nagajisの日不定記。
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特別行事とてなし。体操の際に「海老上リ」が上り嬉しかりき。随意運動時に、各方面の事をなしたり。一日やや不愉快なる日なりき。
今日亦暖く晩秋の感未だ沸かず。
午後教練二時間あり。照準鑑査あるも五粍の誤差あり。練習と共に視力をよくする事につとむべし。立射の姿勢にて据銃回数僅かに五十回にして腕痛し、腕力腕力
射撃演習あり。
斗くん近日上下級生の団結につき考えたり。要するに話すべし。然して相手を知る、そして和してこそ真なれ。特に四十六期と活すべし〔「要するに~べし」に朱傍線、欄外朱「この方法上級も可なり」〕
部屋から一歩も出ず、寝て食って起きてpdf作って食って寝て食ってという生活を続けていると、言葉が枯れてくるというか、脳が味噌化するというか、ともかくそんな状況になっていくのが否応なくわかる。書くモチベーション も限りなく低下していって今や床面上1.1mm。カーペットの皺やLANケーブルに引っかかれば即墜落である。
直前に資料を大量に入手していたのは幸いだったと言えるのだが、じっくり読み込んでしまうとあれもこれも入れたくなってしまい、一方で頭は味噌だからまともにまとめられはしないので、強迫観念的フラストレーションが蓄積されていくばかりだ。入れたいあれこれが漠としたイメージでプカプカしていて、それをどう料理しようもない。まるで放り込まれた瓢箪を淵に引きずり込もうともがいている河童みたいだ。しかも取り込んだところで腹の下には既に瓢箪の山が築かれている。これ以上盛り込んだところで整理のしようも理解の助けになりもしないのだ。
足が2本まともに揃っていて歩けることがどんなに有り難いことであるか。陳腐だがそんなことばかり考えるサンコン。
柳田国男は当時流行り始めていた「○○的」という言い回しを、言葉が足りない間の応急処置であり、将来消えてなくなるものであると予想していた。それから約一世紀が経ったけれども、無くなるどころか誰もが疑うことなく使う表現技法?の一つになっている。悲しむべきなのか、予想を上回るポテンシャルを秘めていたのか。曖昧な表現に逃げがちな私は便利なので使っている。
雪が降る前に&天川村の調査結果を聞いたうえで天川村へ行きたい。あそこがいちばん、戦前のいろいろが残っていそうな気がする。天川発電所(跡)、川合・弥山・和田発電所、川合の堰堤に九尾堰堤。そして大峰鉱山とその索道。黒木辻の特製柱(跡)、たぶん虻峠の35米突支柱(跡)とか。洞電の終点もよくわかってない。川迫森林土工組合の軌道とかもな。ええとあの写真は「林道のあゆみ」であったか「天川村史」であったか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00053394&TYPE=HTML_FILE&POS=1
覚え書き。あ、新聞記事文庫直った?
仕上げた余勢でもう一つ。意外と豊富に資料が見つかって、急拵えの割に充実したものになりそうな塩梅。しかし妙にノッてしまったため明日は余裕がない。
しかしあれだよな、こっちは歴史的事実を知りたいだけなのに、開いただけで軍歌が流れたり私情怨念たっぷりの文章を読まされたりするwebは苦痛だ。なんとかならないものか。あれだけ愚駄愚駄書いときながらどの口が言うかと思ったりもするが、自分の残したものに価値があるとは思っていないだけマシなんじゃないだろうか。あと政府とか学者とかがやったことを政府や学者がやったことだからというただその一点のみを理由にして否定するのは愚かなことだと思うね。
こんだけだと何のことやらさっぱりわからんな。
流し台の蛇口が設置されている奥行き12cmほどのスペースに台所用洗剤を置いている。左をひねれば湯が出て右をひねれば水が出てという普通の蛇口である。その蛇口の右側に洗剤を立てている。その洗剤が、水の蛇口を捻るたびに落ちる。
洗剤はそこにしか置き場がなくて仕方なく置いている。できるだけ蛇口から離したところに置こうと心がけている。にもかかわらず3回に1回くらい手が当たって落ちる。右にひねると水が出るから、ちょうど洗剤を引き倒す方向に手が当たってしまう。そうして洗剤が落ちる。そのたびに拾って立て直している。
いつだったか、面倒臭がってそのままにしておいたら中身が流れ出て1/3も無駄にした。茹でたそうめんの上に洗剤が落ちたこともある。もっと別のところに置きたいとか、落ちないような工夫がしたいとは常々考えているのだけれども、その処置を施す前に手が当たり、洗剤は落ちてしまう。
つくづく愚かだとは思うのだ。落ちることがわかっていながら対処しないのは、不便だ不便だと文句を垂れてばかりで何らアクションを起こさない[禁則事項です]そのものじゃないか。情けないじゃないか。じゃあ何とかしろと思うのだ。思うのだけれども、対処を施す前に洗剤が落ちるのだ。
何とかならないものだろうか。
N氏とのツール・ド・北九州でこんな感じの構図の写真を撮ったような気がする。今から22年も前の話。さんふらわあやこがねでも撮ったはず。フェリーの描く航跡がそんなに好きか、と思う。
好きなんだろうな。後ろを振り返ることが。行く先はぶっちゃけどうでもいい。なるようにしかならない。自分が通ってきた世界、うしろの世界にばかり興味がある。見落としたものがあるかも知れない。気が付かなかった何かがあるかも知れない。振り返ってみて初めてわかることも多々ある。そこが「自分が知っている場所」だという安心感があるからか。
ひいこらひいこら言って登った峠から、自分が登ってきた道をはるか眼下に見下げるあの瞬間が好き。そこに自分の知る空間があって、Vacantな森がただ広がってるだけじゃないってことを確認する。見渡す限りの海原で、知ってるもナニもない世界だからこそ軌跡としての航跡を心の拠り所にしたいのかも知れない。
右足がイカレポンチになってから長時間歩くと小指の付け根の辺りがジンジンするようになって困っていたのだが、巨大なタコができたせいでそうなっているのだとつい最近気づいた。タコとタコでないところとの境のところで皮膚がヨレて痛むのだ。
ならばと思い、風呂に入りながらヤスリでゴリゴリ削ってみている。角質取りのヤスリではなく、100円ショップで木工用鉄工用として売っていたごく普通のヤスリである。いかにも肉体改造してるっていう気分になる。そんなのでいいのかと思ったりもするが、意外や意外、効果覿面担々麺、御免ボーメンはい残念だ。
しかし加減がよくわからぬ。時々ぴりっと痛むのだがそれがタコでない皮膚を削ってしまったことによるものなのかタコ−非タコの境界部が痛いのか判別しづらい。しかも小指の付け根だから目視しながらの加工は不可能だ。嘘だと思うならやってみるといい。あぐらをくんで右足を掴んで足の裏を持ち上げて見ようとすると見事にひっくり返る。浮力場に支配された風呂桶のなかではなおさらだ。
何かの調査会社の一員としてとある市街地の一角に来ている。場所に見覚えはない。強いて言えば大阪城東区の商業地と住宅地の渾然一体となった辺りをもう少し黄昏色にした感じだろうか。大きなビルもあれば民家もある、しかし一体的に古ぼけて見える場面である。
私はドローンに乗る役を仰せつかる。ドローンに乗る?というのも変な話だが、要するにプロペラのついたバックパック+骨格スーツのようなものを装着して飛ぶもので、ロスオリンピックの開会式で飛んでいたアレがプロペラ式になったようなものである。例えるならヘリコプターよりも「ドローンに乗る」が適当だろうと思う。
何を調査するのかという肝心なことがよくわからないまま私は飛ばされる。基本的にリモート・コントロールで飛ぶようだが自分の意志で向きを変えたり進行方向をずらしたりすることはできるようだ。ビルや住宅が建て込んだ中にある学校のような建物の周りを、その学校の屋上すれすれの辺りをぐるりと回っていく。中々爽快である。
学校を回っていくと住宅街の中にある公園に出た。公園の縁には住宅が密集しているが、その手前、公園の縁に沿って、何やら不思議な構造物が並んでいる。二階建て構造三径間のπラーメンが等間隔に連なっている。まるで高架の線路のようだが、柱や路面に煉瓦が使われてあって、妙に古い感じがする。
それを見て急に、ここに高架鉄道の遺構があったことを「思い出す」。そうそうこんな高架橋がこの辺には残っていたのだ。それを調査しに来たわけではなかったはずで、夢の中の私は思わぬ発見として喜んでいる。
ドローンがその高架に沿うように飛んで行くのをいいことに、ちょっと軌道を変更させ、島状になった高架のひとつに降りてみた。両足でポンと着地した程度だったが妙にうれしかった。高架なものだから地上からアクセスすることはできないし、隣のπラーメンとの間に架かっていたはずのゲルバー桁は取り外されていて---よくもまあそんなリアルな設定を持ち出したものだ>夢---渡れない。こうでもしない限り上に立つことはできないのだ。高架を離れながらパンして眺めた高架の名残惜しいことといったらない。
そうやって軌道をずらしたことで予定コースから外れてしまった。両手をわっさわっさ振って一生懸命高度を稼いでみたり、体を傾けてスピードを上げてみたりして、遅れを取り戻そうとする私。それが上手く行き、無事出発地点に戻ってくることができた。周囲を回っていた学校の校舎前にある広場であった。
上司の指示に従ってドローンを所定の位置に戻し、さあ後は自由時間だとばかりに歩き始める。そうだ今度は地上から高架を眺めてみよう。そんなことを思いつき、高架のほうへ向かおうとする私。と、そこへ軟式テニスのボールが落ちてきた。
「おーい、6年、それ投げてくれ-」
上の方からそんな声がする。見上げれば校舎の最上階から身を乗り出して手を降っている学生がいる。なんで6年なのかと思ったが、そうかここでは級式なのだ(6級→5級→…→1級と進級するのである。と勝手に理解している)。投げねばならないのだな。
肩とコントロールにはそれなりの自身があるから、そのつもりでほいと投げた。が、あとちょっとというところで届かなかった。めいっぱい身を乗り出してわずかに足りない位置に投げてしまったのだ。いかんいかん、次はバッチリ決めちゃる、と本気を出そうとすると、場面はどんどんおかしくなり始める。校舎の建物が上に行くほど奥へ引っ込んでいって、その上に網が張られていて……何と例えればいいのだろう、甲子園の銀傘を1/3ほどにして、座席が3段のベランダになったような感じの構造物、その三段目のもっとも引っ込んだところに向かって軟式テニスのボールを投げている自分になる。あるいは映画館のスクリーンのところから映写機に向かって投げるような感じか。相手はもっとも引っ込んだところにいて、高く投げれば網に引っかかるし、低ければ無論届かないしで、中々上手くいかない。高めに飛んだボールがネットに引っかかって落ちて来なくなったりーーー網の上でポーンポンポン・・・と跳ねて「ああ」となるーーー、横投げで投げたら妙な変化がついて横へ逸れていったり、何故か真横に積み上げてあったCDの山に手をぶつけてコントロールを狂わせたり。結局、5、6球投げたが、相手の手に収まることはなかった(いつのまにか球の数が増えている)。
ちぇ、腕が落ちたなあ、とか何とか思いながらその場を去る。そうそうさっきの高架を見に行くのだった。確かこの方向へ飛んでいったはず、と思って向かった先には、校舎建物と隣接する住宅との間に開いた幅1mほどの隙間。あれ、さっきはこんなに狭くはなかったぞ、そうか上は開いているのだな。地上を通ればこうなるに違いない。隙間には金網などなく、向こうに公園が見え、子どもたちが遊んでいる姿もある。場所はあそこで間違いない。けれどもその隙間と公園との間には幅3mほどの溝川が流れていた。こんなこともあろうかと思って持ってきていた長靴に履き替え、渡り始める私。
久しぶりに細部を思い出せる夢だった。ドローンのプロペラがヘニャヘニャで、だからこそモノに当っても壊れないのだと理解したこととか、ボールが柔らかいせいでひどく投げにくかったこととか。基本的にたのしいゆめであるところもいい。しかし夢の中でも遺構に拘っているのは哀れというほかない。
して、煉瓦が夢にも浸出し始めているのは注意すべきである。溝川を渡る時にも何か煉瓦の構造物を認め、気を取られたような気がする。そのうち刻印煉瓦とか探し始めるんじゃないだろうか。実際そんな刻印探しの夢を見てしまっているような朧げな記憶もある。
夢を構成する論理は奈辺から生まれてくるものなのだろうか。何が夢の論理性を規定しているのだろうか。高架橋が三径間πラーメンとゲルバー部の繰り返しであることは、それを見ればそうだとわかるという程度にしか理解していず、夢に見るほど考えたことがあるわけじゃない。廃止されれば桁が外されるだろうこともまあ理解できるが現実には稀だ。あれか、この間阪急京都線に乗って淡路辺りの高架建設現場を見た記憶が沸いてきたんだろうか。にしても視点の高さが全く違うぜ。
ボール投げの場面なんかはどこかで経験したことがあるとは思えない。引っ込んだところに投げ込むことの難しさは容易く想像できるけれども。その「難しい」という理解が場面をどんどん歪曲していったようには思われる。逃げようと必死になればなるほど足が動かなくなるとか、犬が出てきたら嫌だなと思った途端に出てくるとか(私の夢ではあまりないことだけど)。投げる位置の隣に障害物ができて、腕がぶつかったらいやだなと思ったとおりにぶつけたり、天井にあがって落ちて来ないかもと思ったとおりの展開になったりしたのはきっとその類のものだ。上手く行くことを想像していたら上手く行っていたのだろうか? それだったら第一投で成功しているはずなんだが。ばっちり届くことを多分に想定して投げたからなあ。
自分が見る夢は細部の設定が妙に現実的。そのくせ一人乗りドローンのような非現実的なものをすんなり受け付けたりする。プロペラは確か1つしかなかったはずで、それであんなに安定して飛べるわけがない。
やっぱり12日は終わらなかったよ。考察書くので精一杯。13日はMapを入れてpdf化まで終わらせた。
珍しく逐一報告しているが特に理由はない。あたまがさえて眠くなれないので書いて疲れたいという日が多かったというだけだ。生存報告のつもりもお疲れ様を言われたいがためでもない。←わざわざこういう書き方をするやつはそういう発想が頭にあるから書けるのであって微塵もそんなことを思っていなければ書こうにも書けないだろう厭らしい慣用文だと思っているのでその通りに書く。あいにく自分はそう思っていない。余計な注記を入れることでnagajisを貶めるために書いている。
もう一編はどうしよう。明日までに決めとくこと。
文章が上から目線になりがちなのはそれが自分にあてて書いているからなんじゃないかと慰めてみた。発見や気付きを誇りたくはないが書いておかないと忘れるし発見した意味もないしですると自然その矛先宛先提出先は自分自身とならざるを得ず、そうすると自分は自分を見下しているから書く自分は優位に立ちたがる。できあがったものは鼻につくものになる。誤りのない、感情に偽りのない、過不足のないことばを探して呻吟しているのもとどのつまりは自分に宛てているからだろう。嘘書いたってバレるしな。自分自身に。 傀儡に武器を与えて操る我が身を抹殺させむとするような愚挙。
そうやって己を諭すようなものを十何年も書いてりゃそりゃ行き詰まるだろうよ。いやむしろ未だ同じことをやれていて?やっていて?!飽きもせずま懲りもせずまだ同じことをやっているのが不思議なくらいだ。
今回は正直なところ25日26日の準備のほうに気を取られている。気を取られるばかりで別にそっちに着手したりはしていないが無駄に気を揉んで脳力を消耗しておる。 中途半端な気持ちで行って中途半端に終わりそうな気がしてならぬ。さっさと宿予約しないと知らないぞ。バスでゆくのか新幹線かも決めてないのは馬鹿だぞ。
官報で四日市煉瓦会社が M21.3.頃に東海道鉄道用厚形煉瓦石を請負ったという話を知って、その頃から隅立て井筒+三線印が初期の四日市煉瓦の印である可能性を考えるようになり、もう一度東阿倉川を歩く必要を感じていた。そうして再訪して望み通りのものを見つける。我ながら空恐ろしくなる。ただし同じ構造物から勢陽組・水谷工場の識別印とみられる大型カナ印も出胎していて、そのことをずっと考えながら歩いていた。水谷工場のものだとするとM22以降に作られた煙突ということになるが、そもそもその頃には四日市煉瓦がすぐそばで操業していたわけだから四日市煉瓦から直に全部買ってくれば早い話。それに、湖東線米原~長浜間(M22前半)とか屋ノ棟川隧道(M21.12.)とか石ヶ瀬川橋梁井筒(M24.6.)は使われていたに使われているのはいいとしても、揖斐川橋梁左岸の橋台の井筒(M19)とか武豊線北浜田暗渠(M18.10.)とかにもあるのはおかしいわけで。しかし後者2つは濃尾地震後に改築した可能性があるのでその頃に突っ込まれたと見れなくはない。だいいちこれを三陶組のとみたところで矛盾することには変わりがないし、揖斐川橋梁は橋脚井筒に西尾士族工場のを使っているのだから橋台井筒もそれであっていいはずなのだ。やはり改築で上だけちょっと積み直したとみていいのではあるまいか。
四日市煉瓦はM20に四日市の九鬼紋七、日永の松岡忠四郎によって興されたが(『海蔵小誌』)、その後四日市の実業家・水谷孫右衛門が買収したんじゃなかったっけか。そのせいか三重県統計書明治27年の頃からM26.4.創業とされるようになり名称も「四日市煉瓦製造所」になる。M29竣工の北陸線山中隧道では“△Y.B.”が検出されているからこれが新組織の商標であったのではないか。T7-8頃『大日本商工録第1輯』には高浜の支社のところにこの商標が掲げられているがこの頃には合資会社になっててM44創業にされたりしている。とにかくM20創業からM26までの期間に隅立て井筒が使われていたとすればうまく説明できそうにみえる。
石ヶ瀬川橋梁の隅立て井筒の断面が三河のに似ているのは三河から技術流入があったらからも知れぬ。『三重県史』資料の紛議の記事に出てくる被害者(親方)は三河出身で三河で煉瓦造りに関わっていたようだ。
その後四日市港を見に行き、さらに松岡忠四郎の絡みで日永になにかあるかも知れないと思い東海道筋に足を伸ばして、その日永で不審行動を咎められてしまう。ふいに煉瓦壁が現れしかも3インチ厚だったものだから深く考えずに突っ込んでしまった。よくないことだ……。反省しなければならない。結局日永方面ではこれ以外に発見なし。ただし街道筋だからといって各種煉瓦が広範囲に分布しているわけではないことは確認できたということにしておこう。