nagajisの日不定記。
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足の痛みも、今日に至りてけろりとしていたり。故に教練に加わりたるに、終になり脚畔を失いたり。一日うすら寒く、一昨日に比し、比甚だ大なり。朝の体操等は校庭にて行う如〔く〕定まりたり。すぶりをなすも良き運動哉。
今日より朝の寝台掃除は五名ずつ東西に別れて一日交代にて行い一層寝室の整頓を確実ならしむる如くなる。午後十三時より鹿児島二中の校長先生池田氏の『南洲翁を語る』の題目に依る大西郷の講話あり。脈道は書物にあるのと全く同じにして如何に西郷さんが太っ腹であられたかを痛感せしめられたり。菊池氏に次ぎ我々が傾倒すべきは大西郷の此の精神ならざるべからず。終に先生が古〔昔〕学習院に居られた関係上乃木大将の話をされ、仏蘭西にて奈翁の墓に詣でし際の感想を述べられたり。是等有益なる話を克く自分の物となし克く噛み砕きて本分に邁進するのみ。
其の後昨日の続き 侍従武官御来校の際に出場する鉄棒選手を選定す。残念なり遂に四回目にして落さる。〔欄外朱:又何か機会あらん〕
乙生徒集会所 科学研究室にして文庫のみあり
甲 〃 〃 柔道場にして雑誌類ありて酒保あり。
今週を省みるに次第に緊張を欠く。残念にて何とも言うを得ず。
雨にして相当なるものなりき。昼間に寒さを覚えて夏衣袴に着替えたる程なり。〇六・四〇起床、熟睡したる故か眠からず。剣術二本、〇八・三〇服検。午前中は昨日の手入・整頓等をなし午後は集会所に三時間、午睡五十分をなし撤徹抵的休養とす。良好。
松浦の命日にして切磋会行えり。
埼玉県立図書館,飯能市教育委員会に問い合わせ.たぶん「はんのう」だったはずなんだけど・・・.その前に資料整理しろと.
してみたがやっぱり出て来ないぜ.今年5月の話だからな・・・.
工手学校カリキュラム確認.
予科 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40041267&VOL_NUM=00002&KOMA=32&ITYPE=0
本科土木科 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40041267&VOL_NUM=00002&KOMA=33&ITYPE=0
滋賀県民局からの連絡を待つ.間に合わないかも.
埼玉県行政史再読.埼玉県関係は意外と府立図書館にあったりする?
内務省史/官吏・公務員制度の変遷再読.恣意的なエピソード.
666.604.617.地方庁にも高等官食堂(p628)
移籍組5人+できれば友岡正介の滋賀県内での動向.県報が無理だったら官員録から<滋賀県にて
官位に応じて職をあてはめることって,何ていうんだっけ???
適切な言葉を探す.“コネ”から連想するダークなイメージ,計略とかうしろめたさとか.
http://spreadsheets.google.com/ccc?key=0AkYxaCHNFBfacHpLT3ZsOFNYMjFCczVOMTI3SUtGWkE&hl=en
のまとめ.
なんだかんだ言ってペーパーのほうはゴニョゴニョしそうだなあ
必要な資料は出て来なかったが熊野街道自転車旅の頃にコピってきてて間に合わなかったやつが出てきた.古トンネルの写真.ふるさとの想い出写真集・尾鷲より.
「鬼斧神鑿」の額が架かっているので西口だとわかる.これを見てまっ先に思うのは「こんなに高かったんだ」ということ.いま西口は土砂やら潅木やらで半分くらいしか見えない.埋もれてるわけではないが見渡せないのだ.
見渡せば見渡すほどゴミの山だ>部屋の中.すぱっと片付けられないものか.
余計なものばかり次々に発掘される我が部屋.S35要部修正の大台ヶ原山が出てきた,これで瀬戸−中奥ラインが判明したわけだが.
『人生に大切なたったこれだけの習慣』初刷は奥付に誤植がある.
最近FM大阪が番組縦断で関西府県のおすすめスポットを紹介する特集をやっている.昨日午前中は奈良県を紹介していた.「奈良県っていいところたくさんあるんですよねぇ~」とか何とか宣う二の句が「大仏とか鹿とか」でガクッとした、というのはいつものことだからまあよしとする.次がいけない.奈良南部の出身という二人のナビゲーター、そのうちの1人が「国道24号沿いって最近めっちゃ変わってるよね~見どころも多いし~」みたいな話の振り方をするものだから、さては五條あたりの話だろうか、場合によっては新町か、ひょっとしたら五新線でも、と思っていたら「唐古鍵遺跡とか!」だと.
まさにこの画像のとおりで愕然とした.
_ あきら@大阪 [どっかで見たことのある画像が出ていて安心したw]
確か西明石駅だったと思うのだが、駅に到着した電車の車窓から偶々この看板を目撃した。このテのキラキラ看板---金属製の可動式円盤が取り付けられていて、風が吹くとサラサラ動いて人の目を惹く---は最近ほとんど見なくなった。ひどく懐かしい気がするのは実家最寄りの長谷部ストアーの看板がこれだったからじゃないだろうか。ともかく私の子供の頃にはこの看板があちこちにあった。たいていのものは円盤が千切れてまだらになってしまっていたが。この看板のように。
改めて目にすると単純な仕掛けながら風流なもののように思えたことだった。風というか空気の流れというかが目に見える形でわかる仕掛けで、端からサーッと色を変えていくさまは見ていて飽きなかった。円盤がもうちょっと残っていたらもっときれいだっただろうに。
動くカンバンといえば昨今だとパチンコ屋のLED映像看板が筆頭格だろうが、あれはムカつく。やめてほしい。無駄に注意を奪われる上に結局は同じ内容の繰り返しだ。つまらない。同じ動くでも1/fゆらぎが潜んでいる円盤看板のほうが何十層倍もよい。
みたいなことを思いながらこの写真を撮ったのだが、実はそれ以外のところに突っ込みどころが満載であったのだった。この看板に篭もる奇妙なポテンシャルを、皆さんはいくつ見つけることができるだろうか。
ちなみにこのパブはもう存在していないらしい。存在しない店の看板が存在していて未だ稼働中というのも中々良いポテンシャルを有している。
ふとそんなことを思って概算してみた。記録がある明治15年から昭和13年まで、明治前半期は赤煉瓦耐火煉瓦がごっちゃになった値だけれども、大阪府下の工場だけで
3,919,851,982個
を作っている。明治36年のデータが抜けているので、前後の年度の平均をとって70,000,000個は足さないといけない。そうするとまあ40億個くらいということになる。
1個あたり2kgとすると800万トン。日本の1年間の廃棄食品の量とか1年間に海に流れ込むプラスチックゴミの量と同じだそうだが、ちょっとピンとこない(むしろその量が煉瓦40億個分だと思うほうがわかりやすそうだ)。
敷き詰めるとどうなるか。煉瓦一個の面積を22cm×11cm≒0.025平方メートルと大目に見積もって、だいたい100平方キロメートル。33km四方。堺市の面積が150平方キロメートルというからその2/3を覆うことができる。意外と少ない感じがする。
×小口の厚さがあるわけだから、それだけの土を掘り取って煉瓦にしたということになる。表面積的に考えるとそうでもない感じがするが、良質の土は局所に集中しているからな。山の1つ2つはなくなっていそうだ。
そんなにたくさんの煉瓦を作ったはずなのに、さてその煉瓦はいまどこに? 埋もれているのか風化してor崩されて土に戻ったのか。舞洲あたりにむっちゃ埋もれてそうだがな。
上の数字は大阪府統計書から主に取っているので府に登録している工場の自己申告の値と考えたほうがよい。最低でもこれくらい、だな。
どうせ1,2日の掲示だし専門家しか来ないのだから概略史は要るまい、生データの提出だけでよからんずらんと考えていたのだが、その刑事を作るために一昨年の展示資料を見直してみて、うん、どんだけ手を抜くのだと思わずにはいられなかった。専門家なんてほとんど来ないと見越していた展示にあれだけの熱量を投じたのは我ながら捻くれていると思う。来ないと見越していたからこそ好き放題勝手放題を書いたとも言えるのであるが。市場価格推移グラフなんてわざわざAIで作り直してあるんだよな。すごいな。そこまでできひんわ。
過去にここに掲載した新聞記事画像やら起こしたテキストやらを集約して、それで力尽きそうになっている今。あと問題は慶事場所が偏りそうな塩梅。関西地方は新聞記事もデータも多々ある。中四国や和歌山奈良三重辺は激少ない。掲げるものがない。それで刻印表を並べることを思いついたのは姑息である。
あとは四日市煉瓦の社章@大日本商工録くらいかなぁ。
大きな台風が直撃!というから満を持して待機していたのに、雨がシトシト降っただけで終わりそうな塩梅である。おれの連休を返せと叫びたい。大阪には何か強力なバリアが張ってあるのかと思ってしまう。しかし一番の原因は「nagajisが台風に備えて家に引きこもっていたから」に違いない。すべて自分が悪いと思えば納得もゆく。
天竜川の旧橋脚が露出したのは此処最近のことだと気づいてから無性に行きたくてたまらなくなっている。このまま露出し続けてくれるとも限らないような気もするし、一度水脈が変われば暫く安泰とも思える。それに天竜川の特殊な形状の橋脚井筒がわかったところで特殊な設計のそれがわかるだけであって今最も知りたいことはわからないのだ。それだったら桂川橋梁みたいなことになっていないかどうかに賭けて、12ft/9ft井筒を使っていた橋脚を行脚して回ったほうがなんぼか収穫があるかも知れない。木曽川橋梁の川中の一つに挑んだほうが収穫がありそうな気もする。あるとわかって行ったところであることがわかるだけなのである。
木曽川橋梁の残存井筒の鉄筋を、M24濃尾地震の復旧の跡と考えていたけれども、M10に六郷川橋梁を12ft円形井筒に改築した時には井筒を縦に貫く鉄筋を入れていたという(ボイルの報告書)。桂川橋梁では見なかったよ……と思ったのだけれど、そうかあれは半分がた土に埋もれていたからな、露出した半分もC字形に欠けていてその欠けたところに鉄筋が入っていたのかも知れないと思ったりもする。考えてみれば単純な組積造で揖斐川橋梁のような高さを築くのは幾ら何でも無防備だろう。それに濃尾の復旧の鉄筋は四角い筐体に9ft円形井筒を継ぐような構造の橋脚だった気がする。だったら遠くへ行くよりも前に桂川橋梁の井筒を全部掘り返してみたほうがよい。
鉄道構造物明細をプロットしてみて残存暗渠や避溢橋がかなり多いことに気付かされた。京都大阪間でも七反田とか老ヶ辻とか知らなかったし。6ftを超える比較的大型のものはかなり残っている。壊されているのはむしろ大阪~神戸間のほうが多い。途中から長々と高架化されているし。
湖西線も煉瓦アーチはそこそこの量残っている。M22前後にあそこへ煉瓦を供給できたのは杉本煉瓦と湖東組だけではなかった。大阪から持っていくことは可能。スパンの大きな暗渠では肉厚煉瓦を使ったものがある一方で普通煉瓦を使った暗渠も多い。総体としでどんな分布になるだろうか。ただそこに刻印を見つけて工場を特定するのは限りなく難しいと思われる----なまじ残っているせいで平を見ることはできないだろう。
島本~高槻間の煉瓦暗渠群。M30代の拡幅で煉瓦アーチの部分が延伸されていることを前回訪問の時に理解していたか否か心もとなくなっている。コンクリートカルバートの部分を複線化時のものと思っていたりしなかったか。それは複々線化の時のもの。いまあの上には4線乗っているのだ。下から見るとそのことに思い及びにくい。
藪の花架道橋は明らかに煉瓦アーチが延伸されている。ただし煉瓦が高いところにあって正確に寸法を測ることができない。神野森より西は手が届くので測り直すならそちら。あのへんは慥か南面の煉瓦を中心に測ったと思う。とすると拡幅側ということになる。あの辺りのは明確に延伸した形跡があったかどうか思い出せなくなっている。七反田の継ぎ目を見る限り延伸は非常に手際よく行われていて一見すると新旧の見分けがつかない。側壁の石なんか素材も積み方も合わせてあるように見える。まるで初建時に追築用に取っておいたかと思うほど。煉瓦だって継ぎ目は明確でない(ろうすいしていたりすればわかりやすいのだ)。煉瓦パートは下駄履で残していたりしたのかも知れぬと思うが側壁石までそうしていたかははなはだ心もとない。少なくとも七反田や老ヶ辻なんかはてれこにして延伸してある。西端の人道部の、スプリングライン直下の端を構成していた石の石使いだけが他と合っていないだけ。
Before...
_ nagajis [嫁さん募集中です。飯を食わない人がいいです。]
_ ヨッキれん [飯の代わりに、nagajisさんが食われたりして。]
_ nagajis [つ「飯食わぬ嫁」]