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旧道倶樂部録"

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2018-03-01 [長年日記]

[煉瓦][煉瓦工場] 鐘ヶ坂の煉瓦

画像の説明

前回訪問した時にも見ているはずの看板。これを見て、そういえば上小倉のどこで焼いたのだろうと疑問に思ってそのままだったことを思い出した。正確な場所がわかっていたりするのだろうか。それとも大字だけしか伝わっていないのか。

丹波市教育委員会さんにお尋ねしたところ、わざわざ調べてご返答してくださった。曰く煉瓦を焼いた場所と伝わっている場所があるという。興味深いことにそれは平野部の端ではなく集落から200mほど登った竹やぶの中だそう。伝敦賀線建設用煉瓦工場の立地とどこか似ているようなのだ。あちらは明治15年頃、こちらは明治16年竣工、ついでにいうと鐘ヶ坂隧道も敦賀線も藤田組が関わっている。看板では鹿児島の職人となっているけれども(この鹿児島の職人というのも地味に興味深い。鉄道省の堺煉瓦工場は鹿児島県人原口亀太郎と永井庄右衛門に払い下げられた)。

柏原側はこのように煉瓦工場の跡がわかっている。では篠山側はどうなんだろう? トンネルは両側坑口から順次巻立てていくものなので、貫通する前から篠山側にも煉瓦を供給する必要があった。鐘ヶ坂はあんな山道だし追入のほうへ降りて行ってしまうので上小倉から担いで越えて運んだようには思われない。それに先日masaさんが興味深いことを指摘して下さった。鐘ヶ坂隧道の坑口は篠山口のほうばかり風化が著しいのだ。柏原側はさほど目立って傷んでいるわけではない。だとすると柏原側と篠山側とで異なる製造ラインの煉瓦が用いられている=篠山側にも工場があって篠山側坑口の煉瓦を供給したりしたんじゃないだろうか。

という疑問も、篠山市教育委員会さんにぶつけてみた。結果は、不明。篠山側には工場跡と伝わる場所はないそうだ。かといって上小倉から運んだという話もないらしい(丹南町史には何も書いてなかったと思う。あとで見てみよう)。

先日隧道口で拾ってきた煉瓦の割れ方と、伝敦賀線煉瓦工場跡の焼損煉瓦のそれがよく似ている気がしてならない。全面的にでかいヒビが入っていて粉々になる寸前という態をしている。ただし煉瓦のサイズは若干違うし(小口幅が少し小さい)、鐘ヶ坂のは裏筋がついている。薄いので坑口に使われているやつではないはずだ。

[古レール] 福知山線要再調査

福知山線阿草トンネルの辺りで八幡製鉄所1903を発見したのに調子づいて、そういや福知山線のレールはほとんどチェックしてなかったなと思う。福知山線沿線には意外と古いレールが多い。双頭レールだってハイキング道脇の桜の園のあれだけじゃないんだ。野田尾Tの向こうにもあったんだ。しかし銘を調べるのを忘れている。それ以外にもホッパーだとか防護柵だとか古レール使用構造物は沢山ある。多分隧道はどれも防護柵つきだったと思う。そういう古レールの銘を徹底的に調べたら面白いのではないか。

黒田の周辺の旧隧道とかも見ときたいなあ。これは単純にコンプリート目的でそう思う。

といったわけで、二週連続で丹波詣でになりそうな予感。藪の薄い今の時期に片付けられる仕事は片付けておきたい。

[独言] PC

スイッチを押せば当然のように立ち上がる有り難さ。なんでもないようなことが幸せなんだねえ。

[] 丹波国鐘坂隧道概記並畧図

概記

凡国家の富強社会の開明を図るは人智を開達し物産を蕃殖するより先なるはなく人智を開達し物産を蕃殖するは交通運輸を便にするより急なるはなし故に道路を修め水利を通ずるは方今の急務にして其国家を利する鮮少ならず西舊道路を開くを富強の基本又文明の先導と云とかや然れどもこれを行う甚難し況や其事業の偉大なるに於てをや苟も奮興能く其志気を■まし堅忍能く其難苦に耐え所謂金石亦透るの精神あるに非ずんば奚(いずくん)ぞ能く其目的を達するを得ん我鐘ヶ坂隧道開鑿事業の如き亦これと同じく而て能其目的を達したりと云べし抑(そもそも)該坂は山陰街道中丹波国氷上多紀量郡界を横断する峻山にして坂路険悪にしてこれを■■すれば隆冬と雖も苦汗背に溢るるに至り行旅嶮を避け車両通せず其交通運輸を妨ぐる甚しく世人これを憂うるや久し然れども未だ救済の策を得ざりしに明治十三年一月六日氷上郡柏原町に於て同所土田雅二片山助右衛門三崎■七安藤久治郎中谷保太郎前川九平谷忠衛門等事あり少集す氷上郡長田艇吉氏及多紀郡大山宮村園田多祐亦席に在り■偶ま道路改修の急務なるより鐘ヶ坂の嶮を破らざるべからざるに説き及ぼし衆互に熱心■■の色あり依て翌日再び席を開き猶お三崎半四郎片山武兵衛小谷広次本庄弥七郎上山正蔵等相加り衆議遂に鐘ヶ坂に隧道を穿つの挙を企つるに決し此の工費大約壱万円乃至壱万五千円の胸算にして両郡有志輩より其三分二を醵出し残費は官の補助を仰がんとす就ては発起人於て先ず義醵を為し以て赤心を表し他を喚起せざるべからずとて寄附出金を約し猶幾くもなく多紀郡園田量助中道伊兵衛の賛成するあって僅々十六名にて二千余円を得たり於茲氷上郡長は多紀郡長安藤直紀氏に■議して両郡の協同一致を図り更に郡内名族芦田塚口衣川等の拾名を招き諮詢せしに各同意し且発起人■請に任せ其総代となり斡旋するに至る依て本県に稟請し県官森喜治氏の実測を受け死に経費凡三万円を用うるにあらざれば十分の目的を達す可からずと為せり於是[衆?]一時は愕[胎?]失望せしも固より半途挫折すべきに非ざれば発起総代芦田園田等両郡長に随伴出県親しく県令に就て官金補助増加の事を懇請せり当時大書記官原保太郎君土木課長二等属須永綽氏等大に此挙を賛成し為めに幇助せらるる所あり県令森岡昌純君に於ても深く讃美せらると雖も僻地に対しては偉大の奇工に付或は失挙あらんことを■はかくし稍持重せらるるものの如し然れども其事の公益に■する遠大にして発起人等の美志を空うするを惜まるにや遂に特■を以て其[願?]を容れられたり是より先き氷上郡は発起総代等に於て尚一層其規模を大にし併て郡内縦横の県道をも改修することとせば其影響する所広く且切なるを以て義醵集り易すからんとの意見■■■れども費途の■られざるを顧慮し躊躇せしに今や隧道費の大分は官弁を受くることとなりたれば人民に於てもこれに応じ一層発奮する所なくの■■くす因てこれを郡の公議に質し進止を取らんとて遂に仝郡町村連合会を開設せしに大多数の賛成を以て自ら其費任を負荷して隧道起功並県道■■■■することに決定し芦田辰左衛門(後衣川佐兵衛これに代る)塚口邦之亮土田雅二の三名を以て土功委員とし百般の事務を担任せしめたり於茲委員は多くの周旋人等を撰■し東西奔走大に周旋する所ありしは郡民速に饗応し義挙を助くるもの三千三百余人此金大約壱万五千円内一半は郡内県道改修の費途に充て残凡一半と多紀郡に於て園田多祐同量助中道伊兵衛等委員と為り百方盡力専ら同志を糾合し得たる所の金額三千三百円合計壱万余金を郡民の寄附義出とし以上の費途は官費又は地方税の補助を以て起功あらんことを公願せり仍て県令は大坂藤田組に命じ明治十三年十二月廿一日より開鑿に着手せしめられ破裂■[導?]を以て昼夜間断なく東西両口より穽掘すること歳余同十五年三月二日遂に会中せり当時坑内極めて狭少■躬横に身を容るるに過ずと雖も路線矢直にて東西互に日光を[通?]すを得べし人皆測算の精確と工事の巧妙に服せり爾後其幅員を広め磚瓦を畳み措据[経営?]同十六年九月廿四日に至り全く其功を竣え来十月十三日を卜し将に開通式を行わんとす此工月を閲する三十四洞長さ百四十七間高さ拾壱尺乃至拾四尺敷幅拾三尺六寸中央広さ拾五尺畳磚の囲む所長さ八拾四間余其層二枚乃至四枚坑門は堅石を以てこれを造り上に三條有栖川両大臣親■[碩?額?]字を刻み結構完[円?]観■壮麗前後繋ぐに拾余町の新路を以てし殊に西口は小楼を起し自噴貯水器を据え路傍新に桜楓等を樹ゆる千余猶紀功の巨碑を建設せんと欲し即今其撰文を編修副長官重野安繹君に請託せり此役使用する夫役凡六万三千任実質四万円余終始工事を監督せしは本県土木課員七等属森喜治氏にて該課長一等属賀集寅次郎氏これを総括し両郡長と供に■力少なからず氷上郡長書記山下銀四郎氏等与(あずか)りを能勤めたり就中首尾熱心従事せしは氷上郡長にして労費を吝まず力(つとめ)て同志恊合に尽せしは園田多祐を最とし周旋甚だ勤を能く官民間を調えしは塚口邦之亮土田雅二及芦田辰左衛門等にして衣川佐兵衛園田量助以下の委員発起人等これに亜(つ)ぐ而して工事斯く多の歳月を費せしは地中渾て堅剛なる磐石にして鏨鑿極めて至難なるに依ると云然れども受負者藤田組に於ては毫も屈撓せず手代沼野芳輔等能工夫を使役し施工中崩壊或は役夫死傷等の災厄なく■功を完成せしは天幸と[口?]うと雖ども抑亦藤田組の能く其責任を尽したるに依るなり初め該功を企つる[に?]県庁に於ては土木官費定額中より年を逐い漸次補助せらるる予算の如くなりしが実施着手に及び一般官費廃止の公布出て地方税使用の如きも常置委員に諮問を要せらるることとなり百事齟齬し大に困頓せられたりと此時に当り■言■起事の中廃に属せんを惧るるものあり県令毅然として曰く如此事業に対し思[慮?]を費やすは宜く着手以前に有るべし事既に決す今に迨(およ)んで何ぞ躊躇すべけんや艱難に遭遇するは予め期する所飽迄耐忍初志を貫かざるべからずと衆乃ち安んじ工事未だ半ば鳴らざるに各速に寄付金を■納し毫も其期を■あらざるのみならず其間往々不時の災に罹り資産を失い或示談身代限を為す等のことありしも債主の承諾を得て完済し此寄付金に於ては壱銭をも欠くる所莫く能其義務を竭(つく)せり県令深く其篤志を感称せられ益信義を固持し敢て阻ばまるる色なく工事を継続せしめ毎々の稟請上■に於て受理なきも猶屈せず自ら出京慇懃に情理を悉くして遂に庁議を動かし特別を以該費中人民寄付(前後道路に若干の地方税補助ありと)を除くの外は総て国庫より補給せらるることとなりし由これより先き氷上郡に於て寄付義出する所の金八千円余に地方税の補助を加え郡内遠坂小野尻塩津其他諸坂路並これに連絡する県道共年々改修し是亦過半成る抑斯く偉大なる功業をして僅々二郡人民の義金に基き幾多の艱難を排除し以て完■なる結菓を観るを得るもの蓋郡民義気の厚きと関係諸員拮据宜を得るの功多きに居ると雖ども県令の民利公益の重んぜらるるの深き力を用いらるるの厚きに非ずんば安く能く爰に到るを得ん亦以て平素官民協和の一端を観るに足る於茲や行旅の労■車馬の艱易前日に比せば霄壌啻(ただ)ならず世人の憂は全く消散し大に交通運輸の便を開き将来人智の開通物産の蕃殖期して俟ち得べし実に我二郡遠大の幸福と云うし豈二郡のみならんや実に国家の幸福なり

(原文旧漢字カナを新字かなに改)

はるか昔に柏原町歴史民俗資料館からいただいていた資料。FAXのヘッダーには2004年11月26日とある。FAXゆえ潰れたり掠れたりして読めないところが多く、無論読めても意味の分からぬ単語などもあって、重要なところだけ拾い読みするのが関の山だった。14年ぶりに引っ張りだしてきてみると、おおお、読める、読めるぞ! まるで飛行石を手にしたムスカ大佐みたいな感じだ。それが嬉しくてテキスト起こしなどしてみた。■はどうしても判読できなかった一字、[]は推定。

前半は企画のいきさつと工費集めの苦労話が中心。工事に関する詳細は後半。抹殺博士が出てくるのも後半だし「来る十月十三日に開道式」もそこに出てくる。すなわちこの文章が明治16年10月13日以前に作成されたものという根拠。大事なとこなのに読み飛ばすな>nagajis。

西旧道は略図のほうにも出てくる言葉で旧鐘ヶ坂峠道のことらしい。隆冬は冬の最も寒い時期のこと。 霄:しょう=空、壌=地、霄壌啻ならずとは天と地の違いよりももっと違うの意。

森岡県令がゴーサインを出した時には土木費は下げ渡し金として国から各県に投下されていた。その直後に下げ渡し金が廃止となって原則地方税で賄うことになり、それは厳しいということで特別に国庫補助を仰いだのだ。このへんは「補助金の社会学」にも書かれていた筈。そうそう後半に巻き立て長が隧道長より短いこととか内部幅が坑門幅より広いことが書かれてある。竣功当時は内部が巻立てられていなかった証拠。ただしその後に巻き立てたうえに坑道一通の巻き直しをしている。昭和の掘り下げで崩落したのはこの煉瓦巻きのはず(「丹波新聞」バックナンバー)。

あと、現地看板では申請の翌年に許可となっているんだけども、丹波氷上郡志の資料編に掲げてある上申書とその返信はどっちも13年だった。だから翌日にはもうOKなんかとおどろいて報告書にはそう書いてたのだ。そっちが間違ってたんだろうか。それとも早とちりか。>そうか、計画は十二年から始まっていて、工費15000円弱と見込んで森土木課長の調査を乞うたのが十二年。その結果3万かかると言われてしまい、東 西 奔走して1/3を集め、残りのを補助してくれと請願したのが13年の上申書なんだ。その返答は確かに翌日あったれども県令とは前々から内諾根回しがあったんだと思う、2/3補助してやるから残りは自分たちで何とかしろ、的な。んで何とかなったので「見込み伺」に繋がっていくわけだ。

概記を読んで改めて郡志を読むと、郡志の記述は概記の端折り書きなのがよくわかる。

14年でこの資料が読めるほどには成長した。嬉しいことだ誇らしいことだ。まったく無駄な七七年ではなかったのね偉いなねかったなねたと、まには自分を褒めてあげよう。

そっか、この時に小野尻峠も改修されたのか。だとするとあの旧道がそうなんだろう。日曜日の探索は地味に連綿があったのだなあ。


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