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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1942-03-03 この日を編集

[陸幼日記]三月三日 火曜日 晴

近日めずらしき晴日にて雲なし。午後は教練ありて、その際修理に出してより靴を始めてはき、気持よく脚軽く一時間が行われぬ。交換駈歩三十分あり。主要行事とて別になく平凡なる日なりき。


1943-03-03 この日を編集

[陸幼日記]三月三日 水 晴

八時坂本さんを校門に見送りぬ。修身は校長殿訓話なりき。修身正手簿へ記す。午後体格機能力検査なりき。
 走幅跳 四米九十糎
 手榴弾塔敵 四十五・五米
 二千米 七分三十秒
総計四十三点にして相当に進歩したり。
十七時より末藤中将閣下(本校第十期生)の訓話あり。
本校の伝統的精神につき
 一、熱誠なること
 二、戦に強い
  武士道とは死に透徹することにして、死を恐れないから勇敢になる。自由思想を捨てよ。
 三、情誼に厚く、恩義に感ず
  蹶起の小勇にはやる勿れ。
 四、勉強はやれ、然し目的をあやまらざる如く所謂試験の為の点取り虫になる勿れ。将来の大成を目的に勉強すべし。されば欲も出ず将校となりて進歩せん。点取りなれば其の時は出来ても後の進歩はなし。
予は今日校長殿・末藤閣下の訓話により、其の目的を知り安心して勉強し得る気分になりたり。頗る良好なり。


2010-03-03 この日を編集

[独言] 逃避じゃないよ

日曜日に川上村へゆくことになった。お仕事ざんまいな一日になりそうだ。

[奇妙なポテンシャル] #153

ヨイショするわけではないがisoさんのblogが相変わらず興味深い。鉄道橋梁の考察などはさすが筋金入りの鉄人、私など足元にも及ばないと思う。「ゲシュタルト崩壊と言葉・文字」も素晴らしい。「奇妙なポテンシャル」などという適当な語でお茶を濁したりする私とは違い適格な語を以て事象に正しく向き合い考察されている。言葉を扱う者は須くかくあるべしと思う。

私もよく文字のゲシュタルト崩壊を起こす。「感」など拡大してしまった日には必ず混乱し鬼太郎を連想する。

画像の説明

画像の説明 要はこういうことである。

本日のツッコミ(全16件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ 渡辺(仮) [大阪行きますよ!先週も新大阪泊でしたので(ここに書くな)]

_ nagajis [わーいカオスだー♪]

_ とと [ヒャッホ〜]


2011-03-03 この日を編集

[コアダンプ] 例えばその・・・

書いても仕方ないことや反感を買うであろうということを書いたところで何の益にもならないことは重々承知している。愚痴とか諦めとか疲れとか絶望とか。では黙っていればそれでいいのか、というより黙っていられるかと言わればそうでもないだろう。話してすっきりするという効能はあるのだし「ものいわぬは腹ふくるるわざなり」と兼好法師も言っている。人生を振り返ってみて、失敗談、辛い話、そういったものを誰かに話して共有したら肩の荷が軽くなったという経験をもつ人もいるんじゃないか。

とは言っておくが、そういうのを期待して書いているのではないことをご承知置き願いたい。仕方のないことをだだ漏らしに書き、反感を買うために書いている。腹にたっぷり愚痴とか諦めとか疲れとか絶望とかを仕舞い込んでいるから近寄るなという警告のために書いている。理由はそれだけだ。

[独言] 大正2年三重県会の紛糾

波瀬選出の佃議員が自ら否に回ったのには2つの理由がある。一つは態勢を立て直して再建議するため。もう一つは高見峠を犠牲にすることで四角工事の三角を生き延びさせようという骨肉の策であったこと。そこを見逃してはいけない。政争の具にされたという点では変わらないが単なる哀話ではない。頭に浮かせて載せていた卵をたたきつぶして「これで満足か?え?坊ちゃんたちよ」と言っている、その卵であったということだ(ちょっと違うか)。

再三再四の延会とその内容を把握すべし。しかし松阪の人の反対理由が然としない。なぜそこまで反対する理由があったのか。おそらくただ一つだろうけど。

[] 三重県史研究

近現代史に関する論(創刊号と第3号)を思わずコピーしてしまう。常々感じていたことがそのまま書かれているから。近現代史観が確立していないところへ心棒としての新三重県史という位置付けになると思うのだがその結果が資料編だけというのはひどく試されている気がする。それだけ仔細に研究されていず、まとめるのが難しいということだろうか。

要するに「耳に心地いい音楽」だけ選り好んで聴いているようなもの。本人は至って真面目な学徒のつもりでいるが基礎のキの字もないド素人である。一番迷惑なタイプ。まあ誰も相手にしてないし、そのうち誰かが片付けてくれるだろ。

よう考えたらこれ三重図で読んでるんだな。昭和9年○月×日!(日付失念)で思い出した。創刊号に昭和の矢ノ子峠改修に関わった人の回顧録がある。

[] 展開

T2の廃案後も波瀬以西の改修は続けられたんだな。案だけでポシャったわけではなくそのきっかけとなる工事と続きの工事があったということか。ちょっとこの頃の流れが不透明になってきた。

考えてみれば野又でやったような統計っぽい手法が使えるのだよな。改修・修繕費の項目は明治初期からあったっけ? あとで要確認ただし「3」には間に合わない。あと上市街道ってどっかで見た気がするんだが・・・

[独言] むう

あれを…するしかないのか。完全にストーカーだ。


2012-03-03 この日を編集

[独言] 保護レンズ割れた

画像の説明何かの拍子でカメラに衝撃を与えてしまったらしく,さあ撮ろうと思って取り出したら保護レンズが割れていた.レンズキャップがめり込んで圧割した感じ.このカメラ(S200EXR)で割るのは2回目だ.今回はどこでやったのかとんと見当がつかぬ,と猫風に回想してみる.

前のカメラ(S9100)でも何度かやった.赤西林鉄へ行った時も落として割った.そんなんだから保護レンズがないと怖くて持ち歩けない.そもそもカメラを落とすなという話だが.

そういえば,と思って小箱を漁ったら一枚出てきた.前記事で買ったものだと思う.傷が入ってヤな感じになってしまい,改めて315えんで買ってきたのを今回割ったのだ(と思う).ないよりはましだ.


2013-03-03 この日を編集

[道路元標][近代デジタルライブラリー] 大阪市道路元標

土木部所管事業概要. 昭和13年版に興味深い記述を発見。

大阪市道路元標 大阪市道路元標は、大正十一年内務省令第二十号に依り、二十五糎角、高さ六十糎の花崗石材に「大阪市道路元標」と彫刻し、これを市役所前に置く。その位置は、御堂筋中心線と、市庁舎玄関中心線との交切地点、即ち市電軌道敷中央板石中に埋設して、鋳鉄板に元標の位置を示している
(強調筆者)

上の文章を文字通りに取ると、軌道敷の石舗装の下に道路元標を埋設し、その上?に鋳鉄板を載せてその位置を示していたことになる。本当だろうか? 道路の基準だから道路の真ん中にあったほうが便利がいいだろうことはわかるが、それって T11内務省令第20号の 「道路端のわかりやすいところに桶」っていうのに違反するんじゃね?

と思ったら、この条、ちゃんと例外規定があるのだな。

第二条
道路元標ハ別記様式ニ依ルヘシ
第三条
道路元標ハ其ノ位置ヲ表示スル為道路ニ面シ最近距離ニ於テ路端ニ之ヲ建設スヘシ
第四条
特別ノ事由アル場合ニ限リ前二条ノ規定ニ依ラサルコトヲ得
(強調筆者:第四条はT14.9.24内務省令第15号で「監督官庁ノ許可ヲ得テ」の字句が削除されている)

どんな「特別ノ事由」があったかは知らぬが・・・(なるほど、だから内務省令型でない元標も存在し得たのか)。

画像の説明現在の大阪市道路元標。昭和27年の(新)道路法に伴って市内の国道の起終点が梅田新道の南の端に移り、翌年その場所に道路元標を設置、その後道路拡幅の際にこれが新設されたという。側面にある黒御影石の「大阪市道路元標」の文字は昭和28年設置当初のものを流用しているらしい。隣に設置されている解説板にそう書かれている(S28に置かれたものもこんな感じのオブジェ的な標だったようだ)。なお上に載っているのは測量錘のオブジェである。品がない色だがまあ悪くはない選択だろう。

で、T11の道路元標はどこへ行ったのだろう? まさかこの下に埋まっているのか? それとも元の場所に埋もれたまま? 何となくだが後者っぽい気がする。 

画像の説明

現在の大阪市庁。向かいに日本銀行大阪支店の建物が残っていて、その正面玄関とは少しずれた位置に玄関がある(市庁のほうが5mほど北にある)。この写真に写っている御堂筋のどこかにあったはず。ひょっとしたら今でも埋まっているかも知れない。

画像の説明

本日のツッコミ(全7件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ kzm@姫路 [なるほど。 でも折角の文化人枠なので、 ご自分の納得できる物語に修正されるのも一興かと。]

_ nagajis [いや、あれ、本人が修正したらあかんらしいんですよ。自分のことだからといってソースなしに書き換えるなって。 ORJでよければソースあるんだけど。どっちみち信用できひんやろー]

_ ヒョウタンツギ [そうなんですか。客観性を保つためか。 でも、なら今のデータのソースはと突っ込みたくなる。 もっと有名になっていただくしかないのかな〜。]


2014-03-03 この日を編集

[独言][Web]

メーリングリストを作ろうとしたら設定がふっとんで焦った。バックアップも反映されねえんでやんの。多分サブドメイン拵えたうえでそのドメインでML作ろうとしたからMailManのフォルダとサブドメのがバッテングしたんだろーと適当な理解。解決方法は時間。

[KINIAS] サブドメイン

間借りしていたxreaが容量不足になってしまった。ということはenlのMLも設置できない。いろいろ思案した末kyudou.orgの下に持って行くことを決意。私物化しよう。

[独言] 通報ボタンの鍵

画像の説明

こんなのにも工マーク入ってるんだなあと関心した。あ、いい誤字だ。

[] 大阪府誌M36

いつのまにコピったのだろうあの本を(うむこれは盗作だ)。何故か本棚に該資料があってM34調の補助里道一覧が載っておった。補助里道制度は明治19年に成立し20年度より実施。ただし当初は河川と同様のざっくばらんさ。ザック・バランサー。荷物の偏りを解消するために重石として入れる煉瓦のこと。

これを使えばもう少し正確に路線を追うことができるだろうがあまりに多いので一気にやる気が起きない。その前に府下の地形図を揃えるところから始めたほうがよさげ。

縦貫線・横断線の分類は府誌独自のものだろうな。支弁法ではそんなふうにはなっていない。

[ph.] 新町高架橋

画像の説明役立たずに終わった高架橋と件の生活空間の組み合わせが哀愁。未成線ではなく廃線だったらまた違う印象を受けるんだろうか。稼働中のだったらただの下町でしかない。


2018-03-03 この日を編集

[きたく][奇妙なポテンシャル] BES

あまりの寒さで陰嚢が縮み上がり股座にめり込んでしまう現象を

ボース=アインシュタイン凝縮

と呼ぶことを提唱したい。

低温のため金玉のスピンが揃ってしまつた状態に違いないと思うからだ。

[橋梁] 上戸川橋梁

画像の説明 木津駅北方の橋台が興味深い。片町線のには大阪窯業「改」+「カナ」+「釘」+社章と岸和田煉瓦と漢数字刻印が同居している。木津駅に達した明治31年という年度がかなりのミソと思われる。

現奈良線が載っているのは厚60mmの大型煉瓦。その隣に旧橋台と思われるものも残っていて、そちらの煉瓦は山城町域の奈良鉄道煉瓦構造物のサイズと同じはず。ほかに関西鉄道が木津駅に入るようになった頃の橋台もある。

[] 鹿背山隧道

画像の説明

やっと行き方を思い出した。検挙実績7人の看板のところから入って行くと水路橋に出る。その脇から降りたんだ。

東口は相変わらずの姿。鍵が鍵の用をなしていなかったので中に入ることができた。そうして刻印を発見してしまう業。この時期に正体の井桁なんてあったっけ。


2019-03-03 この日を編集

[独言] うう

連絡せにゃいかんところがいっぱいあるのだが整理がつかぬ。

ひとつ片付ける。

今日はUSB3.0 TypeBとかゆう変なケーブルを買うためにヨドバシカメラへ出かけたので、そのついでに北区某所の煉瓦壁を見に行った。こないだ情報をいただいたやつである。そしたらば、予想外の不思議空間であったうえに、目当ての壁以外にも煉瓦瓦礫が多数あって。第二のぱらいそになるかも知れない(磯じゃないけど)。ざっと見て回って大阪窯業岸和田煉瓦日本煉瓦長破線漢数字小など出てきた。幅広い年代の雑多な建造物の煉瓦瓦礫が集積されているというカンジ。特に漢数字小の存在が意外。下手すりゃ明治20年代まで遡ることになるんだぜ。

その足で恒例の上神崎川橋梁視察へ。ついに下流側橋脚の揉み崩し始まる。コンクリ橋脚がまだ半分くらいだったからもう少し先だと思ってたのだけど、なるほど下流側をすっかり片付けてから台船を動かして上流にかかるわけだね。

さらにその足で2度目の下新庄彷徨。したらば35播煉5が見つかって吃驚。しかも播煉マークが逆。これがレール刻印だったら界隈の注目ネタになるのだろうが煉瓦じゃ誰も驚かない。nagajisだけが勝手に驚いて勝手に感心している現状である(その現状に不満は全くない)。

それよりも下新庄のはずれでまた大量の煉瓦瓦礫に遭遇してだね。Kとか讃岐煉瓦とか貝塚煉瓦とか大阪窯業とか岸煉とか日本煉瓦とかねもう何でこんなに沢山確保してたんだろうこの方はというような遭遇をする。全部見切れなかった。そうしてここで書いていない1つが衝撃的でもあり超妥当でもある発見。あって然るべきだかそう来るかという斜め上っぷり&私的納得大盛況な状況。全形でないのが酷く惜しいが仕方あるまい。これでまた真理に近づけそうだ(しかしこれあったらNDAなんでゴホゴホエヘンなのだが仕方ない順序であるしあくまで転石だからなぁ)。

それにしてもこうも二次集散が立て続くと刻印分布を記録する意味に疑義がが。


2021-03-03 この日を編集

[独言] 台湾からのお問い合わせに応える

Dear Yujia Chang ,

Thank you for your inquiry. I am deeply moved by the email from Taiwan. I hope you find this reply useful.

お問合せいただきありがとうございます。遠く台湾からのメールに感激しております。このご返事がお役に立つことを願っています。

It is clear from the literature that Japanese bricks, especially bricks manufactured in 大阪府 ( at 関西地方 ), were exported to Taiwan, but I saw the real thing for the first time in your email. I think it is a very valuable discovery as evidence to substantiate the literature.

日本の煉瓦、とりわけ大阪府で製造された煉瓦が台湾に輸出されていたことは文献資料からも明らかになっていますが、あなたのメールで初めてその実物を拝見しました。記述を裏付ける物的証拠として、とても貴重な発見だと思います。

I think the brick you asked for (図3) was not baked with a glaze, but at a high temperature (usually in a reducing atmosphere lacking oxygen) that melts the surface. In Japan, it was called 焼過煉瓦 ("over-baked brick"). As far as I can see in the picture, it seems that there are various colors such as greenish and purplish, and so on. Every large brick factory manufactured over-baked bricks, but such colorful over-baked bricks are a feature found in the products of a company called 大阪窯業. 大阪窯業 was one of the largest brick factories in Japan. Please refer to the attached photo.

お尋ねの煉瓦(図3)は、釉薬を掛けて焼いたのではなく、表面が融解するほどの高温で(たいていの場合は酸素が不足した還元雰囲気で)焼いたものと思われます。日本では焼過煉瓦(”over-baked brick”)と呼ばれていました。写真を見るかぎり、緑がかったもの、紫がかったものなど、様々な色に発色しているように見受けられます。大きな煉瓦工場ならどこでも焼過煉瓦を製造していましたが、このようなカラフルな焼過煉瓦は、大阪窯業という会社の製品に見られる特徴です。大阪窯業は日本でも最大級の煉瓦工場のひとつでした。同社の製品と思われる煉瓦の写真を添付しますのでご参照ください。

On the other hand, it seems that the brick in 図3 has a cross-shaped seal (c.f. attached photo zu_3.jpg) . The cross-shaped engraving was used by a factory called 岸和田煉瓦. The seal of 大阪窯業 consist of a circle and three lines. The original image may help me to judge it correctly. If possible, please send me the original photo of 図3.

そう思う一方で、図3の煉瓦には十字型の刻印があるようにも見えます(添付画像 zu_3.jpg)。十字型の刻印は岸和田煉瓦という工場が使用していたものです。大阪窯業は丸と3本線を組み合わせたマークを押していました。元の画像があれば正しく判断できるかも知れません。可能であれば加工する前の図3の写真を送っていただけますか。

What was the name of the building where these bricks were found and when was it made? 堺煉瓦 operated from 1893 (Meiji 26) to 1920 (Taisho 9). 津守煉瓦 was founded 1897 (Meiji 30) , and closed 1925 (Taisho 14). Therefore, it seems that the building in which these two products are used was built between 1897 and 1918. And, 堺煉瓦 seal in 図2 is a type that is often seen in products made in the Taisho era because the combination of five lines is uneven. Therefore, I imagine it was a structure built in 1910s. Is it correct?

この煉瓦が見つかった建物は何という名前で、いつ作られたものでしょうか。堺煉瓦は明治26年(1893)から大正9年(1920)まで操業していた煉瓦製造会社。津守煉瓦は明治30年(1897)に創業し大正14年(1925)に廃業しました。ゆえにこの2つの製品が使われている建物は1897年から大正9年の間に建てられたものと考えられます。また、図2の堺煉瓦の刻印は、5本の線の組み合わせが不揃いで、大正時代に作られた製品によく見られるタイプです。よって1910年代に建てられた建物と想像しますが、合っていますか。

In the era when the above-mentioned brick factories were active, there were 6 large factories including 日本煉瓦 and 丹治煉瓦 in addition to the above 4 factories, and they were called the 六大煉瓦工場 ("6 major brick factories"). It is said that they formed a brick manufacturing union to maintain quality and provide a stable supply of bricks at 関西地方. It is common in Japan that products from multiple factories are used in one building/structure. I think these cases are indicating that the brick manufacturing union served as the contact point, and the bricks manufactured by each company were put together and sold through the union. Unfortunately, there is little information about this union, and it is not clear what kind of activities they were doing. However, it is very helpful to know that there is a similar usage situation in exports to overseas. Thank you.

上述の煉瓦工場が活躍していた時代には、上記の4つの工場に日本煉瓦、丹治煉瓦を加えた6つの大工場があり、六大煉瓦工場と呼ばれていました。彼らは煉瓦製造業組合を結成して、品質の維持、煉瓦の安定的な供給を行なっていたと言われています。一つの建物に複数の工場の製品が使用されているのは日本でもよくあることです。煉瓦製造組合が窓口となり、各社が製造した煉瓦をまとめて、組合を通して販売されていたことを示しているのだろうと思っています。残念ながらこの組合に関する情報は少なく、具体的にどのような活動をしていたのか、はっきりとはわかっていません。しかし海外向けの輸出でも同様の使用状況があると知れたことは大変参考になります。ありがとうございます。

そうして自分の名前を伝え忘れるという極道である。PS.とかあんな使い方でよかったんだろうか。


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