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2012-06-02 [長年日記]

[KINIAS] 見学会

画像の説明

無事終了.最大の収穫はこれ.ホフマン窯で煉瓦を焼く時,このような井桁を組んでいたという.以前杉本隧道でゲッツした不良煉瓦がなぜあの形だったのかはっきり理解された.

この積み方は中山煉瓦で実際に行なわれていたものだとか.かつてここで働いていた人がたまたま見学に来て教えてくれたという.こういう偶然の伝承はとても貴重だと思う.書いて残しておく.記憶せよ諸氏諸嬢.

(中山煉瓦の煉瓦が杉本隧道に使われたということではない.杉本のそれ専用に設けた施設で作られたらしいし,中山煉瓦以外にも小さな煉瓦工場がいくつもあったそうだ).

中山煉瓦へ向かうバスの中で地元のおばあちゃんと話し込んだ(このバスにこんなに多くの人が乗るのは珍しいといって驚いていた.今回は総勢20人近い参加者).若い頃は煉瓦の素材になる土を運んでいるのをよく見たという.田畑の表面の土(アマツチというそうだ)をはがし,その下にある赤土を,ちょうど煉瓦のサイズに切り取って運んでいたという.それをチャプチャプ水が入るほどに舟いっぱいに積んで,八幡掘を通って中山煉瓦へ運んでいた.仕事に従事したのはみな身持ちの男性ばかりだったという.そうでなければ勤まらない重労働だったという.

その土をママ乾かして焼くのかと思ったらそうではないらしい.石井さん曰く,近江八幡一帯の赤土は砂分が少なく,煉瓦向きではないとか.砂を加えて練り直し,素材にしたそうだ.その機械も残されていたが…名前を忘れてしまった.


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