nagajisの日不定記。
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大きな台風が直撃!というから満を持して待機していたのに、雨がシトシト降っただけで終わりそうな塩梅である。おれの連休を返せと叫びたい。大阪には何か強力なバリアが張ってあるのかと思ってしまう。しかし一番の原因は「nagajisが台風に備えて家に引きこもっていたから」に違いない。すべて自分が悪いと思えば納得もゆく。
天竜川の旧橋脚が露出したのは此処最近のことだと気づいてから無性に行きたくてたまらなくなっている。このまま露出し続けてくれるとも限らないような気もするし、一度水脈が変われば暫く安泰とも思える。それに天竜川の特殊な形状の橋脚井筒がわかったところで特殊な設計のそれがわかるだけであって今最も知りたいことはわからないのだ。それだったら桂川橋梁みたいなことになっていないかどうかに賭けて、12ft/9ft井筒を使っていた橋脚を行脚して回ったほうがなんぼか収穫があるかも知れない。木曽川橋梁の川中の一つに挑んだほうが収穫がありそうな気もする。あるとわかって行ったところであることがわかるだけなのである。
木曽川橋梁の残存井筒の鉄筋を、M24濃尾地震の復旧の跡と考えていたけれども、M10に六郷川橋梁を12ft円形井筒に改築した時には井筒を縦に貫く鉄筋を入れていたという(ボイルの報告書)。桂川橋梁では見なかったよ……と思ったのだけれど、そうかあれは半分がた土に埋もれていたからな、露出した半分もC字形に欠けていてその欠けたところに鉄筋が入っていたのかも知れないと思ったりもする。考えてみれば単純な組積造で揖斐川橋梁のような高さを築くのは幾ら何でも無防備だろう。それに濃尾の復旧の鉄筋は四角い筐体に9ft円形井筒を継ぐような構造の橋脚だった気がする。だったら遠くへ行くよりも前に桂川橋梁の井筒を全部掘り返してみたほうがよい。
鉄道構造物明細をプロットしてみて残存暗渠や避溢橋がかなり多いことに気付かされた。京都大阪間でも七反田とか老ヶ辻とか知らなかったし。6ftを超える比較的大型のものはかなり残っている。壊されているのはむしろ大阪~神戸間のほうが多い。途中から長々と高架化されているし。
湖西線も煉瓦アーチはそこそこの量残っている。M22前後にあそこへ煉瓦を供給できたのは杉本煉瓦と湖東組だけではなかった。大阪から持っていくことは可能。スパンの大きな暗渠では肉厚煉瓦を使ったものがある一方で普通煉瓦を使った暗渠も多い。総体としでどんな分布になるだろうか。ただそこに刻印を見つけて工場を特定するのは限りなく難しいと思われる----なまじ残っているせいで平を見ることはできないだろう。
島本~高槻間の煉瓦暗渠群。M30代の拡幅で煉瓦アーチの部分が延伸されていることを前回訪問の時に理解していたか否か心もとなくなっている。コンクリートカルバートの部分を複線化時のものと思っていたりしなかったか。それは複々線化の時のもの。いまあの上には4線乗っているのだ。下から見るとそのことに思い及びにくい。
藪の花架道橋は明らかに煉瓦アーチが延伸されている。ただし煉瓦が高いところにあって正確に寸法を測ることができない。神野森より西は手が届くので測り直すならそちら。あのへんは慥か南面の煉瓦を中心に測ったと思う。とすると拡幅側ということになる。あの辺りのは明確に延伸した形跡があったかどうか思い出せなくなっている。七反田の継ぎ目を見る限り延伸は非常に手際よく行われていて一見すると新旧の見分けがつかない。側壁の石なんか素材も積み方も合わせてあるように見える。まるで初建時に追築用に取っておいたかと思うほど。煉瓦だって継ぎ目は明確でない(ろうすいしていたりすればわかりやすいのだ)。煉瓦パートは下駄履で残していたりしたのかも知れぬと思うが側壁石までそうしていたかははなはだ心もとない。少なくとも七反田や老ヶ辻なんかはてれこにして延伸してある。西端の人道部の、スプリングライン直下の端を構成していた石の石使いだけが他と合っていないだけ。