nagajisの日不定記。
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Oさんからデータを頂くわbdbを見た方からご連絡を頂くわ滋賀県Uさんから身の縮み上がるようなご提案を頂くわでなんとも慌ただしい。4月末から含めたらやましろ投稿もそうじゃないか。降り続けだ。そうして指先のしびれが手首にまで及んできていてこちらも大変だ。
4月の終わり頃にクレカの更新が届いていたらしいのだが、ドアポストに不在通知が投函されていたために全然気付かなかった(いやドアポスト投函が正しいやり方なんだろうけれど。わたしゃ滅多に見ないのよドアポストは)。GW過ぎてようやくそれを発見した時には保管期限などとうの昔に切れていた。しかも2行ぶんだ。
電話で問い合わせたところ、一行はすごく丁寧に対応してくれ、すでに再送中であると教えてくれた。ご不便をおかけしてまことに申し訳ありません、てさ。いえいえ別にカード無くても困っちゃないんですけどね機能さえしてくれれば。楽天の方も多分再送中だと踏んで問い合わせはしなかった。さっき届いていたメッセージを見てみたら、やはり再送したとの連絡。「必ず受け取れよゴルァ」と言わんばかりの高圧的文面で、こういう所にも品の差が出るのだなあと思ったことだった。さすがは楽天である。
通勤中にふと「情報の価値はdivで測られるべきではないか」的なことを考えた。
貴金属や貨幣、不動産といった「モノ」は、それがそこにあるだけで価値を有している。1000えん持っているというただそれだけで私は幸せになれる。ダイアモンドは例え自分のものでないとしてもそれ自身に価値があることがわかる。それがモノの価値である。
昨今は「情報」にも価値があるという。しかし「情報の価値」と「モノの価値」はちょっと違うように思われる。情報は持っているだけでは価値がない。そこにあるだけでは価値がない。例えば私が「勢陽組の煉瓦が米原まで進出していた」という情報を持っていたとしても、誰にも言わずにニヤニヤ笑って反芻しているだけでは何の価値も生じない。どこかに書いて誰かに知らせ、そのことに興味を持ってくれる人に伝わらなければ無価値である(刻印煉瓦自体はまあ、あればあったでなんらかの価値があるかも知れぬが、それはモノの価値だろう)。村田鶴の履歴書が滋賀県庁に保管されていてもアクセス不可能であれば全く無意味で価値も有さない。それが公開され、中身が私に伝わった時に私にとってかけがえのない価値が生まれた。ただの古レールと思っていたものが、実は貴重な1本であるということがわかり、その情報が加わったことで価値が増したというのもそうだ。貴重だという情報が加わらなかったらだの鉄の塊であり続けていただろう。加わった後のレールには価値がでたとしても、それを可能にした情報にも価値を認めなければならないのではないか。お金だってそうか。日本銀行が価値を保証してくれるという情報が加わっているから価値があるのであって、その情報が伝わってない世捨て人とかコロポックルとかにとっちゃあただの紙切れであるだろう。ケツ拭くのにもチラ裏を書くにも使えない難儀な紙切れである。
要するに、情報は「伝わる」「加わる」時に価値が生まれるのではないか。情報は「移動する」際のなにか(速度?加速度?単位時間量?)によって価値が測られるべきできはないか。と、そういうようなことを思いついたのだった。
んで、電磁気学かろうじて可だった脳みそが「divで考えろ」と宣っている。発散とか∇とかでてくるやつだ。しかしどう適用すればいいのかよくわからない。そもそも情報は三次元のベクトルでよいのか。スカラーでgradでも構わないのではないか。
それはまあ脇に置いといて、情報を「動かす」のであれば、そこにやっぱりエネルギーが必要となる。文字を書くとか写真を撮るとか能動的な行動を必要とする。情報に価値を与えるためにはエネルギーが要る。それが代償である。位まで考えたところで頭がショートした。惜しいな。