nagajisの日不定記。
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表の印型と底の印型を3種ずつ。菱Sは思っていたほど鮮明でなく、型を取るのに苦労した上、煉瓦自体が脆いため型取り君が茶色になってしまった。数回使いまわしたらダメになるんじゃないか知らん。まあどうせそこまで厳密な型取りには使わないだろうし使えもしないが。
どこまでが工場主次男としての久保栄が語る真実なのか、どっからがプロ文学者久保栄のフィクションなのか、見極められたら面白かろうと思いメモしながら読んでいる。まだ冒頭の1/5くらいしか読めていないがまこと興味深い。
煉瓦造りの描写なんかはまったく正しいと思う。北炭に相当する親会社が日露戦争後にアームストロング社と提携して室蘭で製鉄を始めるというのもその通り。ただし機械導入をふっかけた海軍技官も礼太郎=久保兵太郎もM39時点で機械成形煉瓦を知らないそぶりなところ(礼太郎の「東京近辺の煉瓦はどこも手成形」的発言、海軍技官もイギリス視察でそれを見て文明の最先端みたいな認識をしてる)は、それはなかろうもんと思ったりもする。日煉などはM21の創業時から機械成形だし諸井の『煉瓦要説』はM38だし大阪窯業だってM33?には機械成形を始めている。東京じゃ他にも動力使用の工場がいくつかあったはず。
とはいえ確かに、野幌煉瓦は統計書M40版から原動機の記載が始まっている。原動機がある=機械成形をしていると見てよいと思う(土練だけ機械とは考えにくい・たいていそれに圧搾機とか切断機がくっついている)。日露戦争の終結がM38、戦争で負傷した煉瓦抜職人・大平が帰国後1年ほど田舎で過ごしたあと野幌に戻り、その翌年の正月会で機械導入が告げられる、となるとまさにM40導入ということになる。
骨格は史実だとするといろいろ興味深いことが引っ張り出せそうである。例えば登場人物の一人である古参の頭目は「碓井線の煉瓦を焼いていた頃から養助の下で働いている」云々とある。養助=久保栄太郎=兵太郎の父で、その頃から久保組が鉄道用煉瓦を焼いていたことになる(野幌工場が出来た当初は「久保組」とは言わなかった。礼太郎が来てから工場主の座を譲った時に改めたとある)。また養助と共に北海道に渡った恵太郎(礼太郎の弟)は「信越の鉄道の煉瓦を焼きかけで来た」。辺鄙な所の工事では現場近くに臨時に工場を作った例は多いが(このへんは小野田氏『鉄道と煉瓦』表参照)、それを久保組の前身がやってたとなると、その頃の煉瓦には共通の特徴があり得ることになる。逆に野幌の煉瓦製造に鉄道院流が加わっていると言えたりするのかも知れぬ。久保組となる前の久保栄太郎の事績を調べてみたいものだ(このへんは『鉄道建設請負業史』上巻だろうか?)。
福島編の最後に突っ込んだ旭煉瓦工場の件『会津史談』No.なんとかの記事にも当地で魚住組傘下久保組が煉瓦を焼いたという話が出てくる。熊本でもM34だったかに久保組が工場を興して10年位操業してたはず。それが鹿児島線とか肥薩線とかに行っているようだ。