nagajisの日不定記。
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今日は靖国神社臨時大祭なる為休業なりき。第三学版は一・二・三年共揃いて体操服に身を固め、途中軍歌を唱えつつ招魂社参拝を行い、6時三十分帰校す。起床は三時なり。途中川の水より水蒸気の出ず〔傍線して「?」〕るを見る。中々めずらしかりき。大いに気持よかりき。
帰りて足を検査したれば、二重豆出来ていたり。八時より九時三十分まで佐中の校長先生に手紙を出す。それより直に外出の用意を為し、校庭に集合し、整列し、式を行う。十時十五分に拝礼・黙頭を為す。父は今日合祀されたるのだ〔なり〕。式終りて、体操倉庫前にて生徒監殿の話あり。特に感深かりき。それより工程を神野と散歩す。而して後、寝室にて遊ぶ。十二時になるを待ちて食堂に行く。あのいに〔nagajis:原文アノ井二、「アノ」に朱線削除〕二盃食い、おかげで〔にて〕腹工合が良くなりぬ。食事が終ると〔を終え〕体操服に着替え重製〔装〕甲車を一時間程しらぶ。十五時半まで生徒集会所に行きて書物を書む〔「書」に朱線、「?」〕。十五時四十五分より十七時まで寝台にてぐっすり眠る。おかげにて眠さがなくなりぬ。夕食後は遙拝所の下にて軍歌演習を行う。今日は遂に行こうヽ〔かん〕と思いし酒保へ行かざりき。今日一日は私〔予〕にとりて意義深き日であった〔なりき〕。 〔欄外:父上の御霊を安んじ奉るべくしっかりやれ〕
靖国神社臨時大祭なり。
七時四十分より一時間大掃除あり。予は脱靴室に当り𡒯々たる中に働く。九時十分より検査あり。副島先生に電報を出す。十時に集合靖国神社に対し奉り遥拝黙頭〔祷〕を行う。以後土俵開きありて行司を招きて正式に行う。学班より二名出でて計三十八名にて勝負し奇数班の勝となる。会食。
大津方面露営に付き即ち
体操衣袴に背嚢をおう。
毛布各二枚を自転車に計十三名
十四時半出発予は自転車にて白川橋に至り後二里半行軍。
大津を距ること西南に、二里の地点に露営。
予は交渉班即三班となる。時に、十七時。
十九時半は夕食す。唐いも等あり。
二時より天幕内にて話し二十一時過眠に就く。
今日はこせヽした〔せる〕忙しき一日なりたる〔しが〕が愉快な鍛錬日なりき。
〔nagajis:「しが」朱訂正は「が」が余計〕
天には終日一片の雲だに見ず。爽やかに剣術を行い、八時に臨時外出。旧食卓の一年生、大場・古賀・藤木・茂木・森田・池木の六名及び入江と八名にて菊池神社に行きたり。参拝人も冬以上に多かりき。内裏尾将軍宮址に休憩し月見殿跡にて昼食をとる。正観寺に武光公墓を詣ず。然して菊池精神を多分に汲み取りたり。一年にも知れるかぎりの菊池氏の勤王につき語りたり。一般に世間にては菊池氏に付き認識不足に驚きたり。あまり歩かざるもよく和親は出来たり。良好
読みたいと思う本ほど高くて困る。。。そうホイホイ買える身分じゃないのだよ。で、買っても消化不良になると思うのだよ。いまは特に。
うむ。我ながら稚拙。稚拙を装ったナントカかも知れぬ。はは。
ようやく講演記録を片付ける目処がついてきた。毎回こんなに時間がかかっているのはひとえにnagajisが無能だからである。やりとりも下手だしなあ。もっと偉い人に代わってもらえないものか。
例えばこの間の講演も今からテキスト起こし始めればね。もうちょっと早くに出来てるんだろうけどね。自分でも1年間何やってたんだろうと思う。けれども振り返ってみると結構一杯一杯なんだなあ。ま、それは自分のことで汲々してただけなんだけどさ。
4月中:学会誌。5月:GWの探索とその整理。6~8月空いてたじゃん。あ、煉瓦探しまわって消長表作ってたのか。それはギルティ。8月~11月は集中訓練3月だ。そうして春の年次大会があり今に至る。ううむ。
丸一日使える日がほぼゼロになってんだから当然の帰結か。
最近人の愚痴を聞く機会が増えた。その結果、人の文句は文句として発話された時点でその9割方は役目を終えている、ということに気づいた。本人は文句を言ったことで満足しているし、文句を真に受けて心砕いたところでその人の事態が好転するわけじゃない。そもそも当事者でない自分が何をできようぞ。そういうのは「へえへえ」とでも言って聞き流すのがよいようだ。
自分に向けられた文句でも多分そんな感じだろうと思う。改善したところで悪評が好評に変わるでもなし。改善する努力はするが結果は約束できない。約束できないことを前提とするのではなく結果的に約束が不可能なのだ。
5月中旬までに、という話だったので期待せずに待っていたのだが、先日ご送付いただいた。なんとCD-ROM版つきである。これは意外。中身はまだ見てないが、たぶん版下からpdfにしたものだろうから、検索ができたりするんじゃないだろうか。
近代化遺産の報告書って刷数がびっくりするほど少ないそうだ。数百部とかいうレベルでもないらしく、その数は経産省が規定しているのだとかナントカ。そりゃ愛媛県みたいなことをしたくなるよなあ、と思う。
↑の状況を「調査してデータ収集することだけが目的なのか」と憤るパスと、「地味な仕事は役所がするから、あとは民間で活用してね」だと見るパスがあると思う。どう考えても役所が主体となって保存とか活用とかするのは無理。市民が声をあげないと動かない(<>声をあげれあ動く)。でももうちょっと情報拡散に手を貸してくれてもいいと思うんだけどなあ。
KINIASの端っこにいて、漏れ聞こえてくる斯界の情報を鑑みると、すでに「どう活用するか」に向かっていて、というか世界遺産にして観光資源にすることが第一目標のような感じに(上のほうでは)なっている感じがする感じ。これはどうしてだろう。議論を尽くしてないわけではないはずなんだ(単に自分がよく知らないだけで、話は数年前からやってたはず)。
そう思う原因の一つにやっかみヒガミがあるのは間違いない。日の当たらないマイナーな物件を掘り起こすことに価値があると信じている自分のような層とは対極にある話だから。対極と思ってしまってるのも問題だしよ。
活用に対する熱意のポアソン分布仮説。すごく先鋭的に頑張るところが頑張らないと裾野が広がらない。だから応援するのである。
あ。「これで肩の荷が降りた。どっとはらい」で終わるつもりだったのに、余計なこと書いてるなあ。まあいいか。これを機に奈良に行かなくなるわけじゃないし。
で、調査員という肩書を返上したいま大手を振って素人に戻れるのである。清々するのである。お疲れ様でした>皆様。
明治初期の土木費支弁制度や国庫補助制度ってのは、江戸時代の「御普請」のところから考えなきゃいけない。江戸時代の河川道路の改修で幕府と住民とで工費を折半してたところから来てる。だからM6の河港道路修築規則が「たとえば6は官に出て4は民から出て」云々と書いてある。江戸時代からあった慣習を明文化し、幕府を官に置き換えただけ? この認識があってるかどうか確認しないといけない。
例えば川瀬巴水の近代浮世絵はとても美しくて金銭をもとい琴線を掻き鳴らすのだけれども、清洲橋とか永代橋とかの構図には引っ掛かるところがある。あれだけ取り方か上手いのに橋だけはピシッと決まっていないように思う。写真も同様。どこがどうだから決まってないように見えるのかもよくわからない。わからない限り橋の写真はうまくならないだろう。
堀威夫の撮った写真はすごくいい。橋の魅力が遺憾なく写し込まれている気がする。極端を誇張したものでもなく記録写真でもない「魅力ある橋の写真」だと思う。なぜだろう。橋の設計をしている人だとどこがキモなのかすぐわかるものなのかも知れない。
環状線外回り天満駅付近の車窓から見える煉瓦造りの工場=FM大阪土曜午前のCMで耳にしていたNKC中西金属工業だと知ったのはつい最近のことだ。確かこの建屋は大阪府の近代化遺産総合調査で二次調査対象になってた筈。詳しく見ていないのであらゆることがうろ覚えのまま訪問した。
車窓から見える建物の工場敷地側の側面が面白い。以前はこの壁に三角屋根の三棟が接していたようだ。それを取り壊して蓋をしたようにも見えるが、煉瓦の積み方から察するに現存棟のほうを後から付け足したらしい。壁に欠円アーチが埋まっていて、その周辺と柱壁?、妻壁の三角の煉瓦の色が一緒だ。アーチ下は別の煉瓦で蓋をしている。んでその上の現存棟の二階の煉瓦の色もちがう。ハナから一建立ならアーチ下の以外は全部一緒なんじゃなかろうか。埋め込まれた御影石や通気口らしき円形穴も作り付けた順序があるらしい。写真を見ながら考えているといい暇つぶしになる。
環状線側の壁の帯石の裏側に堺煉瓦の刻印を見つけた。複数個あったのでどれも堺煉瓦製のようだ。ズーム不足で写せなかったが中にカナが入っている模様で、となると先の壁の焼き色の甘いやつはそれより古い煉瓦らしいってなことになる。
東側に工場敷地に沿う小路があって、入っていけばその面の壁を見ることができる。が、結構大変なことになってる。レンズの歪みではなく実際にこの程度歪んでいるのだ。鉄骨でつっかえをしたくなるのも道理だし、埋め込まれたモルタルに苦心の跡が垣間見えて興味深かった。
あれ、ホームページには大正13年創業ってあるな。堺煉瓦の存在と矛盾する。
なるほど、明治19年創業の天満紡績の建物を流用と。下半はどこの煉瓦だろう。
真の均斉の美は、橋梁の何れの部分もが、力学上の理論に従って無駄に遊んでいるところがなく、よく各部分が緊張して働いているように設計せられていることから生ずる。
橋梁の真の美は、単なる装飾のみによって得られないと同時に、美学上の法則を無視しては得られない。その重心の位置による美、曲線と直線との調和及び比例の美、量の美、面の美、容積の美、内容表現の美、意匠様式手法の美、即ち審美的要素の完全を意味するものである。
(p.52)
一つの橋梁が単独に美を体現することは、美の全部を示すものではない。それは、その橋梁の美の半面を示すに過ぎないもので、重要なる他の半面、即ち環境との調和の美を忘れてはならない。(p.52)
3径間の吊橋のスパン比が1:2のものが美しいようだとして
橋を真横から見る機会はほとんどない。橋の用途から直角方向だし。船から見るのは橋の用途と重ならない。
「 これを要するに、ゴールド・セクションにあれ、フィブナロッチ級数にあれ、ダイナミック・シンメトリーにあれ、人工の線の美しさに就ては簡単にこれを言い切ることは出来ぬが、併しまた審美的な趣味の修養を積んだ人々にあっては、特定の物体に対してその修養と練習とによって或る長さの比例というものが、誤りなき美しさを与える。」(p.61)
ここはちょっと意味が汲みにくい。審美眼のある人ならゴールドセクションとかフィボナッチ数例とかダイナミックシンメトリーとかの特定の数値比の美しさがわかるということ?そうじゃないよな。
審美的要素の中ではシンメトリーとバランスが大きな役割を果たす。厳粛さ荘重さはシンメトリーの美から生まれ、ゆとりのある美しさはシンメトリーを破った=バランスのとれた美しさから得られるようだ、と鷹部屋はいう。シンメトリーの美=寺社仏閣。バランスの美=茶室造り。
「 自然に生えた竹は、竹のとるべき自然のバランスの形を常にとって、雪が積もれば雪の積もるがままに枝を垂れてバランスを保ち、精細に眺むれば陽光があたって溶けて行く雪の変化に従って自分がとるべきバランスの総ての姿勢を忠実に守って行くのである。
風に動く竹の姿も雨に濡れた竹の姿も一つとしてバランスでないものはない。
バランスの美は自然法則の自然的な表現であって、人工の美はよろしくこの法則に違反せざるよう、自然を正直に克明に模倣すべきである。」
(以上p.61-62)自然の理にかなった構造だから美しく感じるのか。奇抜なものはあくまでも奇抜で美しくはないかも知れぬ。
(「変化のみ多くしてそこに統一がなければ乱雑に流れ易い。故にバラエチー〔Variety〕の中には、ユニチー〔Unity〕あって初めて美しさが出てくる。」(p.62)
Unity:〔意見や利害などの〕調和・一致、〔目的や行動の〕一貫性、不変性
「即ち、同じもののみを単に数多く並べることによっては単調を生ずるに過ぎないが、曲線の大きさを変化せしめ、曲線の方向を相互相反せしめ、或は、その位置を適当に変ずることによって美を生ずる。」
同一形状のアーチの連続ではなく、例えば駒形橋のような。あるいは天満橋のような。かな。
陰陽・明暗・濃淡・大小長短・高低、といった正反対のもの(二元性)に美がある。またその二元の中間に位置して両者の連絡をとる第三元がある。天道・地道・人道の三才。「橋梁トラスにおける上下弦材の間には、垂直材があり、斜材がある。(p.63)
直線と曲線。
混合線は、強き感じを与える直線と、弱き感じを与える曲線とを併用したものであって、美を与えるものも実にこの混合線に多い。
直線は無限の延長に於てもその方向不変なるものであって、そこに直線の力づよさと神秘的な何かがある。
平行線は無限にこれを延長しても相交らざるところに美しさと力をもっている。
地球引力に並行するところの垂直線の感じは強いが、水平線はこれに比較して弱いものである。円はそれ程美しい線ではないが、便利な曲線である。真に美しい曲線は円以外のカーブにある。安定の美、軽快の美。
「不安を与える構造物から美を感ずることは出来ない。構造物に備わる安定感は構造物の美の要素である。 この意味に於て、バランスがとれていると云うことと、スタビリチーがよいということとの間には差異があると考えられる。」(p.65)
軽快な橋に美を感じることも数々ある。吊橋に多い。軽快、というものの説明は若干不足気味。
量の美・材料の美。フォースブリッジが男性的な重厚の美を与えるのはそれが巨大であるから。ピラミッドのようなマッシブな迫力。またその素材が鋼構造であるがゆえに構造の美・構造の力を感じさせる。ピラミッドが鉄板張り松板張りであったら構造美を感じないだろう。(p.69)
橋梁の美的要素。
「併し、橋梁美の美的要素として最も影響の多いのは周囲との一致、環境への適合性であろう。」(p.85)
都市の橋梁にアーチ系を選ぶか吊橋にするか、カンチレバー・バランスドアーチにするか。コンクリートかメタリックか。橋単体で見た時にライズが高過ぎるように見えても周囲の地形との調和で美しく見え得る。
各部が緊張して働いている構造の美、2回め。@p.87
結語を読めば済む話だったか…。ま、いーや。
要するに橋の場合は一般的に美と言えるものに加えて力学上の合理的構成の美・環境との調和の美しさが肝要となる。変化と統一の美しさも考慮せねばならぬ(基本的に繰り返し構造だから単に繰り返しただけでば美しくない)。
はしがきに「1本の部材もそれが遊んで居ることは許されないし、1本の鋲も構造力学的な計算から割り出されて居ないものはない。」とある。緻密な計算と力学上の要請に則った=力学という自然現象の体現であるからこそ橋は美しいという主張。
前にも愚痴ったと思うが年々電話で問い合わせが億劫になっている。バックグラウンド説明せなあかんと思うと気が重いのだ。かといって要件だけ伝えても知りたい答えが帰ってこない筈という強迫観念じみた思いがある。かといってBG説明したところで思い通りの結果になったことはほとんどないのだけどね。結局の所じぶんの手間を減らしたいがための策謀なんだと思うと狡猾野郎めがと思ってしまって最終的に全部面倒になってしまう。
なんかの大義名分を立てて縋るのももう疲れた。自分の興味に純粋に即して尋ねたい。尋ねたいけど、それで得するのはnagajisだけだと考えてしまっていけないようだ。自分の都合だけで生きている連中に辟易しているのだからそういうのと同列になってはいかんと思う。そこがまずよくないとはわかっているつもりでも投げ出すきっかけ些細な足がかりとしては十分に大きい。
知りたいことがあるんだったら自分で調べろ。見たい資料があるなら足を運べ。そう思いそのように頑張ってきた。だからどこかを他人に頼むことにためらいを感じる。そんなんだから一切進まないんだろうとはわかっておるのだ。進まないことを観念しているところがあるのもよくないだろうと思う。