nagajisの日不定記。
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臥薪嘗胆、にしようかと思ったけど、シンプルに。臥薪嘗胆には賀正も元旦も入っていていいと思うんだ。
恒例の初詣の行列に並びながら
今年は、nagajisが煉瓦を宜しくする!
というキャッチフレーズを考えたのだが、よく考えたらロシア的倒置法になってないような気もする。そもそもの話「いつものことだろ」てな感じだ。かといって
今年は、煉瓦がnagajisを宜しくする!
というのもちょっとあれだ。受け身姿勢がまずよくない。
今年は吉。失せ物が近くに出るそうだし学問は努力すれば宜しいし旅立もさわりなしだし病気は思うよりかろしで何の不満もない。むろん出産は今年も易い。
大日本商工録と帝国商工信用録がリンクだけだったのに気がついて入力していたのだけれども、帝国のほうの大正2年版だったかの北海道編で面白いことを発見した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924260/687久保組
本部 久保兵太郎
北海道札幌区北6条西1-4
附属煉瓦工場4ヶ所
支部 久保熊蔵
東京市日本橋区元四日市町2
附属煉瓦工場3ヶ所
「本部」の久保兵太郎は何度も入力したので覚えている。北海道の著名な工場の工場主。付属工場4箇所というのも思い当たるフシがある。しかしその久保工場が「久保組」の本部であったことや、「支部」が東京にあったことまでは気が付かなかった。こういう連綿は工場通覧ばかり追いかけていては気づけない。
それでざっくり調べてみた。久保兵太郎は徳島生まれ。鉄道院技師だった父と北海道に渡って煉瓦工場を始めて大成。野幌煉瓦株式会社も彼の工場(会社?)。後に北海道商工会の頭取を務めたりもしている。 徳島においても北海道野幌においても偉人とみなされているような人物なんだそうだ。「日本煉瓦史の研究」でも書かれていたはずだがきちんと目を通してなかったなあ>北海道。
久保熊造は兵太郎の兄弟らしく、兵太郎の次男・久保栄からみて伯父にあたる。思い当たるものがなかったけれども、これまで入力したテキストを検索してみたら福島県や富山県に工場を有してた(前者は耐火煉瓦、後者は赤煉瓦)。東京在住というだけで別に東京府下に工場をというわけではなく、内地に対する本土における久保組の出張所として在って、本土各地の煉瓦を東京で販売していたということのようだ。いいなあ、こういう広範囲におよぶ連携は関西ではあまり見られない。せいぜい岸和田煉瓦→中国煉瓦くらい。それも煉瓦産業斜陽期の策。
父親が鉄道院務めだったということは、煉瓦製造の系譜も鉄道院流なんだろうか。鉄道寮は堺の官営工場→村井属→東海道線建設で天竜のあたりまで技術が伝播したはずというところまではわかっている。もしそれが鉄道院のデフォルトになってれば、場合によってはそれが北海道まで追いかけられることになるのかも知れぬ。ワクテカしないではいられない。
野幌名物煉化もちェ・・・
短い期間しか創業しなかった会社だが○ハの社章を使っていたようだ(c.f.帝国商工信用録第20何版)。○ハといえば加古川とか蹴上疏水のそばとかでも見つかっている。兵庫で比較的見るやつなので播磨か原田かはたまた播陽かと想像していたけれど、屋号として記録が見つかった以上そちらに寄せていったほうがよいかも知れぬ。三重から拡散していったとすれば蹴上でみつかったのも無理なく肯んじられる気がする。問題はその頃すでに中播には工場が充満しておったことで、その圧力に抗ってまでして運ばれなければならなかった蓋然性は低かろうと思う。
煉化石 造幣局
京都府下山城国相樂郡童仙房の土及び大阪府下摂津国東成郡天王寺野代田の土を採り鍬を以て打返し足を以て踏み捏して木型に按填し乾かし窯に入れ七昼夜焼成す
煉化石 芝口一丁目 林七兵衛
寛政元年より瓦焼を開業せしに明治八年鉄道修繕科御用中御届仏国人某より煉化石製造法を伝習し今此業を専らとす
製法 府下隅田川近村より出る荒木田の土を採り乾かし碎きて末となし銅線籮を以て淘し水を注ぎ鍬を以て練り筵を以て覆い置くこと四五日仏国の土を石臼に入れ鉄頭の杵にて舂き碎き末となし銅線籮を淘し前に練たる荒木田の土に之を百分ノ一加え又水を注ぎ鍬を以て練ること四五日捏して板上に載せ手を以て按し銅線を以て切り大略尺寸を予定し木套(ワク)に入れ按じ脱して板状に列し乾かし窯に入るる凡そ三千枚松片を入れ焼くこと二昼夜にして窯口を塞ぎ泥封し煙を籠めて焼く者は黒色煉化石煙を放ち焼く者は赤色煉化石なり
煉化石 [神奈川県三浦郡]長浦村 鈴木門四郎
製法 本人所有地の土を採り水を灌ぎ鍬を以て撹捏し木型に按填し型を脱し陽乾し窯に入るること二千三百枚松片を以てやくこと十八時間窯口を塞ぎ泥封し十二時間を経て窯を啓く
煉化石等 県庁[大阪府庁]
製法 田園あるいは池底の土を採り筵を覆い熟さしむること一夜鍬を以て練り砂を調和し足を以て踏み捏して型に填し板を以て四面を按じ型を脱□能く摩擦し滑ならしめ乾かし窯に入る石に赤色を発せしむるは窯火中に塩小許を投じ焼成す
品類 煉化石瓶鉢皿鍋擂鉢渠(ミゾ)瓦風炉湯婆(ユタンポ)酒■火閤(コタツ)玩弄陶像
p.35
煉化石 [三重県]県庁
製法 伊勢国朝明郡大矢知村近傍の山より出る青色砂土を採り乾かし末となし水を注ぎ練り模型に按填し型を脱脂乾かすこと一昼夜四面を板を以て打固め形状を平直ならしめ而して乾かし窯中に積み累ね窯門を塞ぎ泥封し窯窓より松片を投じ漸次に火力を増加せしめ一昼夜を経て窯中の火色雪白にして少しも暗色無きを認て窯窓を塞ぎ泥封し冷るを待て窯を出す
p.42
白煉化石 [静岡県]県庁
明治六年開場し水碓機械を設け窯を築く皆旧製作寮より建設する所なれども今は工作局の所轄たり
製法 伊豆国賀茂郡梨本村を距る二里天城山中小川に産する石を採り水碓を以て舂碎き万斛籮(マンゴクトヲシ)に過し水槽に入れ撹捏し木型に填実し鏝を以て按じ脱し板状に排列し陽乾すること一日再び銅型に填し螺旋機械を以て圧搾(ヲシシメ)し陰乾すること一二日陽乾すること三四日窯に排列し椴[もみ]片を以て焼くこと七昼夜冷るを待て窯を出す
工名 伊豆国賀茂郡梨本村 稲葉常松 板垣弥平 稲葉五右衛門
p.61
煉化石 信夫郡上飯坂村 石田佐吉
製法 同村字赤館より出る土を採り乾かし水を注ぎ翌日足を以て踏み又鍬を以て捏し粘土を一部調和し厚さ一尺方六尺に積み縦八寸幅四寸厚さ二寸の木型に填し箆を以て敲き刀を以て四辺を切り陽かわかし復た箆を以て摩し滑かにし窯に入松片を以て焼くこと十二時間火を止め窯口を塞ぎ泥封し又十二時間を経て窯を出す
p.61
煉化石 岩手県陸中国稗貫郡台村 小瀬川清志
製法 同国岩手郡台村饅頭山より出る白石を採り砂を去り槌碎き水碓を以て舂き末となし型に入れ脱し乾かし打堅め陽乾し窯に入れ一昼夜焼成す
p.77
煉化石 長門国豊浦郡神田下村 井上百介 製法 同村字大師山の土を採り槽に入れ水を注ぎ踏捏し挺となし寸尺を定め銅線を以て切り陰乾し石末を捺し木型に入れ型を脱し鉄箆を以て摩し滑かならしめ板上に列し陽乾し窯に入れ火力を弱くし松片を以て焼くこと十二時間後ち火力を強くし焼くこと復た十二時間火を止め窯口を塞ぎ泥封し十二時間を経て窯を啓く
p.79
瓦各種 伊予国野間郡浜村 大津四郎八外二名
製法 同国越智郡大三島風早郡小川村本郡波方村の土を採り練り捏じ型にて以て形を造雲母末を塗抹し陽乾し窯に入れ松葉松片を以て焼成す
品類 平瓦、円瓦、袖瓦、鬼瓦、巴瓦、唐草瓦、風切瓦、雁振瓦、水通瓦、竈、火炉、水板瓦、鳥襖瓦、黒煉化石
p.95以降の表から煉瓦関係を抽出
物名 府県名 製額 価格 開業年暦 工名地名 出品人名 (掲載ページ) 煉化石 明治6年2月 造幣局 p.84 煉化石等 東京府 150 亨保9年 本所瓦町 小林吉兵衛 p.95 煉化石等 東京府 1,000,000 150,000 小林七兵衛 p.95 煉化石等 東京府 16,500
(売額18,500)文政年間 加藤繁吉等 島田総兵衛 p.95 煉化石 東京府 300,000 18,000 明治8年 武蔵国足立郡宮城村
下川春次郎下川馬次郎 p.95 煉化石 東京府 1,400,000 8,400 明治5年 小台村 小泉弥吉 p.95 煉化石 東京府 720,000 4,320 明治5年 鹿浜村 小宮長次郎 p.95 煉化石 東京府 明治6年 葛飾郡上篠崎村 松原善左衛門 p.95 煉化石 東京府 100,000 700 明治5年 柏原要蔵 島村武兵衛 p.95 煉化石等 東京府 50,800 4,111 安政元年 葛飾郡金町村 細谷伊助 p.95 白煉化石等 東京府 340,000 10,020 明治7年 足立郡千住駅 小川利右衛門 p.95 煉化石 神奈川県 250,000 112.50 明治4年 長浦村 鈴木門四郎 p.97 煉化石等 兵庫県 明治6年 県庁 p.97 煉化石 三重県 50,117 250.60 明治6年 懲役夫 県庁 p.103 煉化石 静岡県 96,000個 4,490 伊豆国賀茂郡梨本村 稲葉米蔵 p.103 煉化石 福島県 30,000 300 明治8年 岩代国信夫郡飯坂村 石田佐吉 p.107 煉化石 山口県 50,000 700 明治3年 (長門郡豊浦村神田下村) 井上百介 p.122 黒煉化石 愛媛県 2,820,000 12,300 (伊予国野間郡浜村) 大津四郎八等 p.123
第一法令出版『日本科学技術体系17』第6章「煉瓦の生産とその建築」に出品解説の抄録があるけれども小川利右衛門だけを白煉瓦製造としてたりする。静岡県の出品は梨本村の土を使っているから耐火煉瓦であるはずだし、岩手の小瀬川工場も白石を用いってある以上耐火煉瓦なはず(そもそもそうか、最後の付表に名前がないのだ)。一次データの検分も甘め(なので大阪府庁の誤りが見抜けてない)。
静岡県出品の工者・稲葉常松は福島県や新潟県でも出てくる名前。同じ人物かどうかは現時点ではわからない。福島の稲葉工場はM27頃、新潟のはM42頃。
上記資料と『明治工業史』煉瓦の章には三浦乾也の名はなし。明治工業史の建築もしくは窯業全般のところを見るべきか。あるいは日本窯業史?