nagajisの日不定記。
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仕上げた余勢でもう一つ。意外と豊富に資料が見つかって、急拵えの割に充実したものになりそうな塩梅。しかし妙にノッてしまったため明日は余裕がない。
しかしあれだよな、こっちは歴史的事実を知りたいだけなのに、開いただけで軍歌が流れたり私情怨念たっぷりの文章を読まされたりするwebは苦痛だ。なんとかならないものか。あれだけ愚駄愚駄書いときながらどの口が言うかと思ったりもするが、自分の残したものに価値があるとは思っていないだけマシなんじゃないだろうか。あと政府とか学者とかがやったことを政府や学者がやったことだからというただその一点のみを理由にして否定するのは愚かなことだと思うね。
こんだけだと何のことやらさっぱりわからんな。
流し台の蛇口が設置されている奥行き12cmほどのスペースに台所用洗剤を置いている。左をひねれば湯が出て右をひねれば水が出てという普通の蛇口である。その蛇口の右側に洗剤を立てている。その洗剤が、水の蛇口を捻るたびに落ちる。
洗剤はそこにしか置き場がなくて仕方なく置いている。できるだけ蛇口から離したところに置こうと心がけている。にもかかわらず3回に1回くらい手が当たって落ちる。右にひねると水が出るから、ちょうど洗剤を引き倒す方向に手が当たってしまう。そうして洗剤が落ちる。そのたびに拾って立て直している。
いつだったか、面倒臭がってそのままにしておいたら中身が流れ出て1/3も無駄にした。茹でたそうめんの上に洗剤が落ちたこともある。もっと別のところに置きたいとか、落ちないような工夫がしたいとは常々考えているのだけれども、その処置を施す前に手が当たり、洗剤は落ちてしまう。
つくづく愚かだとは思うのだ。落ちることがわかっていながら対処しないのは、不便だ不便だと文句を垂れてばかりで何らアクションを起こさない[禁則事項です]そのものじゃないか。情けないじゃないか。じゃあ何とかしろと思うのだ。思うのだけれども、対処を施す前に洗剤が落ちるのだ。
何とかならないものだろうか。
N氏とのツール・ド・北九州でこんな感じの構図の写真を撮ったような気がする。今から22年も前の話。さんふらわあやこがねでも撮ったはず。フェリーの描く航跡がそんなに好きか、と思う。
好きなんだろうな。後ろを振り返ることが。行く先はぶっちゃけどうでもいい。なるようにしかならない。自分が通ってきた世界、うしろの世界にばかり興味がある。見落としたものがあるかも知れない。気が付かなかった何かがあるかも知れない。振り返ってみて初めてわかることも多々ある。そこが「自分が知っている場所」だという安心感があるからか。
ひいこらひいこら言って登った峠から、自分が登ってきた道をはるか眼下に見下げるあの瞬間が好き。そこに自分の知る空間があって、Vacantな森がただ広がってるだけじゃないってことを確認する。見渡す限りの海原で、知ってるもナニもない世界だからこそ軌跡としての航跡を心の拠り所にしたいのかも知れない。
右足がイカレポンチになってから長時間歩くと小指の付け根の辺りがジンジンするようになって困っていたのだが、巨大なタコができたせいでそうなっているのだとつい最近気づいた。タコとタコでないところとの境のところで皮膚がヨレて痛むのだ。
ならばと思い、風呂に入りながらヤスリでゴリゴリ削ってみている。角質取りのヤスリではなく、100円ショップで木工用鉄工用として売っていたごく普通のヤスリである。いかにも肉体改造してるっていう気分になる。そんなのでいいのかと思ったりもするが、意外や意外、効果覿面担々麺、御免ボーメンはい残念だ。
しかし加減がよくわからぬ。時々ぴりっと痛むのだがそれがタコでない皮膚を削ってしまったことによるものなのかタコ−非タコの境界部が痛いのか判別しづらい。しかも小指の付け根だから目視しながらの加工は不可能だ。嘘だと思うならやってみるといい。あぐらをくんで右足を掴んで足の裏を持ち上げて見ようとすると見事にひっくり返る。浮力場に支配された風呂桶のなかではなおさらだ。