Здра」だけになる )。しかしまあそんな真夏の藪漕ぎも久しくやっていない。懐かしくもあり愚かしくもあり。昔は元気だった。今は現金。

[古レール] レールの圧延工程

画像の説明今号記事で触れ損ねた話。素人的にはこういうのも面白く思われたのでどっかに入れようかと思っていたのだけどもあまりに枝葉末節過ぎるなあと思い直してやめたのだった。

レールのあの形を作るには熱した鋼材をロール(圧延機)に通してのして作るわけだけれども、その行程は結構面倒で、かつ様々な工夫が凝らされていた。自分は勝手に「四角の鋼材を一気にレールの形に圧延するのだろう」と思っていたのだけれども、そんなことはなく、少しずつ一回り小さな形にのしていって、徐々にレール型に近づけていくのだそうだ。右は「国産軌条に就て」(九州冶金学会誌、1935)掲載の図。最初の■い鋼材(資料では「鋼片」と呼ばれている)から9度の圧延を重ねてやっと製品ができあがる。矢印動線の示すごとく、ロールを抜けたらロールを逆転させて別の穴にさしこんでいく。鋼片は前に後ろに行ったり来たりしつつ流れていくわけである。なお日本製鉄では第一ロールに突っ込まれた時の鋼材の温度は約1150度。これが冷めるまでに製品形状にしなければならない。Darlingtonの頃には大の大人が寄ってたかって大ヤットコでひっつかまえてロールに放り込んで、と人力でやってた。さながら戦場のような光景だったろうと思う(そのシーンを描いた絵があるそうである。「近代機械講話」)

画像の説明

同報別図を引用。例えば50-PSだと最初の鋼片は210×155mmの直方体。これをのしてのしてのしてのして製品にする。わずかずつ変形していくその形状の変化のさせかたも地味に工夫の塊である。単にレールの形にするだけなら「工」を寝かせた形を一回りずつ小さくしていけば早いだろうけれども、そうするとウェブの部分の金属組織がウェブ方向に引き伸ばされたような形になってしまい、いわゆる「樹状組織」と呼ばれる偏った組織を形成してしまう。これはウェブがポッキリ折れる一番怖いタイプの破断の原因とされた良くない偏頗だ。だから一度伸ばしかけたものをぎゅっと押し縮めてみたり(第二形態→第三形態)、右から圧したり左から圧したりして(第四-第七形態)、ベースからウェブにかけての組織をほぐすようにして圧延してゆくのである。海外のものなんかだとほんとに潰したり伸ばしたりグニグニ揉んだりするような圧延を重ねているものがある。そうした処理は断面形状によっても必要性がかわってくるものと思う。

画像の説明昭和13年アルス社発行「アルス工学全書」第11巻より、イリノイ製鋼会社南工場の軌条圧延工程図。最初に鋼塊圧延機で■鋼材を整形し、少し細くしておいて、一次荒仕上機→二次荒仕上機→中間仕上機→最終仕上機と、軌条圧延だけでも10回通していたことがわかる(前掲新日鉄の工程図は鋼塊圧延機を出たところから始まっている)。

工程中できるだけ温度を下げないために各ロールの作業は連続的に行えるようになっていた。上記「仕上げ機」も互いにさほど離れておらぬ場所に置かれて次々と通されていたものと思う。そのためにロールを縦に3個重ねて1圧延機で7パターンの圧延が行えるようになっていたりもしたようだ。

いうまでもなくレール標記の刻印字母は最後のロールに刻まれていた。刻印が摩耗してしまったりとか文字を間違えちゃったテヘペロ☆という時にそう簡単に交換できなかったことがこの図からもわかる。最後の型ロールだけ交換、というのはできず、上図Illinoisの例でいうところの「最終仕上機」のロールを全部交換しなければならなかった。ちなみにロールの交換時期は、日本製鉄ではだいたい15000トンから70000トンくらいで訪れておったようだ(「国産軌条に就て」)。同報文には製鉄所の重レール製造トン数と推移グラフがあるのだけれども、明治44年〜大正13年の間は5万〜7万トンで推移している。60ポンド以上だから75ポンドも随分含まれているはずで、そうすると1ロールの使用量はさらに少なくなるはず。たいていの場合は翌年度まで持ち越すことができ、そういう時には刻印の打ち替えが行なわれたのだろうと思う。

製造するレールの断面が変われば勿論ラインのロールを全交換せねばならぬ。何の資料だったか忘れてしまったが、DarlingutonだったかDowraisだったか、そんなロールを何十個もも保管している一角を写した写真を見た記憶がある。Archive.orgの図だったかなぁ。


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