nagajisの日不定記。
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朝の寒気一入寒し。然れども臨時外出したる者二十七名なりき。予は熊本市に外出をなす。吉武にて写真をうつり、偕行社にて食う予定なりたれど、食わずして復る。服装検査におくれたる三十余名は午前中外出止めになる。午後は十四時より集会所に遊び、酒保へも亦行く。
昭和十七年春場所大相撲は今日を以て千秋楽をつげ、十四勝一負を以て双葉山の優勝となる。五ツ島は残念にも休場せり。
今日より大寒期間に入り我が熊幼は克寒週間と之を名づけてなるべく窓を開けて又前項暖炉を用いず寒に負けず之を克服するに努力す。午後は自習・剣術・愛校作業にて剣術の際は何時に無く力を入れてなしたる故特に力が遺憾なく発揮し得たり。真剣味が大切なること痛感したり。町田生徒監殿は三年の訓練旅行地視察の為長崎・佐世保・太宰府・久留米・耶馬渓方面に出張され留守なり。昨日に同じなり。
小人(せうじん)なので閑居して不善を為している。時事お笑いネタ、3つの技術的問題点の第一段階をクリアしたものの、第二段階でつまづいて、こんなこともあろうかと用意していたフェーズBに移行した。写真はその成果物。実はこの後精度の難が発覚して同様のものを作っている。これだけで2日潰れた。
余計なものに手間をかけるのはnagajisの悪い癖だ。しかしその癖を磨き上げれば突き抜けた何かになれるかも知れない。これまでずっとそうしてきたし、今後もたぶんそうして生きるだろう。おれは損な人生で構わない。完成しなかったら、まあ、それまでよ。
旧橋13の後編を90%書き上げ、14を90%書き上げ(メモランダムがつくかも知れないが未定)、廃読を先行して進めている。で本日、TRDBのネタ×2(すでに倶楽部で公開している隧道の追加情報)、北摂線描のネタを仕入れてきた。やばいのは徳川道だ。
徳川道はこの先が最難関になる。航空写真、当時の地形図、その他を駆使しても道筋が判然としない個所が中盤にある。これをクリアしさえすれば・・・なのだが。
あと、今回は「なぜ廃道なのか」書かなきゃとも思う。結局おれの企画になるのか・・・という思いはある。誰も喜びゃしないったら。
tDiaryの新しい版が出たというので先日入れ替えてみたのだが、参照元スパム対策が施されたせいか、参照元リンクが表示されなくなった(設定を変えてもなんしかうまくいかない)。寂しくなるが、まあいいか。時期を見てもう少し設定を学ばんと。ちなみに更新用ページには表示されている。
奇妙なポテンシャルとまではいかないので独言。本日見つけた店。焼肉と麻雀まではかろうじて脈絡がありそうな気がするが、続く緑色の文字によりカオス化が加速する。刀剣を売っているのだろうか。刀剣で遊べるのだろうか。リーのみ裏ドラ6とかであがったら袈裟に斬られた上で焼かれたりするのだろうか。そういう殺伐とした想像とは縁遠い、ちょっとポエジーな建物なのもかえって恐い。
そうしておいて奇妙なポテンシャルについて考察するnagajisは卑怯だ。
柳田國男「巫女考」に、土佐国でのとある神事の事が紹介されている。主人公となるのは十歳より十二三歳までの童女二人、七日の決済の後に白粉装束にて祭祀に望む。祭の朝その耳に神主が祓いの文言を囁けば忽然と眠りに落ちて神輿遊行の間はもとより祭が終わるまで眠り続けるという。かの二人は神の依りたまう形代になるわけである。
で、目を覚まさせるには二つの方法が伝わっている。一つは白粉を落とすという方法、もう一つは額に墨で「大」の字を書く、というものである。
なぜ「大」の字なのかは翁も説明されておらぬ。「人」ならば人心に戻るという意味が導かれ得ると思うのだが一本少ない。逆に一つ点を増やしたらちょっとどうかということになってしまう。人権蹂躙である。やはり「大」なのだろうなと思い、その意味をつらつら考えているうち、突然
額に形容詞を書くと意味深だ
ということに気づいた。
額に「大」。何が大きいのか。お鉢が大なのか意識が大なのか、あるいはそれ以外の何かが大なのか。考えさせるではないか。「肉」「米」「骨」などの名詞を書く例は今日においては特定の人物のイコンとして定着しておりまたそれを真似ることへのコンセンサスが得られている。それはもはや奇抜でも酔狂でもあり得ず、時にはある種の哀愁まで引寄せてしまうことがある。これからはやはり形容詞であるべきだ。
例えば「悲」。わかりやすいストレートな状況説明になり得る。書き言葉の末尾に(悲をつける例があるがそれが回り回ってボディランゲージへと戻ってきたと考えればよい。出勤前通学時に悲しい出来事があったならそそくさと額に悲。どんなオフィスでも、忙しくて構ってもらえない場所でも、きっと誰もがあなたの置かれた状況を察してくれることだろう。
例えば「長」。話の回りくどい上司と顔をあわせる打合せ、堂々回りを繰り返すばかりで時間が過ぎていく会議、そういう場に望む時には額に長。微妙に意味が取りにくいところがミソだ。相手はそれがなぜ長いなのかを考えるうち己に非があることを自ずと悟ってくれることだろう。余計な軋轢を産むことなく、その場をうまく切り抜けられるに違いない。
という処まで発想がいって我に返った。オチはない。そんな超人がいたような気もしてきた。
「30分でわかる」と銘打つ限り30分で終わらせなければならない訳だが、そうすると追加したところを全削除することになる罠。練習もしんどいぜ・・・一回確認するのに30分かかる(当り前だの薄荷飴)。
twit って「ぶつくさ言う」っていう動詞だとばかり思ってたッ!
こっちも進めねばならん、ということで戻ってくる。寝かし気味だったのをup。ぴろりろりろ♪ぴろりろりろ♪ぴろりろりろ♪ぴろりろりろ♪ とサウンド的には宜しいが結構な難産だ。既出ネタの新切り口を探すのに苦労した割に断面が鈍いぞ。バラノコでギコギコ切ったか刃こぼれしたナタで切り倒したかした大木みたいだぞ。と。
まさかリターンがあるとは思ってなかったダス・・・。素直に感謝ッ!有難く頂戴ッ! そして予想外の0.4mm芯ッ! 苦労して本体探してきた回が、もとい甲斐があるというものです。
もみもみーしたらいーですよー
というフレーズのCMが昔あったような記憶が蘇り、頭の中をぐるぐる回っているのだが、何のCMであったか、何を揉むんだったか、及び果して本当にそのようなCMが存在したのか覚束無いでいる。気になって気になって仕方ない。しなければならない仕事に手がつかない。楽譜に起こして示せればよいのだがそういう能もない。ただひたすら不明な対象物をモミモミし続けている。どうしたらこのモミモミを解消できるのか。、いや、モヤモヤを解消できるのか。漢字で書けば樅樅だ、木人人止繰り返しだと喚いてみたが効果があるはずもない。
そもそも何でこんなフレーズを思い出したのかよくわからない。性的な欲求不満がポークなわけでもないしモミモミされたいわけでもないはずなんだが。一体何が?と自身に問いかけてみても返事がないのはいつものことだ。
「もみもみ」ではなかったような気もする。CMの替え歌?であり元歌の要素は「したらいーですよー」の部分だけではなかったか。そう思って検索してみるがそれらしいページは見つからなかった。もちろん「もみもみ」込みでも出てこない。ある種の幻覚なのか。見えてしまった死兆星か。
結局のところ喩え話というのは自身の説に有利なものを恣意的に幾らでも援用することができるわけで、喩え話で人を納得させるというのはある種の詐欺なんではないかと思う。諺も然り。「思い立ったが吉日」と「急いては事を仕損じる」は同じ『諺』でありながら真っ向から対立している。一方のあることを敢えて無視しないと使えない。喩え話や諺そのものに価値はない。むしろ使わないほうがましであり例えや諺を多用する人の話は眉唾で聞かねばならぬ。言葉でうまく丸め込もうとする時、威勢をつけるために使われるというまでで、それはちょうどバタフライナイフをシュッ・シュッするようなものだから。
ということを、寝ぼけた頭が「書け」といっている。何かへのあてつけでも縦読みでもない。最近喩え話が多くなったnagajisへの警鐘だ。
脳から垂れ流しの文章を書くのは気が楽でいい。誰に当てたものでもなく気遣いする必要もないここに書くのは気が楽だ。内容など二の次でわけのわからないことを語感とリズムだけでてけてけ叩き打ちたくなる、無性に書きたくなることがある。その衝動に任せて書き連ねていると眠くなる。ある種の睡眠導入法かも知れぬ。書いたものに責任を持たずとも既出フレーズ慣用句の頻出を厭わずともいいのが楽だ。これくらい楽に原稿書いたりメールしたりしたいものだ。その結果どうなるかはさておきだ。
そして今年も長浜ボンバイエが始まった。滝に打たれた女性が「水が冷たかったので今年はいい年にしたい」と語ったというニュース原稿に反応したりもした。室生犀星とスロー再生の相似性に思いを巡らせ「論破ルーム」の恐ろしさを怖じる何も変わっちゃいない35回目の冬である。
朝日新聞大阪版1888年5月2日朝刊4ページより引用。
●煉瓦の製造額 輓近建築工事の盛んなるより煉瓦の需要頗る多く孰れの製造所も多忙を極むる由なるが今是が一ヶ月の製造額を取調べしに一万以上を製出する所は左表の如くなるよし
製造所名 所在の地 一ヶ月製造額 浅田組第一工場 西成郡野田村 耐火 二万五千 第二工場 同 難波村 五十四万 共栄組 同 同 二十万 煉瓦石製造会社 豊島郡小曽根村 三十万 西の宮煉瓦製会社 西の宮 三十万 協煉瓦製造会社 堺 四十五万 旭商社 同 四十万 成金社 同 三十万 稲荷組 同 三十万 原口煉瓦製造所 同 四十万 青山組 同 二十万 佐藤組 同 三十万 花岡組 同 二十万 作田組 同 二十万 三栄組 住吉 三十万 真善会 同 二十五万 小山組 同 十万 岸和田第一製造所 岸和田 四十万※ ※数日後に訂正記事があり、岸和田第一製造所は百二十万とされている。
「製造額」とはあるけれども生産個数のことらしい。一ヶ月に10万円も20万円も稼いでいたらウハウハ過ぎる。
朝日新聞東京版1897年4月15日朝刊6ページより引用。
●大阪の煉瓦製造額 近年鉄道、船渠、築港、家屋其他種々の土木事業続起し随いて煉瓦の需要日一日増加するより大阪府下の煉瓦工場の如き孰れも非常の繁忙を極め現在組合を組織し居る工場のみにても昨二十九年中の製造高及価格を挙ぐれば
工場 個数※ 価格※ 堺煉瓦会社 651万個 1万6155円 岸和田煉瓦会社 1003万3470個 5万6266円50銭7厘 貝塚煉瓦会社 481万3260個 4万1201円51銭 大阪窯業会社 255万4781個 1万7101円79銭 三栄組煉瓦製造所 220万個 2万1500円 若井煉瓦製造所 262万9500個 1万8177円57銭 旭煉瓦会社 199万80個 1万9900円90銭 附洲煉瓦製造所 191万9400個 1万7114円10銭 日本煉瓦会社 114万7655個 1万3198円3銭 丹治煉瓦製造所 167万8900個 1万2788円52銭 東洋煉瓦製造所 96万個 7680円 湊煉瓦白地合資会社 20万個 900円 大阪土木会社煉瓦製造所 129万2381個 2万248円60銭 石井煉瓦製造所 62万個 4216円 福島煉瓦製造所 46万5000個 3552円50銭 子師煉瓦製造所 74万2147個 6451円86銭 大津煉瓦製造所 5万個 500円 計 3980万6586個 31万7177円89銭 にして此他組合に加入せざる工場は八十以上に及び白地製造工場も会社と一個人とを合すれば殆んど百に垂んとする大数に上り実際同府下にて製出する煉瓦の数額は誠に夥しきものなり而して需要は益々加わり供給は愈々不足を告ぐるより追々粗製濫造の弊を生じ将来建築上に危険を来さん虞もあり且は右の如く数多の工場続々起るより自然職工争奪の紛糾を起すこと尠なからず未だ紡績職工の如く甚しきには至らざれども早晩一大紛議を醸さんも測る可らざる状況あり因りて前記の十七工場協議の末急に組合の規約を改正して有らゆる同府下の同業を加入せしめ粗製乱造及び職工争奪の二弊を除去せんとて目下考案中なりと云う
※原文漢数字を数字に改めた。
というわけで明治30年にはすでに煉瓦業組合があったことがわかる。というより明治33年3月7日に産業組合法が出来たから正式に申請したってことなんだろうな。
上にも出てくる千体村の三栄組煉瓦製造所。朝日新聞大阪版明治20年10月1日朝刊に広告が出ていた。「三栄」だから三本線を組み合わせた社章なんだな・・・って、これ、宮崎商会>堺煉瓦石のと一緒じゃん(汗
時系列では宮崎商会→堺煉瓦石広告(明治20年9月17日付)>三栄組広告(明治20年10月1日付)の順。南附洲新田濱に堺煉瓦石なる会社が成立した形跡は(大阪府統計書等の文献では)確認できていないので、濱に作ろうとしたのを止めて三栄組になったのかも知れない。三栄組のほうは稼働実績がある(上記M21の産額など)。
ひどくややこしいことに、同じような配置の三本線刻印は愛媛の三津浜煉瓦も使用した。さらには戦後の播州煉瓦合同もこれを使った(バンレンと名を変えPC製品を製造している現会社もこれを社章にしている)。
小曽根で見つけたこの刻印は播州煉瓦合同のものだろうと思う。
加古川市西神吉町岸で見つけたこれとほぼ同じなので。三本線がくっつかないのが三津浜煉瓦なのかも知れない。十三にある、三本線で機械整形のものなど。
これも小曽根の旧市街で。横山耐火煉瓦?と思ったがNが説明できない。YaNoKo?なわけないか。あとSKグレード表記の「S」が逆さま。刻印原盤を作るときに見たママを彫りつけてしまうミスは案外多かったのかも知れない。和田煉瓦のワとか、大正丹治の逆バージョンとか。
これは玉手(旧勝間村)で。キシレンの St, Andrews cross と一本線が入っている。機械整形の擦り傷が長手間に渡っているのでキシレン自慢の米国チャンバーブラザーズ社製裁断機によるものではない。同じキシレン刻印の煉瓦でも違う機械によるものがある。これをキシレン内の別の機械によるものと見るか、後年普及型裁断機にリプレースされたと見るか、他の工場がキシレンに納入するために普及型裁断機を使って作ったものと見るか。煉瓦の質は手整形+キシレンクロスのものに比べてひどく劣っている。土が違う気がする。一本線が何かのヒントかも知れない。
三石耐火煉瓦製。JISマーク入。これも勝間村で。
ここ10年分の記憶を残したまま10年若返るという夢を見た。そうなるに至るストーリィも妙。ある日突然悪魔が出現し「最初に私とコンタクトを取った者にあるものを与える」と言い出した。悪魔であるうえその何かが知らされなかったため誰もが怖気づいて近寄らなかったのだが、慢性的に厭世・絶望している私がそのコンタクト役を買って出た。生きていても何もいいことがない。生活も苦しいし体もガタがきている。どうにでもなれよかしと。人生最後の経験として悪魔とやらと会ってみようと。しかしそんな挙手を見た何人かが「俺も俺も」といい始め、結局複数人と競争のようになってしまう。
ロードランナーかスペランカーみたいな擬似三次元平面のダンジョンを走り回り、一人また一人と出し抜いて最後の梯子のところまで到達した。その梯子にはすでにいがぐり頭の男(彼が最後の競争相手だった)がいて、今まさに登らんとしていたのだが、私の姿を見た途端に梯子を譲って寄越した。梯子を登れば悪魔がいる。登ればタダで帰って来れないだろうことは誰もがうすうすわかっている。そんな最後の転回可能地点を前にして彼は怖れをなしてしまったらしい。怯える気持ちはわかる。自分だって怖い。悪魔なんだからきっと死ぬんだろうと思う。それを正直に怯えて辞退するいがぐり頭氏に敬意に近い感情を抱きつつ梯子を登った。
梯子を登り切ると細長い通路状のフロア。床だけで手すりのようなものはない。進んでいくと下から悪魔の声がして筒状の布を渡された。直径が50cmくらいありそうな白い筒で、その中を通して何かを渡してくるらしい。筒布に腕を突っ込むと、何やら ゴツゴツした 書籍の束のごときものの感触。サイズが異なる単行本を3、4冊束にしたような感じだった。これが「あるもの」なのか、と思ったのが、この場面で覚えている最後の事象である。
k気がつくと私は10年前の世界にいた。ORJを始める前の、まだ会社勤めしていた頃の世界。体の調子もその頃の元気さ。あ、時間が巻き戻された、 これが悪魔の「あるもの」の効果なのか、と思うと同時にそれまでの経緯を覚えていることに気づく。単に巻き戻されただけなら悪魔云々なんて憶えていないだろう。ORJが失敗に終わったことも思い出せないはずだ。
ああなるほど、ORJすらなかったことにして、自分のやってきたことを一切無に帰すという罰なのだな。しかも失敗したという記憶はそのままで。失敗したことすら誰も知らないのだ。
それでもまたやるのかい? と自分に問うてみて、もういいやと思ったところ、気分がすっきりした。晴ればれとした。やったという記憶はあってもモノは何一つ残らなかった。黒歴史が未来永劫残るより、嫌な思いをしたことを抱えて生きるほうがまだましだろう。さあて、巻き戻された10年間を何に使おうか。どんな有意義なことに使おうか。しかし結局は同じようなことをして無駄にするのだろうな。そこも含めて悪魔との契約なんだろうな。
というところで目が覚めた。
覚めた直後は結構ユニークなストーリーだと思っていたのだが文章にしてみると何とも陳腐である。ラジオ体操第一の2番目の体操程度のひねりすらない。ていうかこれが夢だったということ自体が悪夢なのかも知れぬ。
表の印型と底の印型を3種ずつ。菱Sは思っていたほど鮮明でなく、型を取るのに苦労した上、煉瓦自体が脆いため型取り君が茶色になってしまった。数回使いまわしたらダメになるんじゃないか知らん。まあどうせそこまで厳密な型取りには使わないだろうし使えもしないが。
どこまでが工場主次男としての久保栄が語る真実なのか、どっからがプロ文学者久保栄のフィクションなのか、見極められたら面白かろうと思いメモしながら読んでいる。まだ冒頭の1/5くらいしか読めていないがまこと興味深い。
煉瓦造りの描写なんかはまったく正しいと思う。北炭に相当する親会社が日露戦争後にアームストロング社と提携して室蘭で製鉄を始めるというのもその通り。ただし機械導入をふっかけた海軍技官も礼太郎=久保兵太郎もM39時点で機械成形煉瓦を知らないそぶりなところ(礼太郎の「東京近辺の煉瓦はどこも手成形」的発言、海軍技官もイギリス視察でそれを見て文明の最先端みたいな認識をしてる)は、それはなかろうもんと思ったりもする。日煉などはM21の創業時から機械成形だし諸井の『煉瓦要説』はM38だし大阪窯業だってM33?には機械成形を始めている。東京じゃ他にも動力使用の工場がいくつかあったはず。
とはいえ確かに、野幌煉瓦は統計書M40版から原動機の記載が始まっている。原動機がある=機械成形をしていると見てよいと思う(土練だけ機械とは考えにくい・たいていそれに圧搾機とか切断機がくっついている)。日露戦争の終結がM38、戦争で負傷した煉瓦抜職人・大平が帰国後1年ほど田舎で過ごしたあと野幌に戻り、その翌年の正月会で機械導入が告げられる、となるとまさにM40導入ということになる。
骨格は史実だとするといろいろ興味深いことが引っ張り出せそうである。例えば登場人物の一人である古参の頭目は「碓井線の煉瓦を焼いていた頃から養助の下で働いている」云々とある。養助=久保栄太郎=兵太郎の父で、その頃から久保組が鉄道用煉瓦を焼いていたことになる(野幌工場が出来た当初は「久保組」とは言わなかった。礼太郎が来てから工場主の座を譲った時に改めたとある)。また養助と共に北海道に渡った恵太郎(礼太郎の弟)は「信越の鉄道の煉瓦を焼きかけで来た」。辺鄙な所の工事では現場近くに臨時に工場を作った例は多いが(このへんは小野田氏『鉄道と煉瓦』表参照)、それを久保組の前身がやってたとなると、その頃の煉瓦には共通の特徴があり得ることになる。逆に野幌の煉瓦製造に鉄道院流が加わっていると言えたりするのかも知れぬ。久保組となる前の久保栄太郎の事績を調べてみたいものだ(このへんは『鉄道建設請負業史』上巻だろうか?)。
福島編の最後に突っ込んだ旭煉瓦工場の件『会津史談』No.なんとかの記事にも当地で魚住組傘下久保組が煉瓦を焼いたという話が出てくる。熊本でもM34だったかに久保組が工場を興して10年位操業してたはず。それが鹿児島線とか肥薩線とかに行っているようだ。
_ bnb206 [>「論破ルーム」・・・・・・こ、こ、こえぇぇぇぇぇ((((>_<))))]
_ nagajis [良い子も悪い子もみな等しくみどりおねいさんに論破されていくのです・・・ そして次のカットではクマちゃん人形に置き換えられ・・・ 一人・・・また一人と消えていく・・・]