nagajisの日不定記。
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http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/529
煉瓦製造は、安政四年に幕府長崎に製鉄所を設けた際、瓦屋に命じて焼かしめたのを以て創始といわれている。明治になってからは二年に造幣局の建築起工に際し、用材として製造された。当時瓦製造師として有名であった東湊の瓦屋藤吉に用命した。藤吉は大阪諸藩用達仁屋松之助の助力を得、造幣局の雇英人キンドル Thomas William Kinder. から製造術を伝習し、初めて堺製の煉瓦を製造したのである。(小澤扶公氏談話筆記)次いで三年工部省鉄道寮が、当時民部省の所属であった住吉橋通二丁目旧箱館会所跡に煉瓦製造所を設け、京都府、兵庫県の陶器職工、屋根瓦職工を招いて製造法を教え、囚徒等を使役して盛んに製造した。斯様に煉瓦製造地として堺が第一に着目せられたのは、此附近に煉瓦の原料となる良質の粘土が産出したからである。当時焼窯は陶器職が慣用していた登り窯三座を築き一座を八室乃至十室とし、土練は足蹈、白地は手押式に依り、型は木枠を用い、風日に乾燥せしめた。此堺製の煉瓦は普通の二、四、八型(二寸、四寸、八寸)で広島で製造していた山陽型より小さかった。其後六年になって此製造所は原口仲太郎に払下げられた。(鉄道一瞥) 政府が工場を設立して以来此新工業に従事するもの相踵ぎ、就中舳松村の瓦師丹治利右衛門は其率先者であった。同家は屋根瓦製造を業としていたが、三年少林寺町引接寺跡に工場を建設した。かく製造は漸く其緒に就いたが主に官衙用に供せられたのみで、未だ一般世人の需要を喚起する迄には至らなかった。(丹治利右衛門煉瓦業沿革、大阪府市、第三回内国勧業博覧会出品解説書)
堺市史第三編 pp.884-885
この段の前の方に箱館会所の記事がある。住吉橋二丁目北・南。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/563
煉瓦は十五、六年頃より盛んに製造され、次で十七、八年に至っては鉄道敷設工事や紡績会社を初め、其他諸会社の勃興により官私両方面に需要が激増したので製造工場も次第に増加し、二十一年には九個所を数うるに至った。(堺史料類纂工業之部)
p.945
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/676
窯業では煉瓦、土管、硝子、琺瑯鉄器の製造を数えることが出来る。煉瓦は明治二十一年を最盛期として、其後衰微に傾き、二十四年其極度に達したが、二十七、八年戦役後頽勢を挽回し、其間大阪窯業株式会社堺分工場、日本煉瓦株式会社、堺煉瓦株式会社、丹治煉瓦製造所等の製造所が並立して堺煉瓦の全盛時代を作った。新機械を輸入して製法に改善が加えられたのも此時の事である。其中大阪窯業株式会社堺分工場が規模最大であった。同社は大阪に本社を有し、二十九年一月南附洲新田に堺分工場が設けられた。三十七、八年戦役以後は販路の拡張となり、満鮮地方に盛んに輸出され、米国よりの注文を見る程活況を呈して来た。(堺資料類纂工業之部、大阪毎日新聞堺周報)
p.1151-
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899286/54
附録 鉄道瑣談
○煉瓦創製の事
東京横浜間創業の際には世に煉瓦製造者なく又沿線附近に佳良の粘土なければ創製すること容易ならず、依て石材のみ使用したり、大阪神戸地方にも最初煉瓦製造者ある筈なきも堺附近に恰好の粘土産出し且つ燃料として紀州地方より松薪を得ること容易なれば鉄道寮は此の地に煉瓦創製の計画を立てたり
堺大浜通に旧幕府に属せし函館物産会所の廃邸あり、周囲広闊にして掘割を以て港口に通し小船出入の便あり、当時堺県の所轄なりしが鉄道寮其の引継を受け之に煉瓦製造所を設けたるは明治三年某月なり、製造の主任者は中属長谷川彦兵衛にして大属原川魁助庶務を総理し製造総指揮者は傭外国人にして外に数十名の官員従業し従来当地の屋根瓦製造業者たりし丹治長蔵なる者職工長として勤務せり、当時煉瓦製造を知るものなきを以て鉄道寮は京都府、兵庫県へ照会して管内の陶器職工又は屋根瓦職工を命令的に堺に召集し傭外国人之に製造法を教授したり、窯は陶器職が慣用せし登り窯三座を築き一座は八室乃至十室にして白地一万二三千枚を容るに足れり、土煉は足蹈にして白地は手押式に依り型は木枠を用い風日に乾燥せしむ、粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡辺にて採取し胴木は紀州又は四国産を集め差木は赤穂の小割材を用いたり、粘土質は佳良なるを以て形状正しく且つ堅緻にして石を凌ぐ如きものを製すを得、品位は三等に分ち上中下とせり、而して製品は小帆船を以て大阪、尼ヶ崎、西宮、神戸に運搬し各建設所に車力を以て配給せり
明治五年の秋中属岡崎正作、権少属村井正利の二人堺製造所勤務となり従来の官員は概ね転免せられ只二三の等外吏をとどめたり、是れ従業員多きに過ぎ経費嵩むを以て冗員を淘汰し製造所の経済を維持せんが為めなり、爾来岡崎、村井の二人之が経営の任に当りしが村井(後鉄道属、事務官は一介の漢学書生にして煉瓦の知識あらざりしも前に東京府に奉職して教育所掛に勤務し稍々細民の事情を解し之を使うに慣れたれば専ら職工に接触して製造法を究め火度火色の判断に熟するに至り監督肯綮を得て漸次経費も節減し得たり、後明治一九年東海道線起工に際し江尻、金谷、中泉の三箇所に煉瓦工場を設け沼津天龍間に遅滞なく供給したる成績は明治五年の堺に於ける経験に基くものと村井自ら常に語れり
明治六年の夏に至り堺煉瓦製造所払下の議寮内に起り鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎の両人に地所建物機械一切を払下げ製品は必要に応じ時々買上ぐることと成れり、是より先中属岡崎正作は本寮に還り少属宇都宮正信代って来任したりしが払下決定の命に接し村井と共に他に転じたり
pp.55-56
MLAY…MLAY!
大阪府各省局官員録. 明治11年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779121/34 前年のでは正則になってる。