nagajisの日不定記。
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官報で四日市煉瓦会社が M21.3.頃に東海道鉄道用厚形煉瓦石を請負ったという話を知って、その頃から隅立て井筒+三線印が初期の四日市煉瓦の印である可能性を考えるようになり、もう一度東阿倉川を歩く必要を感じていた。そうして再訪して望み通りのものを見つける。我ながら空恐ろしくなる。ただし同じ構造物から勢陽組・水谷工場の識別印とみられる大型カナ印も出胎していて、そのことをずっと考えながら歩いていた。水谷工場のものだとするとM22以降に作られた煙突ということになるが、そもそもその頃には四日市煉瓦がすぐそばで操業していたわけだから四日市煉瓦から直に全部買ってくれば早い話。それに、湖東線米原~長浜間(M22前半)とか屋ノ棟川隧道(M21.12.)とか石ヶ瀬川橋梁井筒(M24.6.)は使われていたに使われているのはいいとしても、揖斐川橋梁左岸の橋台の井筒(M19)とか武豊線北浜田暗渠(M18.10.)とかにもあるのはおかしいわけで。しかし後者2つは濃尾地震後に改築した可能性があるのでその頃に突っ込まれたと見れなくはない。だいいちこれを三陶組のとみたところで矛盾することには変わりがないし、揖斐川橋梁は橋脚井筒に西尾士族工場のを使っているのだから橋台井筒もそれであっていいはずなのだ。やはり改築で上だけちょっと積み直したとみていいのではあるまいか。
四日市煉瓦はM20に四日市の九鬼紋七、日永の松岡忠四郎によって興されたが(『海蔵小誌』)、その後四日市の実業家・水谷孫右衛門が買収したんじゃなかったっけか。そのせいか三重県統計書明治27年の頃からM26.4.創業とされるようになり名称も「四日市煉瓦製造所」になる。M29竣工の北陸線山中隧道では“△Y.B.”が検出されているからこれが新組織の商標であったのではないか。T7-8頃『大日本商工録第1輯』には高浜の支社のところにこの商標が掲げられているがこの頃には合資会社になっててM44創業にされたりしている。とにかくM20創業からM26までの期間に隅立て井筒が使われていたとすればうまく説明できそうにみえる。
石ヶ瀬川橋梁の隅立て井筒の断面が三河のに似ているのは三河から技術流入があったらからも知れぬ。『三重県史』資料の紛議の記事に出てくる被害者(親方)は三河出身で三河で煉瓦造りに関わっていたようだ。
その後四日市港を見に行き、さらに松岡忠四郎の絡みで日永になにかあるかも知れないと思い東海道筋に足を伸ばして、その日永で不審行動を咎められてしまう。ふいに煉瓦壁が現れしかも3インチ厚だったものだから深く考えずに突っ込んでしまった。よくないことだ……。反省しなければならない。結局日永方面ではこれ以外に発見なし。ただし街道筋だからといって各種煉瓦が広範囲に分布しているわけではないことは確認できたということにしておこう。