nagajisの日不定記。
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関西すら解明できてねーっつうのに東のほうへ手を出したのは要するに褒められたいからである。卑しい魂胆である。故にそのことを言明しておく。小さい人間なのである。
(たぶん同じ人間が同じ感覚で作らないと工場通覧のメタメタな表記揺れはまとめられない。どうせ誤差が出るなら一個人の判定誤差で統一的に誤差したらよからんずらん)
そうしてここから先が大変。工場通覧のS10頃のとか戦後のとか、諸会社役員表とか、工業名鑑とか、各府県の統計書とかみないかん。そのうえ東京や埼玉栃木や北海道や神奈川はM30代以前がキモになるはずで、しかしそのへんのデータがうまく手に入るとは限らない。試みに東京府の統計書を触ってみたが最初から数値統計だけで工場名一覧はござ覧のだ。どうしたものか。そうしてもう次号の作成期間に突入しているのだ。
先月の独言に突っ込みをいただいたのだが、確かにそうかも知れないと思う。販売目的でガッツリ運ばれてきたというよりも帰りの空荷を埋めるために煉瓦を積んで帰ったと考えられなくもない。
煉瓦の商圏?についてはいろいろ思うことがあり、書き始めると長くなりそうなのでここにだらだらと書くことにする。 時期にもよると思う。大阪で煉瓦生産が最盛期を迎えていた大正中期には遠くから持ってくるより地場産煉瓦を地場で消費するほうが手っ取り早かっただろうから他地方>大阪の輸入はそれほどなかったと思われる。しかし大正8年以降煉瓦生産が斜陽化し関東大震災でトドメを刺されてからは大阪府下で生産される煉瓦も激減した。堺・丹治・津守は大正末までに廃業しているし大阪窯業も貼付煉瓦とか耐火煉瓦とかセメント製造とかに軸足を移してく。岸和田煉瓦も綿業に手を出して二足草鞋で延命した。結果府下で生産される煉瓦の量は激減し、しかし建物基礎とか水回りとかいった特定用途の需要はあり続けたので、地「産」の減少の穴を埋めるようにして周辺地域から煉瓦が さかんに流れ込んでくるようになったように見える。大阪市街や豊中市で見られる他地域の煉瓦刻印は大半が大正〜昭和期の会社のものだ(松本煉瓦とか)。
MOWチョット現みつなことは、ってすげえ変換だな、もうちょっと厳密なことは鉄道輸送の統計とか港湾の輸出入とかで確認できるかもしれない。例えば大正末頃の鉄道貨物の状況は鉄道省「重要貨物調査」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984219/30で知ることができる。この時代には大阪駅やその前後に到着する煉瓦はさほど多くない。ただしこの統計の数値には耐火煉瓦も混じっているようなので工場密集地帯に着荷が多いのはチト吟味せねばならない。港湾はどうだろ、どっかに統計があった気がする。
ババ眠くなってきたので落ちる。